ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神の言葉と火の裁き』エレミヤ書23:25〜32

聖書研究祈祷会 2025年6月18日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の349番「神の息よ」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆私たちと共におられる神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。

◆私たちの神様。先日の日曜日は、礼拝後に、ぶどう園の集いの音楽会を開き、教会のみんなで温かい交流のときを持つことができました。どうか今、これからも、教会で出会った人たちと豊かな関係を築いていくことができますように、

◆私たちの神様。来週の日曜日には、礼拝後に芽含幼稚園の評議員会が開かれます。学校法人法の改正に伴い、寄付行為も変わって、新しい体制が始まります。どうか今、誠実に子どもたちとの関係を築いていくことができるように、私たち大人を導いてください。

◆私たちの神様。梅雨の季節を迎え、心身の調子を崩しやすい時期になりました。どうか今、会衆一人一人の健康と体調が整えられ、怪我や病気が回復し、恵みと希望を受け取ることができますように。互いに支え合う者として、私たちを送り出してください。

◆全ての者を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。エレミヤ書23:25〜32の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書1206頁です。

 

同じく、エレミヤ書23:25〜32の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の旧約聖書1221頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Myriams-FotosによるPixabayからの画像

メッセージ

 今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「神の言葉と火の裁き」というトピックについて、偽預言者と裁きについて書かれている、エレミヤ書23:25〜32に焦点を当てて、話していこうと思います。

 キリスト教系の破壊的カルトやキリスト教の教えを一部取り込んでいる宗教カルトは「世の終わり」「終末」の裁きを持ち出して「信じなければ地獄に落ちる」と脅迫し、多くの信者を獲得しようとしてきます。ただし、必ずしも「脅されている」「怖がらせている」とすぐ分かるほど、あからさまに、不安や恐怖を煽ってくるとは限りません。

 むしろ、一部のキリスト教会に見られる「原理主義」「根本主義」の弱点をついて、終末についての新しいイメージを語ることで、「客観的で」「説得力のある」「優しい」団体だと思わせるカルトも存在します。その際、一部のカルトに特徴的な「比喩」や「たとえ」の濫用が用いられます。

 つまり、「聖書に書いてあることは、そのまま事実として、現実になることとして、字義どおり受け取らなければならない」と強調する、原理主義に問題を感じる人たちへ、「聖書は比喩で書かれている」と強調し、教祖に都合の良い解釈を施す一部のカルトが、説得力を持ってしまうわけです。

 たとえば、「聖書には、終末における『火の裁き』が預言されているため、今日のキリスト教会では、世の終わりに、イエス様が再び来られるとき、神様がこの世を火で裁くと、文字どおり信じられている」「キリスト教では、終末における『火の裁き』を核戦争だと捉えており、神様が戦争や天変地異を起こして、多くの人を死に至らせると教えている」などと訴えます。

 そうして、「憐れみ深い神様が、果たしてそんなことをするでしょうか?」「このような受け取り方は、果たして正しいんでしょうか?」と人々に問いかけ、他のキリスト教会への不信感を募らせて、自分たちの方が、まともな団体であると思わせるわけです。

 また、テサロニケの信徒への手紙一4章の後半で、世の終わりに、イエス様が再び天から降ってきて、死んだ者たちを復活させ、生き残っている者たちを空中に引き上げて連れていく……と書かれているのも、キリスト教徒はそのまま信じており、空中へ引き上げられるとき困らないように、ダイエットしたり、スカートを履かなかったりする、と言って極端な姿勢を指摘されることもあります。

 もちろん、「聖書に書いてあることは字義どおり受け取らなければならない」「終末についての記述は、そこに書いてあるとおり、そのまま現実になると信じなければならない」と主張している原理主義は、キリスト教会の一部に見られる限定的な立場であって、キリスト教会全体の共通認識でも、一般論でもありません。何なら、今言った「空中再臨」や「携挙」と言われる教えを聞いたことのないキリスト教徒もたくさんいます。

 いわゆる主流派「メインライン」の教会では、進化論をはじめとする科学的な成果を受け入れ、時代的制約を受けた聖書の記述を現代の視点から受けとめようとし、極端な字義的解釈は退けるのが普通です。終末における火の裁きをそこまで強調することも、「世の終わりに核戦争が起こる」と騒ぎ立てることも、ほとんどありません。むしろ、終末について話すこと自体が少ないです。

 にもかかわらず、一部のカルトは、「他のキリスト教会はみな、聖書に書いてあることを字義どおりに受け取って「世の終わりに核戦争が起こる」と主張している……と訴えて、極論な主張が一般論になっているかのように語ります。反対に、自分たちは聖書の記述が比喩であることを正しく伝え、救いのために何をしなければならないか教えられると主張します。こうして、「自分たちの方がまともで説得力がある」と思わせるわけです。

 たとえば、エレミヤ書23章29節の「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」という言葉を引用し、「火」とは「神の言葉」を意味しており、終末における「火の裁き」も、「この世界を火によって裁く」という話ではなく、「神の言葉によって裁く」という意味だ……と説明します。

 つまり、神の言葉を聞いて信じていない人たちは、核戦争によって滅ぼされるわけではないけれど、霊的に成長できず、霊界で救われないと教えるわけです。一見、「信じなければ、核戦争で滅ぼされる」という教えほど、脅迫的ではないように感じますが、結局、目に見えない「霊界」や「霊的な死」を強調し、不安や恐怖を煽ってコントロールするという点で、問題であることは変わりません。

 また、イエス様が、世の終わりの前兆について答えるシーンで、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」と語った言葉も「天変地異が起きて世界が終わる」という意味ではなく、「新しい時代の転換期が訪れることの比喩である」と説明されることがあります。

 太陽と月と星と言えば、創世記37章のヨセフの夢に登場するモチーフです。この話では、ヨセフが夢の中で見た「太陽と月と11の星が、自分に向かってひれ伏す光景」が、後に、家族全員を飢餓から救うことになるヨセフに、父と母と11人の兄弟がひれ伏して拝むことになる予兆であったことが明かされます。

 そのため、終末における太陽と月と星の記述も、新しい支配者が訪れる、時代の転換期を指していると説明され、聖書に出てくる終末は、戦争や天変地異による世の終わりではなく、古い支配体制から新しい支配体制へ変わる、時代の転換期を指していると教えられます。もっとあからさまに言うなら、キリストの代わりにやってきた教祖が、世界を支配する新しい時代がやってきたことを意味している……と言うわけです。

 ただし、ヨセフの夢に出てくる太陽と月と星に関しては、明確に何かをたとえた「夢」として出てきますが、終末について語っているところに出てくる太陽と月と星に関しては、天変地異なのか、別のものの比喩に使われている表現なのか、明確に判断できる根拠はありません。

 もともと、聖書に出てくる天体の動きは、この世界を作った神様の大いなる力や、自然を支配する力を表す記述に繰り返し出てきます。つまり、神様の力の大きさを表す比喩とも取れますし、その力で起こされる天変地異そのものとも取れますし、そう簡単に、「これは○○の比喩だ」と断言できるところじゃないんです。

 このように、キリスト教系の破壊的カルトは、キリスト教会の一部に見られる弱点や課題をつきながら、自分たちに都合の良い解釈を説得力があるものとして刷り込んできます。しかし、その根っこにあるのは、神の言葉を誠実に受けとめようとする姿勢ではなく、教祖のために信者をコントロールしようとする姿勢です。

 私たちも、聖書の受けとめ方の課題について向き合いながら、脅迫的な教えに振り回されず、憐れみ深い神様への信頼に基づく信仰を養っていきたいと思います。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている大阪府茨木市の茨城教会のために、洗礼を受けた人、洗礼を受けようとしている人、教会に来るのが困難な人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆大阪府茨木市の茨城教会のために祈ります。創立130周年を迎えたこの教会に、あなたの祝福がありますように。一人でも多くの方が教会へ招かれて、恵みを豊かに分かち合うことができますように。教会付属めぐみ幼稚園の働きがこれからも守られますように。

◆洗礼を受けた人のために祈ります。洗礼を受けて教会へ迎えられた方々に、あなたの慈しみがありますように。信仰生活の中で出てくる悩みや疑問と一緒に向き合い、新しい気づきや発見を得ていくことができますように。

◆洗礼を受けようとしている人のために祈ります。受洗勉強会や受洗準備会に参加している方々に、あなたの導きが豊かにありますように。本人や家族が不安に思っていること、心配していることと一緒に向き合い、共に喜びを分かち合うことができますように。

◆教会に来るのが困難な人のために祈ります。病気や怪我、生涯や衰え、仕事や育児や介護など、様々な事情で礼拝へなかなか行けない人に、あなたの憐れみがありますように。必要な助けがもたらされ、共にあなたの言葉を受け取ることができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌22番「神よ あきらめない心」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は、『終末とは何なのか?』と題して、ペテロの手紙二3:10~13のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。