聖書研究祈祷会 2025年5月14日
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
讃美歌
讃美歌21のの60番「どんなにちいさいことりでも」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。
お祈り
ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。
◆命の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。
◆私たちの神様。病気や怪我、衰えや障害、孤独や貧困に悩んでいる人へ、あなたの助けがありますように。どうか今、それぞれに必要な癒しと助けがもたらされ、回復へと導かれるよう、私たちを互いに遣わしてください。
◆私たちの神様。今度の日曜日には、イースターから延期していた墓前礼拝を行います。天に召された方々を思い起こし、希望と慰めを分かち合います。どうか今、愛する人を見送った全ての人に、あなたの導きが豊かにありますように。
◆私たちの神様。来週には、名古屋中央教会で中部教区の総会が開かれます。教区の課題や計画について、様々な協議が行われます。どうか今、一つ一つの教会が支え合っていけるように、誠実な議論ができるよう、私たちを導いてください。
◆愛と平和をもたらされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖書朗読
聖書の言葉を聞きましょう。イザヤ書46:8〜13の新共同訳を朗読します。会衆席にある旧約聖書1138頁です。
同じく、イザヤ書46:8〜13の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の旧約聖書1122頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |

メッセージ
今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで、聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「聖書における動物の比喩」というトピックについて、猛禽の比喩が出てくる、イザヤ書46章8節〜13節に焦点を当てて、話していこうと思います。
さて、「聖書における動物の比喩」というタイトルで、なぜ最初に「猛禽」について取り上げるのか、皆さんも疑問に思ったと思います。実は、キリスト教系のカルト団体の中には、先ほど読んだイザヤ書46章8節〜13節に出てくる「猛禽」が、自分たちの「先生」教祖をたとえていると説明し、その言葉に従うようコントロールするところがあります。
預言者が11節で「私は東から猛禽を/遠くの地から私の計画を実現する者を呼ぶ」と言っているのは、神様が自分たちの「先生」をメシア(救い主)として召し出し、「先生」の生まれた東の国、極東にある熱心なキリスト教国へ、再臨主として誕生させるという意味だ……と説明したりして、教祖を特別な存在だと信じさせるわけです。
ここで「猛禽」と言われているのは「鷲」のことで、「鳥類の王」である「鷲」は、救い主(メシア)をたとえたものだと教えられます。その根拠として、出エジプト記19章4節の「あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを」という神の言葉が引用されます。
つまり、奴隷だったイスラエル人をエジプトから脱出させたモーセのような、時代の中心人物が「鷲」にたとえられていると説明し、イザヤ書で預言者が語った「猛禽」も、この時代の人々を救う教祖「先生」を意味していると言うわけです。しかし、出エジプト記19章4節に出てくる「鷲」という表現は、申命記32章11節で、モーセ自身が語るように、神に遣わされた自分のことではなく、「神の業」そのものをたとえているものです。
実際、神様が「イスラエルの民をモーセの翼(モーセの手)に乗せて連れてきた」というよりも、「イスラエルの民をご自分の翼(ご自分の手)に乗せて連れてきた」という方が自然なように、「鷲」は「モーセ」を表しているというより「神の手による業そのもの」を表しています。
では、聖書全体では「鷲」はどのように描かれているんでしょう? レビ記や申命記では鷲の仲間である「はげ鷲、ひげ鷲、くろひげ鷲」などの猛禽類を「汚らわしいもの」として扱うよう指示されており、食べてはならないと言われています。また、神に背いた民へ差し向けられる敵の姿にも「鷲」がたとえられています。
一方、ヨブ記では「神に養われるもの」として、詩編では「神に力を与えられたもの」として、エゼキエル書やダニエル書やヨハネの黙示録では「神に仕えるもの」として、「鷲」がたとえられています。そうかと思えば、ホセア書やオバデヤ書では、再び「神の民を襲う敵」として描かれます。
このように、「鷲が表しているのはメシア(救い主)のことである」とは一概に言えず、肯定的な表現にも否定的な表現にも使われていることが分かってきます。それでは、「鷲」ではなく「猛禽」という言葉なら、聖書全体で「メシア(救い主)」を表していると言えるでしょうか?
こちらも改めて見てみると、ヨブ記では「神の知恵には至らないもの」として、イザヤ書では「神に養われるもの」として、エレミヤ書では「弱った人々を狙う敵」として、エゼキエル書では「敗北した敵の死体に群がるもの」として、「猛禽」の姿が描かれていました。頼もしい味方にも、汚らわしい敵にも用いられている表現です。
やはり、「猛禽」は「救い主(メシア)」を直接意味するものとは言いづらく、神に養われる対象や、神に用いられる対象、あるいは、神に背いた人間を襲ってくる存在として、描かれていました。また、「猛禽」という言葉が、「鷲」のことを意味していると断定できる箇所もなく、カラスや鷹など、他の鳥でも当てはまりそうな感じです。
このように、キリスト教系のカルト団体では、「聖書に書かれていることは、聖書で解かなければならない」と言って、あちこちの聖句を引用し、自分たちに都合のよい解釈を施しますが、本当に、聖書で聖書を解いているのか? 実際には、聖書を連想ゲームで解いてないか? 注意することが必要です。
たとえば、出エジプト記23章28節の口語訳では、神様がイスラエルの人々に向かって、「わたしはまた、くまばちをあなたの先につかわすであろう。これはヒビびと、カナンびと、およびヘテびとをあなたの前から追い払うであろう」と語った言葉が出てきます。
この「くまばち」が、モーセとヨシュアとその軍隊を指していると教えられ、神様が遣わした「先生」に背いたら、モーセやヨシュアに背いたヒビ人、カナン人、ヘト人のように追い出され、天国へ入れない……と言われることがあるかもしれません。くまばちには女王を中心とした優れた組織と軍事力があり、全ての蜂が遊ばないで働くことから、モーセとヨシュアとその軍隊も、くまばちにたとえられたと聞くかもしれません。
しかし、新共同訳や聖書協会共同訳で、同じところを開いてみると、「くまばち」と訳されていた言葉は「恐怖」という言葉に訳し直されています。実は、聖書に出てくる「くまばち」の多くは、くまばちそのものを表すというより、他のミツバチや、特にスズメバチを指していると考えられています。
なぜなら、くまばち自体は温厚で、ほとんど人を襲いませんし、巣の周囲でも他の個体へ激しい排斥行動は行いません。くまばちの性質と、軍隊の性質を連想ゲームで結びつけ「モーセとヨシュアとその軍隊を指している」というのは、けっこういい加減な解釈であることが分かります。
また、ペトロの手紙二22節で、「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」ということわざが挙げられていることから、「犬は過ちを繰り返す人で、豚は物事の価値が分からない人」をたとえていると説明され、犬のような人、豚のような人は天国に入れないと教えられることも、あるかもしれません。
確かに、ヨハネの黙示録22章15節に「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる」と記しているため、過ちを繰り返す犬のような人、教えの価値が分からない豚のような人は、天国に入れないと思うかもしれません。
マタイによる福音書7章6節でも、イエス様が「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」と言っているため、自分たちを批判する人、自分たちを理解しない人には、聖書のメッセージを語ったり、礼拝へ連れてきたりして、御言葉を与えてはならないと思わされるかもしれません。
一方でイエス様は、「信仰の敵」と思われ「子犬」と呼ばれていた異邦人の女性に「あなたの信仰は立派だ」と宣言し、彼女の娘を癒したこともありました。自分の言葉を聞いても理解せず、自分の業を見ても受け入れない人たちに、聞いて理解するまで、見て受け入れるまで、死を超えて、出会い続ける方でした。
「犬のような人、豚のような人は天国に入れない」とか「御言葉を与えてはいけない」「メッセージを語ってはいけない」とか、簡単に言ってしまうことはできません。人には不可能と思われたことを実現してきたイエス様が、どんな人にも出会いに行って、どこまでも付き合い続けたことを、忘れてはなりません。
このように、聖書における動物の比喩は、様々な形で出てきますが、どこかの箇所を取り上げて、一概に、「これは○○をたとえている」と言い切ることはできません。次々と、連想ゲームのような説明で、聖書を解き明かそうとする試みには、慎重にならなければなりません。それは結局、陰謀論にのめり込むのと変わらない姿勢だからです。
むしろ、あるところでは否定的に表現されていたものが、別のところでは肯定的に表現されたり、意味をひっくり返されている、聖書の大胆なストーリーに、希望を見出してほしいと思います。死から命へ、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、変化をもたらす神様が、今日も、あなたに平安を与えてくださいますように。アーメン。
とりなし
共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている大阪府大阪市の都島教会のために、教会学校のために、芽含幼稚園のために、白百合の会のために、祈りを合わせましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。
◆大阪府大阪市の都島教会のために祈ります。6年かけて、宗教法人を取得した教会に、あなたの助けがこれからも与えられますように。障がい者や病人、外国から来て孤立している人たちに、あなたの癒しと導きが豊かにありますように。
◆教会学校のために祈ります。幼稚園の子どもたちや卒園生の小学生、ミッションスクールや近所の中高生に、あなたの恵みがありますように。新しく来てくれるようになった子どもたちに、安心できる居場所と希望がもたらされますように。
◆芽含幼稚園のために祈ります。少しずつ、幼稚園に慣れ始めた新入生や、お兄ちゃん、お姉ちゃんになった子どもたちに、あなたの祝福がありますように。新しい出会いと発見がいっぱいあって、緊張していた子どもたちも、楽しく過ごせる場所となりますように。
◆白百合の会のために祈ります。今月22日の木曜日に開かれる保護者の集いが、子育てに悩む一人一人に、支え合う仲間と励ましを与えてくれますように。在園生、卒園生、近所の子どもたちの家族に、あなたの慈しみが豊かに注がれますように。
◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌11番「どうか平和の主が」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り
共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。
よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は、『聖書における植物の比喩』と題して、マタイによる福音書13:10〜17のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。