ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『死者の復活』コリントの信徒への手紙一15:35〜52

日曜礼拝 2025年9月14日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」(マタイによる福音書13:52)

 

讃美歌

旧讃美歌503番「はるのあした」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆力の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。先週一週間も、礼拝や聖書研究、受洗の学びなど、一つ一つの集会を豊かに導いてくださり、感謝致します。どうか今、それらの集会に参加することが難しい方も、新しい機会や体験がもたらされていきますように。

◆私たちの神様。今週一週間も、キリスト教入門講座や夜間聖研祈祷会など、久しぶりの集会が開催されますが、それぞれの機会が豊かに導かれますように。どうか今、配信を通して参加される方にも、あなたの恵みが豊かにもたらされますように。

◆私たちの神様。身内が手術を受けられた人、自身も治療中の人、家で療養している人たちに、あなたの慈しみがありますように。どうか今、一人一人にあなたの癒しの御手が差し伸べられ、回復がもたらされますように。

◆全ての者を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。コリントの信徒への手紙一15:35〜52の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書321頁です。本日は箇所が長いので新共同訳のみ朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編104:24〜35、新共同訳交読詩編の118頁です。

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の572番「主をあがめよ」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

メッセージ

 神様がいるのは信じているし、イエス様の教えにも共感している……でも、キリストが死んでから3日目に甦ったという話は、現実だと思えない……私たちもいつか、死んだ後神様に復活させられるなんて思えない……教会に通っている人であっても、そのように考えていることは、別に珍しくありません。

 「人は死んだら終わり、永遠の眠りにつくか、肉体から抜けて魂となり、天国という別の世界へ移住する」「この世とは別の世界で、永遠に生きるようになる」……それだったら分かるけど、「世の終わり」「終末の日」に、新しい体で復活し、新しい世界に迎えられるという教えは、ちょっとイメージが難しい……。

 実は、洗礼を受けたキリスト教徒でも、復活については、比喩のように捉えている人が多いかもしれません。さっきも言ったように、死んだ後、肉体から魂が抜けて天国へ行くことが、「復活」という言葉で表されているんだと、ぼんやりイメージしている人は、この教会でも多いと思います。

 ですが、イエス様が「祈り方の基本」として弟子たちに教え、私たちも毎週祈っている『主の祈り』では、「私も天国へ行けますように」ではなく「天国がこちらへやって来ますように」と祈ります。また、イエス様は「悔い改めて福音を信じれば、天国へ行ける」と言うのではなく、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言いました。

 私たちが神の国へ行くんじゃなくて、神の国が私たちの方へやって来る。神の国、天の国は、人間の体から魂が抜けて、私たちが「行く」「到達する」ところではなく、向こうから、私たちの方へ「近づいて来る」「訪れる」ものなんです。だから、その準備をしなさい、目を覚ましていなさい、迎えられる用意をしなさいと、イエス様は繰り返し語ります。

 そう、キリスト教における「天国」は、「神の国」は、「死んだら行くところ」じゃないんです。そのとき、私たちが生きているか、死んでいるかは分からないけど、向こうからやって来るものなんです。復活というのは、神の国が私たちの方へやって来たとき、既に死んでいた人たちも起こされて、私たちも「朽ちない新しい体」にされて、神様に迎えられることなんです。

 これって、人間の体から魂が抜けて、天国へ行く話より、ずっと信じにくいことです。だって、死んで墓に納められた人が、朽ちてボロボロになった体が、焼かれて灰になった骨が、神様に起こされて、新しい体に変化して、生き返るって言うんですから、あまりにも非科学的です。SFやホラーを見ているみたいです。

 現代の私たちが「そんなの信じられない」となるように、2〜3世紀ごろ、神様を信じて集まっていた人の中にも、「復活なんて信じられない」という人が出てきました。「復活という教えを無くした方が、もっとみんなに受けいられる」と主張する人も出てきました。実際、「肉体から抜けた魂が、霊だけが、天の国、神の国へ行く」と言われた方がイメージしやすいし、受け入れやすいと思われたでしょう。

 ところが、世界宣教を始めたパウロは、死者の復活を信じない人たちに、しつこく、しつこく語ります。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(コリント一15:13、14より)……かなり厳しい物言いですよね?

 なぜ、死者の復活がないと、私たちの宣教は無駄になるんでしょう? なぜ、復活のない信仰は無駄だと言われるんでしょう? それは、神によるありえない変化、ありえない介入を、「なくていいもの」にするからです。私たちが期待さえできない癒しと回復を、拒絶したまま受け取らないのに等しいからです。

 死んだ後、肉体から魂が抜けて、私たちの方が天国へ行く……というのは、確かにあり得そうで、イメージしやすく、希望が持てます。でも、「天国へ行く」という私自身の行為がなければ、神の国へ入れません。じゃあ、私たちは死んだ後、自分で天国へ行けるんでしょうか? 自分で天国に入れるんでしょうか?

 死んだことがないので分かりませんが、霊になったら、自然と天国へ行く道が分かるんでしょうか? 生きている間さえ、進むべき道を見いだせなかった自分自身が、死んだら天国までの道が分かるようになるなんて、それこそ都合が良いような気もします。

 また、たとえ天国まで行けたとしても、天国で待っている人たちに、合わせる顔を持ってない……という人も、一定数いるでしょう。神の国に入った人たちと、一緒に暮らすのが怖い人もいるでしょう。たとえ、「どうぞ」と招かれていても、あの輪の中に、あのグループに入れない、という人もいるでしょう。自分で天国に入るって、よく考えたらハードルが高いかもしれません。

 「そこに入ることが赦された」という確信、「ふさわしくない自分とは、もう違う」というしるし……それがないと、私たちはどんなに入りたい空間でも、入ることができません。裏切った人、見捨てた人、無視した人、傷つけた人……あるいは嫉妬した人、憧れた人、尊敬する人と同じように、自分も受け入れてもらえることを、信じることができません。

 私が神の国へ入るには、あの人と一緒の世界に入るには、自分には成し得なかった、ありえない変化が必要です。和解できなかった、正しくなれなかった、勇気を持てなかった自分自身が、それらを求める神の国に、イエス様の家に、入っても良い者となる……私が自分で達成できない、大きな変化が必要です。でも、私にそんな力はありません。

 しかし、キリストがもたらす死者の復活は、私たちに必要な変化を与えます。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活」する。「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活」する。「蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」……復活とは、イエス様が私たちを神の国へ迎えるために、介入される出来事です。

 神の国に自力で入れず、戸惑い、うろたえ、恐れている私たちに、できないことをできるように、新しく変えてしまう出来事です。かつて、死んでから3日経ち、呼んでも起きるはずのなかった兄弟ラザロは、イエス様に呼ばれて起き上がり、従えなかったはずの声に、従うようになりました。

 かつて、埋葬される直前であった、未亡人の一人息子は、目を覚まして話せるはずがなかったのに、イエス様に手を取って起こされ、棺から出て、話せるようになりました。かつて、イエス様を見殺しにした弟子たちは、二度と、ついていくことができなくなったはずなのに、復活したイエス様に再び呼ばれ、新しい関係を築くことができました。

 私たちが復活するとき、イエス様は、かつて、ご自分が死者を起こされたときのように、自ら復活された日のように、墓から出てこられない人を出てこられる体にし、顔を合わせられなくなった人たちを、顔を合わせる関係に変え、自分と一緒に神の国で食卓につく、新しい命を実らせます。あなた自身が、無理だと思っている変化さえ、もたらしてしまうのが復活です。

 神様を信じ、イエス様を信じるとは、自分自身さえ期待できないような、信じられないような出来事を、起こしてしまう存在を信頼する……という出来事です。あなたは今、自分が土に埋められたら、そのまま芽を出すことのない、朽ちていくだけの人間に思えているかもしれません。でも神様は、あなたをこの地に蒔いたときから、あなたの体が、霊の体に、朽ちない体に復活するように、聖霊という水を注ぎ続けているんです。

 復活したイエス様と出会い、信じることができなかったトマスは、疑うことをやめて、信じる者となりました。復活したイエス様と出会い、従えなかったペトロは、否定することをやめて、従う者となりました。復活したイエス様と出会い、悲しんでいたマリアたちは、涙を流すことをやめて、喜ぶ者となりました。

 今、死者の復活を信じられない者、罪の赦しを確信できない者も、この方は、種から命が芽生えるように、信仰と希望をもたらします。どう信じたらいいか、どう受けとめたらいいか分からない人たちに、この方は何度も現れ続けます。信じることができるまで、ふさわしい者に変えられるまで、死を超えて出会い続けます。

 だから、自分の力で納得できない、受け入れられない、理解できないときも、恐れる必要はありません。神様に、イエス様に、拒否されることを怖がる必要はありません。あなたが新しい命の芽を出すその日まで、この方はしつこく、しつこく声をかけ、水を与え、養い続けてくださる方、あなたを愛する方だからです。共に、私たちの方へやって来る、訪れてくださる神様に、感謝の賛美をささげましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌5番「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題

御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」

 

年間主題

華陽教会では、「信仰継承を考える」というテーマで、マルコによる福音書10:14を今年度の年間聖句にしています。

 

今週は、誠実に、信仰を共有することができるように、家族や友人のために祈り、互いに相手を尊重しながら、自身の生き方を通して、神様の愛を伝えていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

憐れみ深い神様。私たちの生活の一部をおささげします。どうか、これらの献金を、困っている人のため、信仰生活を支えるため、教会の働きを続けるために用いてください。人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。(差し支えない方は、お立ちください)

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。(コリントの信徒への手紙一15:55)

 

祝 福

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(コリントの信徒への手紙二13:13)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった17名、同時に視聴された13名、計30名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の日曜礼拝は『派閥と分裂』と題して、コリントの信徒への手紙一1:10〜17のお話をする予定です。水曜日の聖書研究祈祷会では『サタンと闘う?』と題して、マタイによる福音書4:1〜11のお話をします。第3金曜日のキリスト教ABC講座では『聖書物語ダイジェスト(5)』として、旧約と新約のエピソードをざっくりと紹介していく予定です。

 

次回もぜひ、祈りを合わせてご参加ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。