聖書研究祈祷会 2025年6月11日
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
讃美歌
讃美歌21の156番「目を上げ、わたしは見る」を歌いしょう。最後の「アーメン」は、つけずに歌います。
お祈り
ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。
◆聖霊の送り主である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。
◆私たちの神様。先日の日曜日は、天から聖霊が送られて、世界中に教会が造られていったことを記念する、ペンテコステの礼拝を持つことができました。どうか今、弟子たちが新しく送り出されていったように、私たちも新たに送り出してください。
◆私たちの神様。新しく華陽教会で洗礼を受け、信徒の群れに迎えられた人の上に、あなたの恵みが豊かにありますように。どうか今、洗礼を受ける準備中の人、洗礼を受けようか迷っている人、学びの最中にある人へ、引き続き、あなたの導きがありますように。
◆私たちの神様。戦争や紛争、迫害や弾圧、抑圧や暴力に苦しめられている人に、あなたの助けがありますように。どうか今、金銭的、身体的、精神的被害から、人権侵害や関係性の破壊からみんなが守られ、回復がもたらされるように、私たちを導いてください。
◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖書朗読
聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書9:10〜17の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書121頁です。
同じく、ルカによる福音書9:10〜17の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書120頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |

メッセージ
今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「聖書における生活の比喩」というトピックについて、5つのパンと2匹の魚が出てくる、ルカによる福音書9:10〜17に焦点を当てて話していこうと思います。
聖書には、様々なたとえ話の他に、現実に起こるとは思えないような不思議な奇跡も描かれています。その中でも有名な奇跡の一つが、空腹だった5千人以上の人々に、イエス様が5つのパンと2匹の魚を分けて、全ての人を満腹にさせ、余ったパン屑を集めると12の籠が一杯になった、というエピソードです。
この奇跡をどのように捉えるかは、同じキリスト教会の中でも幅があり、様々な解釈がなされています。イエス様が手元にあった僅かなパンを祝福し、感謝の祈りをささげたことで、文字どおりパンが増えていった……という解釈もあれば、僅かな食事に感謝して、みんなで分けようとするイエス様の姿勢に心を打たれ、パンを隠し持っていた人たちが、互いに分け合い、全ての人に行き渡った……という解釈もあります。
後者は「非神話化」と呼ばれる方法論による解釈で、神話のような非現実的な出来事を現代の視点からどのように捉え、どのようなメッセージを受け取ることができるだろうか? という視点で、聖書のエピソードを様々な角度から捉えようとしたものです。他にも、湖の上を歩く奇跡や、悪霊を追い出す奇跡など、現代では、そのまま受けとめることが困難な記述について、「非神話化」による解釈が行われています。
ところが、キリスト教系の破壊的カルトの中には、こういった聖書学の発展や、幅広い方法論を踏まえずに、「他の教会は全て、聖書を文字どおり捉えるように教えている」「科学を否定するような捉え方をさせている」と訴えて、自分たちの解釈こそ、最先端の正しい解釈だと主張しているところがあります。
そして、聖書の中で、たとえ話として語られているものだけでなく、「奇跡」や「不思議な業」として語られている記述まで、「これは○○を比喩したものである」と強引な解釈に結びつけ、組織に都合の良いメッセージを語り、信者をコントロールしてしまうところもあります。
たとえば、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人々を満腹にさせた出来事も、実際には、パンと魚を配ったわけではなく、パンと魚は別のものを表す比喩だったというような主張です。ここでは、「パンとは『御言葉』(神の言葉)を表しており、人々がイエス様から御言葉を聞いて、心が満たされたことを意味している」「集めたパン屑で一杯になった12の籠は、イエス様の言葉を聞いた弟子たちも、パン屑程度の御言葉を伝えられるようになったことを表している」というふうに教えられることがあります。
確かに、イエス様は様々なたとえに「パン」を持ち出し、「わたしは命のパンである」と言ったり、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言ったりして、弟子たちに教えを語っていました。しかし、あるたとえ話に「パン」が出てきたからと言って、他の記述に出てくる「パン」も全てが何かの比喩であるとは言えません。
実際、ルカによる福音書9章10節以下では、イエス様がパンと魚を配る前に、集まっている人々に向かって、「神の国について語り、治療の必要な人々を癒しておられた」と書かれていました。パンが御言葉を表しているなら、イエス様が神の国について語った時点で、人々の心は満たされて、満腹になっているという描写にならないとおかしいです。
また、マタイによる福音書4章で、イエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受け、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言われたとき、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答え、石をパンに変えるという奇跡は起こしませんでした。
しかし、パンが御言葉を表しているなら、石をパンに変えることは、むしろ、悪魔への勝利を表す話に感じられます。聖書に出てくる奇跡や不思議な出来事が、あれもこれも「何かの比喩」として語られているなら、この出来事も、「イエス様が何の奇跡も起こさなかった」話ではなく、「何か奇跡を起こして悪魔に勝った」話として描かれていたと思います。
たとえば、「石をパンに変える出来事は、神を受け入れない頑固な心が、御言葉で満たされた状態に変えられることを比喩している」と説明される話になっていたでしょう。けれども、イエス様が石をパンに変えたという話は語られません。現実とは思えない出来事だからと言って、それらが全部、比喩として書かれているとは言えないんです。
また、ヨハネによる福音書4章には、イエス様から「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われた女性が、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくていいように、その水をください」とお願いするシーンが出てきます。
しかし、イエス様が女性に対して直接「水」を与える描写は出てきません。ここでは、イエス様の言葉の中で、「水」が、「神の言葉」や「新しい生き方をもたらす力」にたとえられていますが、イエス様がとった行動は、何かの比喩ではなく、実際にとった行動として記されています。もし、イエス様の行動まで含めて比喩になっているとしたら、イエス様がこの女性に「水を渡した」という表現になっているはずです。
けれども、キリスト教系の破壊的カルトや、キリスト教の教えを一部取り込んだ宗教カルトは、「たとえとして語られている記述」なのか、「そのまま受けとめるべき記述」なのか、十分な検証を行わないで、自分たちに都合よく「これは○○の比喩である」と言って特別な教えのように語っていることがしばしばあります。
たいていは、権威づけと信者のコントロールのためです。他のことを蔑ろにしてでも、教祖に従うことが一番正しいと思わせるように、聖書に出てくるあらゆる記述を、組織に従わせるための比喩に使います。自分や他のことは二の次にさせ、とにかく組織でがんばるように促してきます。
しかし、イエス様は、自分のもとに集まってくる人たちが、「霊的に満たされればそれでいい」というような態度ではなく、病に苦しんでいる人、空腹に苦しんでいる人が、放置されないように、困窮している人たちへ手を伸ばしていきました。病を放置して、空腹を放置して自分の教えを学ぶように、自分に従うように、強要なさいませんでした。
けれども、破壊的な傾向が強い教会では、寝不足であろうと、体が壊れようと、子どもを長時間放置しようと、組織の教えを一生懸命学ぶことで霊的に満たされると語り、学校を辞めようと、仕事を辞めようと、家族との関係が壊れようと、組織の活動に心血を注ぐことで地獄を免れ天国へ行ける……と教えます。教会に多くの時間と労力を割かせるために聖書を都合よく用いてきます。
これが、健全な信仰継承と、信仰継承を装うコントロールの違いです。改めて、私たち自身も、聖書の記述を強引に何かと結びつけ、都合の良い解釈をしてないか? 良い知らせ(福音)を伝えるためというより、会員獲得やコントロールのために聖書の比喩を利用してないか? 一緒に向き合いつつ、誠実にメッセージを受け取っていきたいと思います。
とりなし
共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている大阪府大阪市の在日大韓基督教会大阪西成教会のために、新来者のために、受洗者のために、会衆の家族のために、祈りを合わせましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。
◆大阪府大阪市の在日大韓基督教会大阪西成教会のために祈ります。教会に連なる中高生や青年たちに、あなたの慈しみが豊かにありますように。牧師、長老、会衆が誠実に支え合い、与えられた使命を果たしていくことができますように。
◆新来者のために祈ります。新しく教会へ来てくれた人、これから来ようとしている人にあなたの祝福がありますように。迎える私たちも、新しい出会いと関係を大切にしていくことができますように。
◆受洗者のために祈ります。新しく神の民に迎えられた信徒に、あなたの恵みがありますように。互いに信仰生活を支え合い、共に、喜びを分かち合っていくことができますように。誰かが祈れないとき、一緒にとりなす関係を作っていくことができますように。
◆会衆の家族のために祈ります。教会に集まる一人一人のご家族に、あなたの憐れみがありますように。それぞれに、癒しと回復がもたらされ、悩んでいること、苦しんでいることに解決の光が当てられますように。
◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌3番「閉じこもるわたしたちに」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り
共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。
よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は、『神の言葉と火の裁き』と題して、エレミヤ書23:25〜32のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。