聖書研究祈祷会 2025年9月10日
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
讃美歌
讃美歌21の572番「主をあがめよ」を歌いしょう。最後の「アーメン」は、つけずに歌います。
お祈り
ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。
◆私たちと共におられる神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。
◆私たちの神様。10月の運動会に向けて、子どもたちの練習や、先生たちの準備が始まりました。どうか今、怪我や事故なく、子どもたちの成長が導かれ、保護者や先生の努力も報われて、良い思い出を作ることができますように。
◆私たちの神様。身内の手術がある方や、自分も治療中の方に、あなたの癒しと回復が豊かにもたらされますように。どうか今、痛みや苦しみが和らげられ、希望と喜びが与えられ、新しく生きていく力がもたらされますように。
◆私たちの神様。経済的に苦しい方や、障害や衰えに悩んでいる方、人間関係で辛い思いをしている人に、あなたの助けがありますように。どうか今、一人一人に必要なケアとサポートがもたらされ、安心できる仲間と居場所が与えられますように。
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖書朗読
聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書15:11〜24の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書139頁です。本日は箇所が長いので、新共同訳のみ朗読します。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |

メッセージ
今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「復活とは何なのか?」というトピックについて、「放蕩息子」のたとえが出てくる、ルカによる福音書15:11〜24に焦点を当てて話していこうと思います。
キリスト教では、神の子イエス・キリストが、十字架につけられて死んだ後、3日目に復活したことが教えられ、「世の終わり」「終末の日」には、私たちも新しい体に甦らされ、死んでいた全ての者が生き返ると言われています。聖書に親しみ、礼拝に出ている人の中でも、この復活についての話だけは、どうしても信じきれなくて、洗礼を受けるに至らない……という方が少なくありません。
イエス様が病人を癒したり、貧しい人を助けたり、大事な教えを語ったことは信じられるけど、死んでから3日目に復活したことは、どうしても「本当だ」と思えない。私たちが死んだ後、魂だけになって、天国へ行くのは信じられるけど、「世の終わり」「終末の日」に、体も甦って、墓から出てくるようなことが、現実に起こるとは思えない。
確かに、死んだあと朽ち果てた遺体が動き出し、話したり、歩いたりするところを想像すると、なかなかグロテスクに感じます。年老いて死んだ人が、年老いた体で甦るのも、怪我をした人が、不自由な体で甦るのも嫌でしょう。そもそも、土葬と違って、火葬で灰になった体は、まともに甦ることができるのか? 分骨された遺体は、どこかが欠けたまま甦るのか? 色んな疑問が湧いてきます。
実際、そういった質問をしてくる方は、クリスチャンの中にもよく居られます。魂が天国へ行って、永遠に生きるのは信じられるけど、死んでいた体が甦るとは、あまり信じたくないし、受け入れ難いと……ただ、誤解されていることが多いのですが、キリスト教における「身体の甦り」とは、単に、動かなくなった肉体が再び動くようになるとか、朽ち果てた肉体が修復されて元通りになるとか、そういうことではないんです。
イエス様は死んだ後、3日目に復活したとき、自分が十字架に釘付けられた傷跡や、槍で刺されたときの傷跡を、弟子たちに見せてくれました。ゾンビのように、傷が癒えてない身体ではなく、癒えるはずのなかった傷が、癒えている身体を見せました。また、戸に鍵をかけた部屋の真ん中に現れて、物理的な隔たりを、ものともしない姿を見せました。
かといって、幽霊のように実体のない身体ではなく、弟子たちの前で魚を食べて、一緒に食事ができる様子も見せました。イエス様の復活は、身体が無くなって、魂だけの状態になったわけでも、動かなくなった体が、単に修復されたわけでもありません。朽ち果てていく古い身体(肉の体)から、朽ち果てることのない新しい身体(霊の体)になって、神の国へと迎えられる、最初の存在になったことを示しています。
聖書の中には、他にも何人か、死んでから甦らされた人々が出てきますが、イエス様の復活は、それらの人たちの復活と異なり、再び死んだり、体が朽ちたりすることなく、天に挙げられていきました。それは、「世の終わり」「終末の日」に起こされて、朽ち果てることのない神の国へ迎えられる人々の先取りとなった、最初の復活でした。コリントの信徒への手紙では、このことが「眠りについた人々の初穂となった」と表現されています。
もしかしたら、復活について「信仰があれば死んでもすぐに生き返る」「信仰が強ければ亡くなった人をその場で蘇らせることができる」と聞かされる人もいるかもしれません。しかし、キリストを信じて与えられる「復活」は、今生きているこの世界で、ただもう一度、生活するための復活ではなく、世の終わりに「新しい天と地」が完成するとき、その世界に迎え入れられ、神と共に永遠に生きていくことを指しています。
単に、この世で生き返る、この世で死なないために信じなさい……ということではないんです。むしろ、「文字どおり死なないこと」「やがて朽ち果てるこの世の中で、生き返ること」を強調するグループは、本来のキリスト教信仰からは離れています。それは、人集めのため、信者に言うことを聞かせるための教えになっていないか、注意が必要です。
一方で、キリスト教系のカルトの中には、「真理を知らない他のクリスチャンは、非科学的な肉体の復活を信じている」と主張しているところもあります。特に、聖書を字義どおり捉えるのが正しいというキリスト教の根本主義(原理主義)を引き合いに出して、「キリスト教徒は肉体の復活を信じているから、火葬はダメで、土葬じゃないといけない」と説明したり、「キリスト教徒は死んだ人々が甦り、敬虔な信者だけが空中に引き上げられると信じている」と教える様子が見られます。
しかし、実際のところ、日本のキリスト教徒はほとんど火葬で葬儀をしますし、終末における携挙(一部の人が空中に引き上げられること)を信じているのは限られたグループです。また、先ほども説明したように、キリスト教における「身体の甦り」は、単なる「肉体の甦り」ではありません。腐敗した肉体をどうにかして、元のように再生するという話じゃありません。新しく甦らされる身体は、元の古い身体とは違うんです。
おそらく、「他のクリスチャンは真理を知らない」と主張するキリスト教系のカルトでは、キリスト教会全体の共通理解と、教派や立場によって異なる主張の区別ができず、キリスト教の幅広い議論を把握してないんだと思います。加えて、そういった団体では、キリストの復活を「霊的な復活」と強調し、「霊的な次元、霊的なステージを上げなければならない」と信者に迫り、教祖の指導に従うようコントロールする様子も見られます。
たとえば、旧約聖書に出てくる族長や預言者など「神の僕」の段階では、霊の形状はぼんやりとしていて、完成にはほど遠く、新約聖書に出てくるイエス・キリスト「神の子」の段階では、霊の形状は肉体とほぼ一致しているが完璧ではなく、旧約と新約の後に訪れる新しい時代に「神の恋人」とされた人たちの段階では、霊の形状が肉体のごとくはっきりし、完成されると教えられ、霊的なステージを上がっていくイメージが共有されます。
ただし、この教えは聖書から由来しているというより、スピリチュアル的な思想に由来しており、「霊的な次元」や「霊的なステージ」という言葉は、一般的なキリスト教会では使われません。「霊界は波長の世界で、似たような霊が集まる」「モーセやエリヤの霊も、神の僕の段階から抜け出せないから、キリストの霊と話して、教えを学んでいた」と説明されることもありますが、こういった説明もかなり聖書の世界観から離れています。
実は、キリストの復活を「霊的な復活である」と強調し、霊的な次元を上げて、霊的に生き返るよう指導するのは、意味のわからない理不尽な要求も、霊的に意味のあることとして受け入れさせ、信者をコントロールしやすくするための仕組みになっているんです。その際、「復活とは、神との関係が回復することの比喩であり、霊的に復活し続けることが信者に求められている」と説明するため、よく、放蕩息子のたとえが用いられます。
最初に読んだ、ルカによる福音書15章11節から24節には、父親から財産を分けられた下の息子が、それらを全部金に変えて遊び呆け、財産を使い果たした後、食べるのにも困って、家に帰ってきた話が語られています。息子は父親に対しても、天に対しても罪を犯したと反省し、実家で雇い人の一人にでもしてくれるよう頼みに行きました。
しかし、父親はまだ遠く離れているうちから、帰ってきた息子を見つけ、走り寄って首を抱き、「死んでいた息子が生き返った」と喜びます。この台詞をもとに、「復活とは、天との関係、父なる神との関係が回復することの比喩であり、霊的に生き返ることを指している」と教えられることがあります。
もちろん、このたとえ話は、神との関係が回復される出来事を表しているものですが、「復活とは何か」を示すためというより、「神様が喜ぶことは何か」を示すために語られているたとえです。神から離れて罪を犯し、そのまま滅びるはずだった人たちが、悔い改めて帰ってくること、救いに至ることを示すもので、掟を破った「罪人」と呼ばれる人たちを排除しようとする姿勢は、神様の喜ぶ姿勢じゃない、と教えているところです。
けれども、一部のキリスト教系のカルトでは、こういったたとえ話を「霊的な復活の比喩」として語り、教会へたくさん学びに来て、教会の活動をたくさんして、「霊的に復活し続ける」よう求め、教会に来なければ、「霊的に死んでいる」状態だと不安にさせます。そうすることで、「霊的に復活する手段は、この団体に従う他ないんだ」と思い込ませていくんです。
しかし、復活したキリストが出会いに来たのは、復活を信じて待っている弟子たちではありません。復活したイエス様を迎えに行った人たちでもありません。むしろ、キリストの復活を信じられず、復活したイエス様を迎えられるよう戸の鍵を開けておくことのできなかった、信仰の薄い者たちに、自ら会いに行きました。
イエス様は、「信じなければ出会えない」方ではなく、「信じて出会ったことに気づくまで、呼びかけ続ける」方なんです。まだ遠く離れたところから、私たちを見つけてくださる方なんです。霊的に高い段階へ至らなければ、復活できない、救われないと不安にさせることは、そもそも、イエス様の教えと業から離れています。
改めて、復活とは何か振り返りながら、私たちを新たに生かしてくださる主、イエス・キリストとの出会いを、今週も求めていきましょう。救われないかもしれないという不安に支配されてではなく、救われることへの信頼によって、信仰を継承していきましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。アーメン。
とりなし
共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている京都府京都市の京都西田町教会のために、教会員のために、会衆のために、新来者のために、祈りを合わせましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。
◆京都府京都市の京都西田町教会のために祈ります。教勢的にも、経済的にも、厳しくなっている教会に、あなたの助けがありますように。教会の将来について真剣に考え、光を見出だすことができますように。
◆教会員のために祈ります。体が弱っている人、心が弱っている人、衰えを感じている人に、あなたの癒しがありますように。また、身内のケアや介護をしておられる人、離れたところにいる人にも、あなたの祝福が豊かにありますように。
◆会衆のために祈ります。教会員の家族や知り合い、幼稚園の保護者や学校の生徒・学生たちに、あなたの恵みがありますように。他の教会から引っ越してきた人や、教会のことがよく分からない人たちにも、温かい出会いと交わりが豊かにもたらされますように。
◆新来者のために祈ります。初めて教会に来た人や、これから来ようとしている人に、あなたの導きが豊かにありますように。それぞれが必要としている知恵と力を受け取って、また新しく生きていくことができるように、私たちをも用いてください。
◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌20番「すべてを売り払い」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り
共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。
よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は『サタンと闘う?』と題して、マタイによる福音書4:1〜11のお話をする予定です。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。