ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神の啓示を受けるには?』テモテへの手紙二3:12〜17

聖書研究祈祷会 2025年10月8日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の566番「むくいを望まで」を歌いしょう。最後の「アーメン」は、つけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆希望の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。

◆私たちの神様。政治に携わる人たちが、野心や偏見に振り回されず、良心に基づいて、誠実な働きを担えるように、あなたの聖霊を送ってください。どうか今、それぞれの政治家を支持する者もそうでない者も、建設的な議論と協議をしていくことができますように。

◆私たちの神様。医療に携わる人たちが、ニセ医学や陰謀論に取り込まれず、丁寧な検証に基づいて、治療と療法を提供していくことができますように。どうか今、過度な不安や過度な楽観に陥らないよう、私たちみんなを導いてください。

◆私たちの神様。福祉に携わる人たちが、人手や援助の不足から、不適切な支援に陥らないよう、それぞれの環境を整えてください。どうか今、現場に必要とされていることが正しく伝わり、支援者も利用者も守られる、正しい取り組みが築かれますように。

◆全ての者を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。テモテへの手紙二3:12〜17の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書394頁です。

同じく、テモテへの手紙二3:12〜17の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書385頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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メッセージ

 今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「神の啓示を受けるには?」というトピックについて、神の霊の導きについて言及される、テモテへの手紙二3:12〜17に焦点を当てて話していこうと思います。

 聖書を読んでいると、神の言葉を直接聞いたアブラハム、モーセ、預言者など、神から啓示を受けた人たちが出てきます。普段は見ることのできない存在である、神様の声が聞こえてくる、神様から幻を見せられる、神様にこれから起こることを預言される……そんな体験に憧れを抱く人たちは、決して少なくないでしょう。

 私も、どうすることが一番正しいのか分からないとき、何を選択したらいいのか分からないとき、神様の声を直接聞けたら……神様の後押しを感じられたら……と願ったことは、一度や二度ではありません。けれども、生まれてから今日まで、「確実に神様の声を聞いた!」「神様から答えをいただいた!」とはっきり感じたことはありません。

 牧師なのに、啓示を受けたことがないんですか? 神に仕える聖職者が、神の声を聞いたこともないんですか?……と驚く人もいるかもしれません。確かに、あれは神様からの後押しだったのかもしれない……あれは神様が危機を知らせてくれたのかもしれない……という体験はありますが、私には「神の啓示だ」と言い切ることはできません。

 小さい頃、私が屋外にいるとき、家に居た父が、階段から滑り落ちて、シャツの襟が首を絞めた状態で動けなくなったことがありました。首が締まっているせいで、声はほとんど出すことはできず、体も動かすことができませんでした。私は父のそんな状況を知らないまま、家の外に居たのですが、急にお腹が痛くなって、家のトイレに駆け込みました。

 そのとき、父のかすかな呻き声が聞こえ、階段の下で首の締まっている父を見つけました。急いでハサミを持ってきて、首を絞めているシャツを裂き、呼吸ができるようになりましたが、あのまま気づかずにいたら、命が危なかったかもしれません。「あれは、神様が教えてくれたんだろうか?」と思う一方で、たまたまだったのかもしれません。

 この体験を「神様から危機を教えてもらったんです」「あの時の腹痛は、神様が父を救うために、もたらしてくれたに違いありません」と言うことは、簡単かもしれません。そのように言い切る方が、信心深い、信仰的な態度に思えるかもしれません。神様が腹痛を起こして危機を教えてくれたと感謝する方が、信仰者として当然だと思うかもしれません。

 しかし、私は、似たような体験をした人が、だんだんと「今日も神様からメッセージを受けた」「今度は新しい幻を見た」と言い出して、あれよあれよと言う間に、カルト教祖のような振る舞いに陥っていくケースがあるのを思い出します。「それは思い込みじゃないか?」と言われても「信仰的な体験を否定するのか?」と反発し、隣人の声よりも神の声を聴こうと、周りの心配や警鐘を聞かなくなる人が出てきます。

 「神の啓示を求める態度」と「啓示を受け取ったという確信」は「修正の効かない思い込み」や「自身を特別視する欲求」と紙一重で、なかなか扱いが難しいものです。誰だって、試しにやってみた自分の占いが、次々と当たったら高揚します。自分の身に起きる異変や、自分の行動の変化が、重大な事件や、災害の起こるタイミングと重なったら、自分が特別な存在のように思えてきます。

 破壊的カルトの教祖の中には、そうやって、本気で自分を特別な存在と思い込み、周りにも、自分を特別だと信じさせ、従わせるのが当然だと突き進んでいく者もいます。そして、自分に従っていれば、自分の教えを受け入れれば、その人も神の啓示を受け取ることができるようになる……神の声を知ることができるようになる……という主張を展開して人々をコントロールしてしまいます。

 たとえば、あるキリスト教系のカルトでは「元来人間は霊感を持った存在だから、誰でも啓示を受けられるが、霊感のアンテナを高く正確に立てなければならない」と言って、霊界と交信する「チャネリング」のようなイメージで、神の啓示を受ける方法を指導しています。

 もともと、霊界との交信や神の啓示に関心の薄かった人たちにも、啓示を受けないと、人間はどんどん我儘になり、悪い霊の影響を受け、魂が汚されて、天国へ行けなくなってしまう……と不安をあおり、「啓示を受けられるようにならないと堕落してしまう」「不幸になる」と思わせていきます。

 そして、啓示を受けられる人間は、アブラハムやモーセ、預言者やイエス・キリストなど、神様からその時代の「中心人物」として選ばれた者で、私たちの手元にある聖書も、その時代の中心人物によって記された、神の言葉だと教えられます。逆に言えば、現代の中心人物として選ばれている人の言葉も、神の言葉そのものとして受け取らなければならない……ということになります。

 ここで、自分たちの教祖である「先生」こそ、現代の中心人物として神に選ばれた存在であり、「先生」の言葉を受け入れること、従うことが、神の啓示を受けられるようになる条件だ……と信じ込むよう、誘導していくんです。誘導にはまったメンバーは、朝早くから夜遅くまで、「先生」の教えを学び、指導に従って祈り続け、過密なスケジュールで疲労と睡眠不足が溜まっていきます。

 そんな中、繰り返し、教祖の言葉や教祖の見た夢、教祖の体験などを聞かされるため、意識の奥に刻みつけられ、夢で教祖と出会ったり、ふとしたときに教祖の言葉が聞こえてきたように感じたり、不思議な体験をすることが増えてきます。外から見たら、疲労と睡眠不足で判断力を弱らされ、刷り込みによって人為的に作られた「神秘体験」に思えますが、中にいる人の心には「信仰的な体験」として刻まれます。

 さらに、夢か現実か区別のつかない「夢うつつ」の状態で見る幻も、啓示の一つと教えられるため、組織の活動による睡眠不足や疲労による症状を「悪いもの」ではなく「良いもの」として肯定的に捉えさせられ、心身を壊すまで、祈りや活動にのめり込む人たちが続出します。

 一度、「信仰的な体験」として受けとめたものは、その後も長い間、その人が辛いとき、苦しいときの支えとなって、困難を乗り越える原動力になるため、後から「あれは啓示でも信仰体験でもなかった……」と認めることは難しくなります。信仰体験を否定すると、自分を支える大きなものを失ってしまうため、ますます、組織の教え、教祖のコントロールから抜け出すことができなくなってしまうんです。

 だからこそ、一部のカルトは、メンバーに対し、「啓示を受けた」という信仰的な体験が増えるよう、夢や、幻や、虫の知らせのようなちょっとした異変も「啓示」に結びつけ、そういった体験がもっと得られるよう、寝る間も惜しんで祈らせたり、聖書を読ませたり、説教の録音を聞かせたりします。

 加えて、厄介なのは、啓示で受けたことは、聖書に従っているかどうか、中心人物である教祖「先生」に判断してもらわないといけない……ともっともらしく指導されますが、教祖自身が「現代の中心人物」で、「現代の神の言葉」であるため、「聖書に従っているかどうか」よりも「教祖に従っているかどうか」で啓示の是非が判断されます。

 特に、キリスト教系の宗教カルトは、聖書の記述を自分たちに都合の良い「比喩」として捉えるように、初期から繰り返し刷り込んでいくため、「あなたの受けた啓示は、聖書のこの比喩で語られているメッセージのことだ」と何でも言えてしまうため、実際には聖書に従っているとは言えないメッセージも、聖書に従っていると言えてしまうんです。

 もちろん、神の啓示を求めること自体は、信仰者として自然なことです。決して間違っているわけではありません。しかし、神の子であるイエス様は、「しるし」(直接的な啓示や奇跡)を求める人たちに、「見ないで信じる者は幸いである」と言われました。神の言葉を直接聞く、神から幻を見せられるなど、直接的なしるしを受けられないことを嘆く必要はありません。

 むしろ、夢も、幻も、奇跡も見ないで、神様を信じているという姿は、イエス様が求めた信仰者の姿そのものでした。夢や、幻や、奇跡を見る、神の言葉を直接聞くという体験をしていないことは、あなたの信仰が薄いことを示すわけでも、あなたが神から遠く離れていることを示すわけでもありません。

 神の啓示を受けているかどうか、自分には分からなくても、神様はあなたから離れたり、あなたを見捨てたりしないことを知ってください。神の霊の導きは、眼に見える、耳で聞く、肌で感じるのとは違った形で、あなたに及び続けているんです。あなたを整え続けているんです。

 共に、惑わし、惑わされることのないように、今一度、聖書の言葉と誠実に向き合い、神の言葉を受け取っていきましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている京都府乙訓郡(おとくにぐん)の西が丘教会のために、離れている人のために、気づかれない人のために、対立している人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆京都府乙訓郡(おとくにぐん)の西が丘教会のために祈ります。この教会の礼拝が、あなたによって祝されて、ますます豊かに宣教の業が実りますように。平和のため、祈りを合わせる人たちの願いが、実を結びますように。

◆離れている人のために祈ります。病気のため、怪我のため、障害のため、衰えのため、あるいは、家族や身内の介助のため、遠方にいるため、教会から離れている人に、あなたの慈しみがありますように。それぞれに癒しと支えと励ましがもたらされますように。

◆気づかれない人のために祈ります。周りの人に、自分の痛みや苦しみを気づいてもらえない人たちに、あなたの助けがありますように。どうか、私たちが見逃している隣人と、隣人の痛みや苦しみに気づき、一緒に立ち上がることができますように。

◆対立している人のために祈ります。差別や偏見によって対立している人との間に、和解と平和がもたらされますように。立場や意見の違いによって対立している人との間に、対話と理解がもたらされますように。どうか、私たちを誠実な一致へと導いてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌1番「枯れた谷に鹿が」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は『再臨主の見分け方?』と題して、マタイによる福音書24:29~31のお話をする予定です。日曜日の礼拝は、『怠惰な生活』と題して、テサロニケの信徒への手紙二3:6〜13のお話をする予定です。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。