ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『比喩と象徴と歴史観』マタイによる福音書13:34〜35

聖書研究祈祷会 2025年5月7日

 


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の50番「みことばもて主よ」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆命の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。

◆私たちの神様。連休の間も、一人一人にあなたが呼びかけ、助けと恵みが与えられてきたことを感謝致します。どうか今、引き続き、助けを必要としている人、悩みや苦しみを覚えている人に、あなたの導きが豊かにありますように。

◆私たちの神様。親しい人を続けて見送り、悲しみと寂しさを覚えている人へ、あなたの慰めがありますように。どうか今、辛い気持ちや悔しい気持ちを吐き出す時間が与えられそれぞれに癒しと回復がもたらされますように。

◆私たちの神様。家族や親戚との関係、友達や同僚との関係、先輩や上司との関係で葛藤している人たちへ、あなたのお守りがありますように。どうか今、一人で解決できない問題に、知恵と力を貸す仲間と、必要な気づきがもたらされますように。

◆信仰と希望と愛をもたらす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書13:34〜35の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書26頁です。

 

同じく、マタイによる福音書13:34〜35の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書25頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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メッセージ

 今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「比喩と象徴と歴史観」というトピックについて、たとえを用いる理由が出てくるマタイによる福音書13章34節〜35節に焦点を当てて話していこうと思います。

 キリスト教系の破壊的カルトや、キリスト教の教えを一部取り込んでいる宗教カルトは、聖書に出てくるたとえ話や象徴的表現を利用して、組織の教えを正当化し、教祖やリーダーの正しさを主張することが多々あります。実際には、比喩やたとえとして書かれていない表現も、「これは○○の比喩だ」「○○をたとえているものだ」と強弁し、強引な解釈を施すこともよくあります。

 しかし、初めて聖書に触れる人や、キリスト教に触れて間もない人は、自分もよく知らないことであるため、強引な解釈だとは気がつかず、説得力のある説明と思い、素直に受け取ることも多いです。また、一見どういう意味か分かりづらい聖書の言葉が、何を比喩したものなのか、次々と「答え」を示してもらえるため、暗号が解けていくような、ワクワクした気持ちにもなってきます。

 よく、都市伝説や陰謀論系のトピックで、様々な企業のロゴマークや、お札に刻まれたしるしなどが「実は○○を意味している」と言われ、「そうだったらすごい」「そうだったら面白い」という気持ちが先行し、他のしるしやシンボルなど、目につくもの全てが「実は○○を意味しているんじゃないか?」「特別なメッセージが隠されているんじゃないか?」と思うようになるのと似ています。

 「聖書は比喩で書かれている」と過度に強調され、「これも○○の比喩で、あれも○○の比喩で、○○というメッセージが隠されている」という説明が過度に繰り返されていくと聞いている人も自然と「これも○○の比喩じゃないか?」「これも○○というメッセージになっているんじゃないか?」と考えるようになり、特定の思考パターンができていきます。

 陰謀論系の動画チャンネルやSNSが、あらゆる事件を闇の組織やディープステートに結びつけ、「警告する仲間を増やさなければならない」と思わせるように、聖書を用いた破壊的カルトのメッセージも、あらゆるたとえを宗教の学びと奉仕活動に時間を割くことの重要性に結びつけ、「喜んでリーダーに従わなければならない」と思わせてきます。

 さらに、「聖書の比喩が分かってきたあなたなら、今の時代がどのように預言され、何が起こると言われていたか、再びやってくると書かれている救い主とは誰のことか、分かるはずだ」と畳み掛けられ、その集団のリーダー「先生」こそ、再臨した救い主であると、自ら告白するように誘導していくんです。

 このように、キリスト教系のカルトでは、聖書の比喩が「組織の活動を最優先しなければならない」「喜んでリーダーに従わなければならない」という刷り込みに、しばしば利用されてしまいます。また、聖書の歴史観を持ち出して、今がどのような時代であるかを示すことで、自分たちの「先生」が特別な存在であることを示そうとするカルトもあります。

 ようするに、自分たちの生きている現代こそ、救い主が再びやってくると言われた「新しい時代」で、自分たちの従っている先生こそ、再びこの世に生まれた救い主(あるいは啓示を受けた預言者)その人である……と主張するために、なぜ現代が「新しい時代」と言えるのか、多くのたとえを解き明かすことで説明するわけです。

 たとえば、「神様は、天上の秘密について、比喩を使って語っており、人間がその比喩を解くのは困難で、隠された教えの根本を伝えられる者はいなかった」「しかし、比喩の解き方を持っている『先生』が現れたことで、今まで語られなかったたとえの意味を、正しく伝えられるようになった」「こんなふうに聖書の比喩を解き明かせるところは他にない!」といふうに言われ、他の教会では聞けない説明を受けていきます。

 しかし、「他の教会では聞けない教えが語られる」というのは、裏を返せば、「他の教会では通用しない、認められない教えが語られている」または「他の教会でどのように教えられているか、どのように考えられているか、その団体がよく分かっていない」ということでもあります。

 カルト団体が「自分たち以外のキリスト教会では聖書の比喩を文字通りに捉えている」とか「聖書の時代性を分かっていない」とか「科学を否定している」などと言って、自分たちが最先端の教えを知っているように語ってしまうのは、現代に至るまで発展してきた聖書考古学や聖書批評学の幅広い見解をきちんと踏まえていないからです。

 実際には、保守的なキリスト教会でも、比喩として出てくる聖書の言葉を全て文字通りに捉えようとすることは、そうありません。基本的に、明らかに比喩として語られていると分かるものは、どの教会も比喩として捉えます。また、リベラルな教会であれば、「非神話化」などの方法論を用いて、聖書に出てくる超常現象のような出来事が、現代においてどのように捉え直され、どのような意味を見出せるか、問い直す解釈も行われています。

 「他の教会では○○と教えられているが、それは間違っている」と言われるとき、本当に、他のキリスト教会が、そのように教えているのかどうか、注意して聞かなければなりません。実は、数十年前に、一部の教会で語られていた解釈を、未だに全国で教えられているかのように語っている人もいるからです。

 また、比喩に使われている単語が、聖書全体でどのように用いられているか細かく調べ、たとえの意味を分析する作業を「釈義」と言いますが、カルト団体ではこの作業を怠って、都合の良い数箇所だけを取り上げて、自分たちの持つイメージの連想で、新しい解釈を作ってしまいます。

 もちろん、まともな神学校でそのような説教(メッセージ)を作れば、口酸っぱく釈義の大切さを教えられ、指導を受け直すことになるでしょう。一見、説得力があるように見える、比喩についての説明も、実は、恣意的な聖書箇所の引用と連想ゲームで、それっぽく成り立たせていることもあるんです。

 「聖書の時代性」についても、通常の神学校あれば、「様式史」や「歴史批評」など、物語の形式や同時代の文献、考古学的な発見から、聖書の解釈を試みてきた方法論について教えられますが、キリスト教系のカルトは、そういった聖書学の発展を踏まえないまま、他の教会のことを「聖書の真髄が分かっていない」と批判します。これは、脱会した人が後から学び直して、過去の認識が恥ずかしくなる要素の一つになっています。

 また、カルト団体では、今が特別な時代で、今こそ自分たちの先生を信じて、教えに従わなければならないと強調するために、歴史を大きく「旧約の時代」「新約の時代」「新しい時代」の3つに分けて、現代は神様から特別な方が遣わされた「新しい時代」であると説明することがあります。

 「旧約の時代」は律法を守ることで、神と人とが主従関係へ至るように、「新約の時代」は信仰を持つことで、神と人とが親子関係へ至るように、「新しい時代」は神の教えを実践することで、神と人とが夫婦関係へ至るようにされている……と語り、「先生」によって、たとえの意味が明らかにされ、何を実践すればいいか示されている現代は、ただ信じる、ただ祈るような時代ではなく、教えを実践すべき時代である……といったような説明です。

 そうして、「新しい時代」にいるのに「古い時代」へ後戻りしてはならないと、教えられたことを実践し、行動に移すよう、強烈に信者をコントロールします。このような歴史観を植え付けることで、「置いていかれたくない」「後戻りしたくない」という意識を強め、言うことを聞いて前へ進み続けるよう、促すわけです。

 しかし、神と人との関係は、旧約においても新約においても、様々な表現で記されており、「この時代は主従関係で、この時代は親子関係で、この時代は夫婦関係」というふうに時代ごとに限定できるものではありません。むしろ、どの時代においても、神様が私たちを主人として導き、親として守り、パートナーとして迎えてくださる多様な側面が描かれています。旧約だから主従関係、新約だから親子関係と限定的に分けることはできません。

 また、律法を守ること、信仰を持つこと、教えを実践することは、いずれも切り離せるものではなく、これも、時代ごとに限定されていたと言えるものではありません。もちろん、聖書の記述から歴史をいくつかに区分する試みは、カルトでない一般的なキリスト教会でも見られるものですが、先に述べたような区分の説明は、非常に恣意的な説明で、あまり誠実とは言えません。

 しかし、聖書を用いて信者をコントロールする破壊的カルトは、「時代を見分ける目を持ちなさい」と強調し、今が再臨した救い主の遣わされた時代であり、その人が聖書の秘密を解き明かすのを聞いて、自分も悟ることができなければ、古い時代に取り残され、置いていかれてしまう……と不安を抱かせます。

 そして、イエス様がたとえで語ったのは、自分をメシアだと悟る者には意味が分かり、自分をメシアだと悟らない者には、意味が分からないようにすることで、悪い噂を流されるなどの問題を防ぐためだったと説明し、自分たちの「先生」も、メシアだと悟らない者から攻撃を受けないように、外部には「先生」をメシアだと信じていることを伏せるように教育します。

 これが、「正体や目的を隠した偽装勧誘」の正当化に使われてしまい、宗教であることを伏せて、サークルや勉強会、ボランティアや相談室などを装った伝道活動を行わせ、家族には「普通のキリスト教だ」と言って、どこの教会に行っているかは明かさずに、共同生活や奉仕活動を行わせることにつながっています。

 しかし、イエス様を救い主メシアと信じていた弟子たちも、イエス様のたとえを聞いてその意味を悟ることができず、どういう意味かイエス様に尋ねていたことが福音書に記されています。

 また、マタイによる福音書21章33節〜45節には、イエス様が祭司長たちやファリサイ派の人々に向かって、ぶどう園の農夫がぶどう園の主人の息子を殺してしまったたとえを語り、その農夫とは自分たちのことを言っていると、彼らが気づいた話も出てきます。祭司長たちやファリサイ派の人々は、怒ってイエス様を捕えようとし、その後もイエス様を殺そうと狙うようになりました。

 実は、イエス様をメシアと認めない人たちも、たとえ話の意味を悟ったり、彼らにたとえ話を聞かせたことで、命を狙われるような問題が起きたこともありました。イエス様は単純に、「分かる人には分かるように」「味方だけが分かるように」たとえを語ったわけではないんです。

 最初に読んだ、マタイによる福音書13章34節〜35節には、イエス様がたとえを用いる理由について「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書かれ、「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」という詩編78編2節が引用されていました。

 その預言は、もともと神様に逆らっていた頑なな民が、神様に逆らったまま、頑ななまま、不誠実な世代とならないように、神様に信頼を置いて、神様の業を忘れない民となるように、教えを聞けるようにするという預言でした。イエス様のたとえを聞いた人々は、弟子たちを含め、皆最初は意味が分からず、つまずいたり、反発したりしていきますが、イエス様に尋ね求めるうちに、だんだんと教えを悟り、受け入れる者へ変わっていきます。

 「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」人たちが、そのまま放置されることなく、「見て、聞いて、理解する」者へ変えられていく様子が、聖書全体を通して語られています。実際、イエス様の弟子たちは、イエス様から直接、自分が十字架にかかって3日目に復活することを聞いても、その意味を理解することができませんでした。復活したイエス様が自分たちの前に現れても、それが再び来られたイエス様だとすぐには気づきませんでした。

 しかし、イエス様は彼らに呼びかけ、彼らに近づき、彼らに触れて、信じない者ではなく信じる者となるように、どこまでも付き合い続けます。イエス様がたとえで教えを語られたのは、たとえの意味を尋ね求める私たちと、一緒に悩み、一緒に迷い、一緒に意味を見出すためです。答えを知っている者を特別扱いするためではなく、答えを探している者と一緒に歩んでいくためです。

 共に、イエス様から与えられた言葉と向き合い、一緒に悩み、一緒に迷い、新しい意味を受け取らせてくださる、神様の導きを信頼しましょう。神様の平和が、あなたがた一同と共にありますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている大阪府大阪市の扇町教会のために、働いている人のために、働こうとしている人のために、働けない人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆大阪府大阪市の扇町教会のために祈ります。幼な子や心身に辛さを覚えている人、死別の痛みを抱えている人に、あなたの助けがありますように。教会学校の礼拝が、これからも豊かに守られて、そこに訪れる子どもたちへ、あなたの祝福がありますように。

◆働いている人のために祈ります。様々な分野で働いている人たちに、あなたの労いがありますように。それぞれの現場で不遇な扱いを受けないように、互いにリスペクトを持てるように、一人一人を導いてください。

◆働こうとしている人のために祈ります。これから社会に出ていく人や、社会復帰を目指している人に、あなたの励ましがありますように。プレッシャーや焦りから守られ、それぞれのペースで社会との接点が築けるように、あなたがそばにいてください。

◆働けない人のために祈ります。休む必要のある人や、仕事を控えなければならない人、仕事を得られる機会の少ない人たちに、あなたの支えがありますように。それぞれの環境が整えられ、十分なケアとサポートが受けられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌24番「イェスは今日あなたを」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は、『聖書における動物の比喩』と題して、イザヤ書46:8〜13のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。