日曜礼拝 2025年9月28日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。(マタイによる福音書18:33)
讃美歌
旧讃美歌503番「はるのあした」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆慈しみ深い神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。私たちはこの一週間、人に怒りをぶつけたり、傷つけたりしてきました。私たち自身も、怒りや悪意をぶつけられ、痛みや苦しみを覚えてきました。どうか今、私たちの受けた傷、私たちがもたらした痛みを癒し、回復させてください。
◆私たちの神様。病気や怪我、障害や衰えで苦しんでいる人たちを顧みてください。痛み、悲しみ、疲れ、寂しさに覆われた人たちを慰めてください。どうか今、あなたの御手を差し伸べて、回復と希望をお与えください。
◆私たちの神様。この礼拝によって、私たちを新しくしてください。あなたから受けた恵みと慰め、希望と励ましを、他の人にも分けさせてください。どうか今、身近な人、助けが必要な人のために、私たちを派遣し、用いてください。
◆愛と平和の源である、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。ヤコブの手紙2:8〜13の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書423頁です。
同じく、ヤコブの手紙2:8〜13の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書413頁です。お持ちでない方は新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編15:1〜5、新共同訳交読詩編の19頁です。
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『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の444番「気づかせてください」を歌いましょう。最後のアーメンはつけて歌います。(差し支えない方はお立ちください)

メッセージ
「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」……ヤコブの手紙2章では、この言葉に続いて、貧しい者を無視すること、差別することを戒める教えが語られています。しかも、けっこう具体的に、差別の内容が挙げられています。
たとえば、教会の集まりに、金の指輪をはめた、立派な身なりの人と、汚らしい服装の貧しい人が入ってきたとき、立派な身なりの人には「あなたは、こちらの席にお掛けください」と席を用意し、貧しい人には「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言って、扱いに差をつける様子が語られています。
そんなこと教会で起こるんですか? とびっくりする人もいるかもしれません。キリスト教会では、貧しい人も裕福な人も分け隔てなく受け入れられ、あからさまに差別されることなんてないと思いたいかもしれません。しかし、ヤコブの手紙は、ローマ帝国の各地に散っていたキリスト教徒に向けて書かれており、この忠告は他人事ではありません。
いやいや先生、いくらキリスト教徒に向けて書かれてあると言っても、イエス様を信じる人たちが、神様を礼拝する教会で、あからさまに貧しい人を差別するなんて、ちょっと考えられないでしょう? どんなに貧しく見えるからと言って、「そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」なんて、そこまで露骨なことは言わないでしょう?
そう言いたくなる気持ちも分かりますが、私はかつて、イエス様を信じる人たちが、神様を礼拝する教会で、貧しい人をあからさまに避け、「ここに来てほしくない」という態度を露骨に見せた状況に居合わせたことがありました。しかも、自分もそうしていないとは言い切れない体験をさせられました。
なぜなら、「汚らしい服装の貧しい人」の中には、何日も衣服を洗っていない、自分の体も洗えていない、ものすごい匂いの人もいるからです。2〜3メートル先の距離でも、そこから離れたくなるくらい強烈な匂いが漂ってきます。思わず、その人が近づいた席の人たちは、サッと立ち上がって、離れた席へ移動していきます……反射的な行動でした。
私もまた、その人に対し「すみませんが、あっちの席へ移動してもらえるでしょうか?」と出口に近いところへ連れて行こうか、礼拝堂を出たすぐのところで、パイプ椅子を出して座ってもらおうか、考え込んでしまいました。普段は、教会に来た人たちへ、前の席を、奥の席を案内しているのに、その日は逆のことを考えていました。
結局、その人はしばらく経って、礼拝が始まる前に席を立ち、礼拝堂から出ていきました。誰も、その人が出ていくのを止めませんでした。私も引き止めませんでした。無言でしたが、彼に対する私の態度は、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うのと何が違ったんでしょう?
別の日に、公園や駅前でよく見かける、道行く人に、お金をねだっている人が、教会の近くにやって来ました。私も、駅へ向かっている途中、公園を横切っていくときに、その人から「お金をください」と頼まれることが何度かありました。お金を求められながら、後ろについて来られると、あまり良い気持ちはしませんでした。
その人が、教会の前で立ち止まって、礼拝の時間を案内する、看板の文字を見つめていました。普段なら、「よかったら参加されますか?」「どなたでも参加できますよ」と声をかけるのに、その日はただ、看板の前から通り過ぎるのを待っていました。「礼拝に出てもいいか、尋ねられたらどうしよう?」……そう考えている自分さえいました。
その人はやがて、看板から目を離し、ゆっくり去っていきましたが、たぶん、私に声をかけてもらえないか、待っていたような気がします。無言でしたが、彼女に対する私の態度は、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うのと何が違ったんでしょう?
「あなたがたは、自分の中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」……ヤコブの手紙で批判されている者の一人に、私がいます。神学生のときも、伝道師のときも、牧師になってからも、誤った考えに基づいて判断を下したことになるだろうと、後から振り返らざるを得ないことを何度も繰り返しています。紛れもなく、律法によって「違反者」と断定される者です。皆さんはどうでしょうか?
アメリカやヨーロッパでは、移民の排斥が進んでいます。少し前まで、教会は、学校や病院などと共に、当局が捜査のために踏み込むことができない場所で、不安定な立場の移民たちも、安心して過ごせるところでした。教会は、多様な事情や背景により、不法移民として取り締まりを受ける人たちの、法的助言や食料を提供できる場所でもありました。
ところが、今年の1月から、滞在資格を満たしていない移民たちが「犯罪者」として一括りにされ、学校や教会でも、不法移民として拘束される危険が高まってきました。不安定な立場の移民を助けたり、庇ったりする教会は、移民・税関捜査局に目を付けられる恐れがあるため、既に、支援から手を引いた教会も多くあります。
何なら、移民の排斥を支持する教会、牧師さえ居ます。移民の人が、何かに違反した点があれば、事情や背景を顧みず、「罪人だ」「すぐにでも強制送還するべきだ」と叫ぶ人たちが増えています。日本でも、それに続くかのように、外国人に対する差別・排斥が進んでいます。何か一つでも違反を犯した者がいれば、「外国人はみんな出て行け」と一括りに叫ばれてしまう場面もあります。
しかし、何かしらの違反を犯す者がいるのは、日本人も同じです。不安定な立場の者に「憐れみのない裁き」を下すことは、まさに「隣人を自分のように愛しなさい」という姿勢から遠のいた、自分の罪を棚に上げている姿勢です。私たちは、安全圏から他人の罪を裁ける人間ではありません。私たちこそ、「人を分け隔てしてはならない」「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法も守れない違反者で、いずれは裁かれる者です。
だからこそ、ヤコブの手紙は伝えています。「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい」と……「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」と……私たちも、神に裁かれるべき違反者の一人でありながら、憐れみを受けている人間であることを思い出しましょう。
自分自身が、憐れみを受けて、教会に迎えられていることを思い出しつつ、隣人を迎える者となりましょう。「よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」……それは、あなたのことであり、あなたの前にいる、隣人のことでもあるのです。
讃美歌
オンライン賛美歌5番「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題
御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。
年間聖句
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」
年間主題
華陽教会では、「信仰継承を考える」というテーマで、マルコによる福音書10:14を今年度の年間聖句にしています。
今週は、運動会の本番に向けて、練習している子どもたちが、怪我や事故から守られるように祈りを合わせ、一緒に成長を見守っていきましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
私たちの神様。ここにささげた献金を、あなたの心に適う形で用いることができますように。教会の働きと私たち一人一人の良心をこれからも導いてください。そして、あなたの栄光が、ますます豊かに現され、神の国の平和が告げ知らされますように。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。
讃美歌
讃美歌21の24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。(差し支えない方は、お立ちください)
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。(ヤコブの手紙2:12)
祝 福
永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。(ヘブライ人への手紙13:20〜21)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった13名、同時に視聴された10名、計23名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜礼拝は『聖なる者になれません』と題して、エフェソの信徒への手紙5:1〜5のお話をする予定です。礼拝の中で前奏から後奏まで、一つ一つの要素を説明し、礼拝後にハレルヤランチを挟んで、礼拝研修会を開く予定です。
次回もぜひ、祈りを合わせてご参加ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。