日曜礼拝 2025年10月12日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。(コヘレトの言葉3:12〜13)
讃美歌
旧讃美歌503番「はるのあした」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆平和の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。あなたはこの一週間、私たちの痛みを受けとめ、支えてくださいました。私たちが怒りをぶつけ、傷つけた相手のことも、あなたがとりなしてくださいます。どうか今、あなたの憐れみ、あなたの慈しみを覚え、感謝の応答をさせてください。
◆私たちの神様。病気や怪我、障害や衰えで苦しんでいる人たちを顧み、癒されるよう祈っている家族や友人を支えてください。痛み、悲しみ、疲れ、寂しさに覆われた人たちを慰めてください。どうか今、あなたの御手を差し伸べて、希望と回復をお与えください。
◆私たちの神様。この礼拝を最後まで導いてください。どうか今、私たちの隣に、前に、後ろにいる人を祝福し、必要な力を与えてください。ここに集まれない人たちも、それぞれ、あなたの言葉を受け取ることができますように。
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。テサロニケの信徒への手紙二3:6〜13の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書382頁です。
同じく、テサロニケの信徒への手紙二3:6〜13の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書374頁です。お持ちでない方は新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編90:13〜17、新共同訳交読詩編の105頁です。
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『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の566番「むくいを望まで」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

メッセージ
「働きたくない者(働こうとしない者)は、食べてはならない」……新共同訳と聖書協会共同訳で、若干の違いはありますが、皆さんもよくご存知のことわざ、「働かざる者食うべからず」の由来になった聖書の言葉が、本日読まれたテサロニケの信徒への手紙に出てきました。
手紙の著者は、怠惰な生活を避け、自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をするように、信徒へ促しておりますが、高齢の人や障害のある人、休職中の人や失業中の人には、ちょっと厳しく聞こえてきます。働きたくても、仕事が見つからなかったり、雇ってもらえなかったり、怪我や病気で働けない人もいるでしょう。
それこそ、生活保護や年金をもらっている人、家族に養われている人は、肩身が狭い気持ちになるかもしれません。なにせ、手紙の著者自身が「自分たちは、誰からもパンをただでもらって食べたりしなかった」と言い、「誰にも負担をかけまいと、労苦し骨を折って、夜も昼も働いた」と言っています。
反対に、働かないで、ただでもらって食べている人は、教会にふさわしくないと言っているんでしょうか? 自分でお金を稼げない人は、教会へ来るなと言っているんでしょうか? しかし、初代教会には最初から、多くの働けない者が在籍していました。たくさんの未亡人や両親のいない子どもが集まり、食べ物や飲み物をもらっていました。
足の不自由な者、手の動かない者、目が見えない者、耳が聞こえない者も、家族や友人に連れられて、教会へ集まり、支えてもらっていました。そして、教会に集まった人たちは、自分たちが持ち寄った食べ物や飲み物を差し出して、貧しい人や働けない人に配るため、分け合っていました。
それなのに、「働かない者は、食べてはならない」なんて言うのはおかしな話です。どうも、ここで言われている「怠惰な生活をする者」とは、単に、働かない人、働けない人のことを指すわけではなさそうです。実際、ここで使われている「怠惰な」という言葉は、もともと「隊列を離れ、果たすべき務めを怠る」という意味の軍隊用語で、秩序を乱す存在のことを指していました。
「怠惰な生活」と言った場合には「けじめのつかない、わがままな、まともでない、無規律な生活」などと訳されます。つまり、仕事をほったらかし、勉強を怠り、家庭を顧みず、友人関係を蔑ろにするような、日常の営みを放棄し、無秩序な生き方に陥ることを表している言葉でした。
ようするに、「働くこと」をはじめとする、日常生活を放棄させ、人間関係を破壊するような「余計なこと」をしている者に警戒しなさい……と注意しているんです。それでは、「余計なこと」とはいったい何だったんでしょう? 実は、テサロニケの信徒への手紙が書かれた頃、「もうすぐキリストが再びやって来て、世の終わりが訪れるから、普通に働いていても意味がない!」と熱狂的に盛り上がるグループが現れていました。
「古い世界を終わらせるため、天から救い主がやって来るから、仕事を放棄してでも、伝道に全力を注がなければならない!」「家事や勉強をしている場合ではなく、世の終わりに滅ぼされないよう、一人でも多くの人を信じさせなければならない!」「周りに反対されようと、家庭や人間関係を犠牲にしようと、とにかく祈って伝道しなさい!」
そういうふうに信徒を急き立て、言うことを聞かせる者たちがいました。中には、「既にキリストは再臨している!」「愚かな者たちは気づいてないが、私の信じる方こそが、再びこの世に来られた救い主だ!」「あの方に従わなければ、あなたも滅ぼされてしまう!」……と言って、「自分こそは神である」と宣言する教祖を信じ、他の信徒も連れて行こうとする者たちまで居たようです。
現代でも、キリスト教を装って、「世の終わり」「終末」の恐怖をあおり、仕事や家庭、学校や周囲の関係性を蔑ろにさせ、その人の全てを伝道に注がせ、日常生活を破壊してしまうカルトがあります。「他の教会は9割異端だ」と言って、既成教会から信徒を引き抜き、さらに他の信徒も引き抜かせる、悪質な団体も存在します。
しかし、本来のキリスト教は、伝道のため、宗教活動のため、普段の生活や人間関係を放棄させるような指導や教育は行いません。むしろ、日常生活を破壊する乱暴な指導に従うことを「怠惰な生活」として戒め、人々の不安や恐怖をあおった脅迫的な伝道を「余計なこと」として注意し、「落ち着いて」働くように促すのが、本来のキリスト教会です。
テサロニケの信徒への手紙では、「怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい」「もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい」「しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」というふうに続けられています。
これは、「同じ信仰を持つ者以外は避けなさい」という意味ではなく、「日常の営みを放棄させ、人間関係を破壊してしまう、余計な指導を行う者、悪質な指導に従う者から距離を取り、自分たちの身を守りなさい」という意味です。そして、破壊的な教えを信じてしまい、悪質な指導に従っている者のことを「敵として」攻撃するのではなく「兄弟として」警告し、もう一度帰って来られるように、呼びかけ続けることが勧められています。
華陽教会も、「信仰継承を考える」というテーマで、この一年、「健全な信仰継承とは何か?」「誠実な伝道とは何か?」を考え、カルト問題や「宗教二世」問題と向き合っています。「いやいや、私たちの教会はカルトとは違う!」「『宗教二世』問題なんて起きてない!」と思わず目を背けたくなることも、あるかもしれません。
しかし、不安や恐怖をあおった勧誘、脅迫的な教育によるコントロール、一人一人の意思や心身を蔑ろにする組織のあり方……そういった問題がないか、見つめ直すことを拒否することこそ、信仰者における「怠惰な生活」につながっていることを、もう一度思い起こすべきでしょう。
さて、私たち教会は今、「落ち着いて」働くことができているでしょうか? 信徒が減少し、奉仕者が減り、教会会計も厳しくなっていく中で、乱暴な人集めに陥ったり、強引な献金集めに走ったりしないよう、「落ち着いて」信仰継承を担うこと、伝道活動に取り組むことができているでしょうか?
もう一度、テサロニケの信徒たちに向けられた、現代の私たちにも語られている、手紙の言葉を思い出しましょう。「あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした」「兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい……」
共に、自らを見つめ直し、前を向いて進みましょう。平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げよ……アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌27番「あなたはわたしの避け所」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題
御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。
年間聖句
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」
年間主題
華陽教会では、「信仰継承を考える」というテーマで、マルコによる福音書10:14を今年度の年間聖句にしています。
今週は、芽含幼稚園の在園生、卒園生、教会学校の子どもたちが、怪我や病気、事故や事件から守られて、健やかに過ごすことができるよう、祈りを合わせていきましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
私たちの神さま。今日も、礼拝にあずかることができて感謝いたします。あなたからいただいたものを、まごころを込めて、ここにおささげします。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。
讃美歌
讃美歌21の24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。(差し支えない方は、お立ちください)
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。(テサロニケの信徒への手紙二3:13)
祝 福
どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった18名、同時に視聴された15名、計33名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜礼拝は『血で洗って白くした』と題して、ヨハネの黙示録7:9〜17のお話をする予定です。次回もぜひ、祈りを合わせてご参加ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。