ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『邪説を唱える者』使徒言行録20:17〜35

日曜礼拝 2025年8月24日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を/悪事を謀る者の手から助け出される。(エレミヤ書20:13)

 

讃美歌

旧讃美歌519番「わが君イェスよ」を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。牧師が帰省していた2週間、華陽教会の礼拝と集会を守ってくださり、感謝致します。どうか今、ご奉仕くださった信徒や役員、大塚先生や鈴木先生の上に、あなたの祝福が豊かにありますように。

◆私たちの神様。牧師の身内をはじめ、信徒の身内や会衆の姉妹・兄弟を癒してくださり感謝致します。どうか今、治療を続けている方や療養中の方々に、あなたの助けと励ましが豊かにありますように。

◆私たちの神様。20日と21日に行われた岐阜地区サマーキャンプも、無事に子どもたちと行うことができ、感謝致します。どうか今、夏休み中の子どもたちが、事故や怪我から守られて、たくさんの喜びや発見を得られるように、引き続き導いてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録20:17〜35の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書254頁です。今回は聖書箇所が長いので、新共同訳のみ朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編57:2〜12、新共同訳交読詩編の65頁です。

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の526番「苦しみ悩みの」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

PexelsによるPixabayからの画像

メッセージ

 「あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」使徒言行録20章30節に出てくる言葉は、教会にいる私たちを動揺させます。この言葉は、宣教者パウロが、エフェソの教会にいる人々へ、遺言として語ったものでもありますが、別れ際にこんなこと言われたら、励ましを受けるより、不安が増してしまいます。

 パウロ自身は、ここを発ったらもう二度と、エフェソの教会の人々に会えなくなるだろうと知っていました。エルサレムに行ったら、自分は投獄され、苦難を受け、命を落としかねない状況になることを、聖霊によって告げられていました。それでも、エフェソをはじめとするアジア州で、多くの人が信徒の群れに加わったこと、エルサレム教会のために祈りを合わせていることを、伝えに行く使命を果たさなければなりません。

 そこで、彼は自分が立ち去る前に、エフェソの教会の長老たち、教会で責任を持つ人たちを呼び寄せ、最後のメッセージを送ります。自分が居なくなった後も、教会の世話を託された者として、自らと群れ全体とに気を配るように……弱い者を助けて、神からの恵みをみんなで分かち合うように……これらのことを命じながら、パウロは注意を促します。

 「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています」と。だから、キリスト教を装う異端の教えに、会衆が荒らされないように……外から入ってくる悪質な言説に、指導者が惑わされないように、よく注意して、私が伝えてきたことを思い起こしなさい、と。

 ところが、パウロの警告は、それだけに留まりませんでした。信徒の群れを荒らす者、会衆を惑わす異端者が、外からだけでなく、教会の中からも現れてしまうと語ります。「あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」というふうに。

 今まで一緒に歩んできた、この教会の中からも、残忍な狼どもと同じように、不和や混乱をもたらして、仲間を支配する者が出てきてしまう……不思議ですよね? このとき集まっていた長老たちは、パウロ自身が語っているように、聖霊によって教会の世話をするよう選ばれた者たちです。神様によって教会の監督者に任命された者たちです。

 それなのに、神が選んだ人たちの中から、邪説を唱える者が出てきてしまう……人々が「神様へ従うように」ではなく「自分へ従うように」コントロールする者が現れてしまう……そんな未来がやって来ると、置いていく仲間に語るんです。まるで、仲間を信頼してない人のようです。教会に、期待を持てない人のようです。

 実際に、今の教会から、別の教会へ転任しようとしている牧師から「私が去ったあと、皆さんの中から邪説を唱える者が出るでしょう」なんて言われたら、会衆はみんな大きなショックを受けるに違いありません。「先生は、私たちのことを信頼してないんだろうか?」「一緒に歩んできた教会を信じることができないんだろうか?」と。

 けれども、この言葉は、パウロが長老たちを信頼していなかったから、エフェソの教会の人々に期待を持てなかったから、出てきた言葉ではありません。むしろ、神様と、神の恵みの言葉によって、彼らが新たに造り上げられ、聖なる者たちと一緒になることを、心から信じて語ったものです。

 たとえ、教会の中から、邪説を唱える者が現れても……弟子たちを搾取し、貪る者が出てきても……聖霊が、神の言葉が、間違いに気づかせ、歪みを正し、彼らを新しく造り上げることを、パウロは信じていたんです。そうでなければ、邪説を唱えることが分かっている者たちに、大切な会衆を、信徒の群れを、託すことなんてできません。

 それはちょうど、パウロの信じるイエス様が、ルカによる福音書22章で、これから自分を裏切る弟子たちに、まもなく自分を見捨てる弟子たちに、「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる」と語ったときと似ています。

 イエス様は、最後の晩餐の席で「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」と言った直後、弟子たちが、自分の相続する神の国を一緒に受け継ぐ者となる、と宣言しました。まもなく、自分から離れてしまう弟子たちに、自分を信じる者の群れを、世話するように命じました。

 パウロもまた、長老たちへの遺言で、「あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」と言う直前、「(聖霊が)神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と宣言しています。まもなく、邪説を唱える者が出てくる長老たちに、教会の世話をするように命じています。実は、イエス様と重なるパウロの行動は、他にも色んなところで見られます。

 たとえば、イエス様は、自分のことを三度否定するペトロのために、信仰が無くならないよう祈り、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と命じました。宣教者パウロも同じように、邪説を唱える者が出てきてしまう長老たちのために祈り、「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」と命じます。

 また、イエス様は、弟子たちに向かって、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い人のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と命じました。宣教者パウロも同じように、長老たちに向かって、「弱い者を助けるように」「『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すように」命じます。

 イエス様を裏切り、見捨て、否定した弟子たちが、神様から離れたままにされず、聖霊を送られて、新しく造り上げられていったように、パウロの伝えたことから離れて、邪説を唱えるようになった者たちも、そのまま放置されるのではなく、新たに造り上げられていきます。

 そういえば、キリスト教徒にとって「残忍な狼」であったパウロ自身も、復活したキリストの幻と出会い、「弟子たちを迫害する者」から「弟子の一人」へと新たに造り上げられた者でした。「目を見えなくされた者」から「目を覚ました者」として、聖霊を受け、宣教の業を託されていった一人でした。

 今度はその彼が、エフェソの教会の長老たちへ、「残忍な狼に気をつけるように」「目を覚まして会衆たちを守るように」語ります。自分が三年間、一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こすよう促します。そのとき、パウロが教えたことの中には、彼自身が経験した、多くの試練も含まれたでしょう。

 エフェソにやって来た当初から、自分は取るに足らない者だと思わされる日が続いたこと……涙を流し続けてきたこと……ユダヤ人に襲われて、数々の陰謀に巻き込まれたこと……多くの試練に遭ってきたこと……アルテミスの女神を信じる地元民からも反感を受け、暴動になったこと……

 神様を信じて、神様に従っていたら、自信が湧き起こり、泣かなくて済み、悪い出来事が避けていく……と思いたいところですが、実際には、「試み」や「試練」に次々と襲われた信仰者が大勢います。教会に居るときは、人間関係で悩むことも、心無い言動で傷つくこともない……と思いたいのに、残忍な狼に襲われるようなショックを受ける出来事が、ときどき、あなたを襲います。

 それこそ、教会の中から、自分たちの中から、「邪説を唱える者」が出てくるなんて、考えたくもないですが、コロナ禍を経て、陰謀論に取り込まれた人や、反医療に引き込まれた人が、会衆を巻き込むことも出てきました。海外から来た人、ルーツの異なる人を排斥し、現在の「イスラエル」の占領と虐殺を容認することが、キリスト教徒の正義であるかのように主張する者も出てきました。

 教会が聖霊によって導かれているなら、信徒一人一人が神様によって選ばれているなら、どうしてこんなことが起こるんだろう? どうして「残忍な狼」を、「邪説を唱える者」を放置するんだろう? そのようにモヤモヤするかもしれません。しかし、神様が送られる聖霊は、私たちが正しく動作するように、人間の意志を書き換えて、ロボットのように動かす方ではありません。

 聖霊は、一人一人の意志を、人格を、大事にしながら、粘り強く語りかけ、変化を促し、力を注ぐ存在です。キリスト教徒を捕まえて処刑するため、ダマスコへ向かっていたパウロが、キリストの幻と出会ったときも、すぐには正しく行動できませんでした。ものも言えずに立っていました。

 彼はイエス様と出会ってからも、3日間、目が見えず、食べも飲みもしませんでした。その場で聖霊に意志を書き換えられ、すぐさま宣教に出かけたわけではありませんでした。むしろ、自分が迫害していた弟子の一人、アナニアによって、目が見えるように祈ってもらうまで、彼はキリストの弟子として歩み出すことができませんでした。

 聖霊は、パウロとアナニアを出会わせて、敵だった2人を新しく歩み出させたように、私たちを互いに遣わして、変化と回復をもたらします。「あの人のためには祈れません!」「あの人が変わってくれるわけありません!」そのように私たちが叫ぶとき「行け、わたしがあなたと共にいる」と一人ではできない選択をもたらします。

 聖霊は、私たちが考えたくないことと向き合わせ、私たちが避けて通りたい道を通らせ、私たちが行きたくないところへ連れていきます。それは、和解したくない相手のところかもしれません。自分が嫌われている人々のところかもしれません。疑いたくない仲間の過ちを正しに行く道かもしれません。

 しかし、その先に、私たちが願ってやまない神の国が、平和の道が、神の恵みを分かち合う場所が待っています。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏し、子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く……邪説を唱える者が神に立ち帰り、放蕩していた息子が父に迎えられ、共に食卓へ着く日がやってくる……その日は確かに近づいています。聖霊は今も働いています。

 あなたがたは、神様と、神の恵みの言葉とにゆだねられ、新しく造り上げられているんです。教会が聖なる所と思えないとき、自分自身が取るに足らない者と感じるとき、あなたの目は、あなた自身と群れ全体とに気を配るよう開かれて、目を覚ましているように、弱い者を助けるように、導かれているんです。

 もし、あなた自身が、「あの人のためには祈れません!」「あの人が変わってくれるわけありません!」「わたしには何にもできません!」と叫んでいるなら、幸いです。パウロと出会ったアナニアも、同じように叫んでいました。アナニアと出会ったパウロも、自分から祈ってくれと言えませんでした。

 「わたしにはできません!」と叫び、神様に「なぜか?」と叫ぶことは、私たちが神様のもとに結び合わされていく道のりです。自分が誰かを愛せないことを知ったとき、祈れないことを認めたとき、立てないことに気づいたとき、神と共に歩む道は始まっています。紛れもなく、あなたはこの群れに必要な、神に立てられた者の一員です。

 だから、目を覚ましていなさい。あなた自身と、群れ全体とに気を配りなさい。あなたが新しく造り上げられていることを、群れ全体があなたを通して新たにされつつあることを、思い起こしなさい。パウロに働いた聖霊は、あなたにも宿っているんです。あなたをも動かしているんです。キリストの平和の使者として行きなさい。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌22番「神よ諦めない心」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題

御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」

 

年間主題

華陽教会では、「信仰継承を考える」というテーマで、マルコによる福音書10:14を今年度の年間聖句にしています。

 

今週は、地区サマーキャンプに参加した子どもたちとの交流が生かされ、共に神様の恵みを受け取って、成長していくことができるように、祈りを合わせていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

神様、今日も、みんなで御言葉を分かち合えたことに感謝して、献金をおささげします。どうか今、あなたの求めることに使えるよう、私たちを導いてください。私たちの隣に、前に、後ろにおられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌います。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは全員で歌います。(差し支えない方は、お立ちください)

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。(使徒言行録20:32)

 

祝 福

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった18名、同時に視聴された21名、計39名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

また、2週間にわたって、牧師の帰省・休暇の間、教会を守ってくださった信徒、会衆、奉仕者の方々に感謝致します。おかげさまで、ストーマの閉鎖手術で入院していた父も、水曜日に退院することができました。お祈り本当に感謝致します。

 

来週の日曜日は、「主従関係を強いられる?」と題して、コロサイの信徒への手紙3:18〜4:1についてお話しします。水曜日の聖書研究祈祷会は、牧師の研修出張があるため、9月3日から再開します。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。