ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『負いきれない罪』創世記4:1〜12

日曜礼拝 2025年11月2日


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説 明

本日は、召天者記念礼拝です。配信には映らないように、教会へ来られた方々が持ち寄った、故人の写真を飾っています。これは、先に召された方々が天において一緒に礼拝していることを覚えつつ、神の国で再会する日を待ち望み、祈りを合わせる礼拝です。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。(サムエル記上3:6)

 

讃美歌

讃美歌二編172番「世界につげよ」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆復活と希望をもたらす私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今日は、亡くなった人を思い起こし、神の国で再び会える希望を新たにする、召天者記念礼拝です。どうか今、親しい人を見送った人、悲しみに沈んでいる人へあなたの慈しみが豊かにあって、新しく生きる力をもたらしてください。

◆私たちの神様。天において、あなたに迎えられた人が、安息と平安を得られるように、地上に残された人たちも、慰めと励ましを与えられますように。どうか今、死を越えて、和解と回復をもたらされる、あなたへの信頼を確かなものとしてください。

◆私たちの神様。礼拝後には、希望される方々と共に、上加納墓地に集まって、短く墓前礼拝と納骨式も行います。どうか今、久しぶりに集まった家族や友人、遠方から祈りを合わせておられる方々に、あなたの導きが豊かにありますように。

◆全ての者と共におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。創世記4:1〜12の新共同訳を朗読します。会衆席にある旧約聖書5頁です。

同じく、創世記4:1〜12の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の旧約聖書5頁です。お持ちでない方は新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編51:1〜11、新共同訳交読詩編の59頁です。

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の382番「力に満ちたる」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

メッセージ

今日は、普段の礼拝とは違い、会堂の前に、会衆と向き合うようにして、亡くなった人たちの写真を飾っています。これは、私たちが地上で礼拝しているとき、先に召された人たちも、天において、一緒に礼拝していることを思い起こすためで、毎年11月の最初の日曜日に当たる「聖徒の日」に、このように、亡くなった人たちを記念しています。

 もともと、カトリック教会では、全ての聖人と殉教者を記念する「諸聖人の日」と、亡くなった全ての人を記念する「死者の日」を、11月1日と11月2日に分けて礼拝していました。しかし、宗教改革以降、多くのプロテスタント教会では、神様を信じる信仰者みんなを「聖徒」と呼んで、同じ日に、全ての召天者を記念するようになりました。

 華陽教会では、召天者記念礼拝の日に、教会で見送った方々の名前を読み上げ、神様の身許に迎えられた一人一人を思い起こし、やがて来たる神の国で、再会する日を待ち望みながら、皆で祈りをささげます。もちろん、教会で見送ることのできなかった、皆さんの身内や友人とも、神の国で、一緒に食卓へ着く日が来るように、共に祈りを合わせます。

 しかし、私たちが思い起こす、天へ召された人の中には、「神の国」「天の国」で、再会する日がやって来る……と言われても、再会をためらってしまう人、合わせる顔のない人もいます。かつて、自分が裏切ってしまった人、仲直りできないまま旅立った人、まともに見送ることさえできなかった人も、神の国で復活し、共に食卓へ着く日がやって来る。

 いざ、その日がやって来たら、和やかに食卓へ着くことができるのか、不安を覚える人もいるでしょう。死んでも自分をゆるしてくれると思えない、あの人と食卓へ着けるだろうか? 天の国で再会しても、口を利いてもらえないんじゃないか? 同じ食卓に招かれてほしくないと、拒絶されてしまうんじゃないか?

 ちょうど今日、聖書日課で指定された、創世記4章1節から12節にも、神の国で再会することを喜べるのか、怪しい2人が出てきました。聖書やキリスト教について、そんなに知らない人たちでも、どこかで名前を聞いたことのある、カインとアベルの兄弟です。2人は、最初の人類アダムとエバから生まれてきた、最初の兄弟でした。

 彼らは大人になると、兄のカインは土を耕して作物を育てる者となり、弟のアベルは羊を飼って暮らす者となりました。あるとき、2人は神様へ献げ物を持ってきました。聖書に出てくる最初の礼拝、最初の献げ物です。その日、兄のカインは畑で育てた作物を、弟のアベルは肥えた羊の初子を持ってきました。

 ところが、神様は、アベルとその献げ物には目を留めますが、カインとその献げ物には目を留められません。がんばって働いて得た成果を、一方は認められ、一方は認められなかった……そんなふうにも見えるシーンです。神様に、自分とその献げ物を目に留めてもらえなかったカインは激しく怒り、顔を伏せてしまいました。

 けれども、拗ねてしまったカインに対し、神様は直接声をかけ、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか」と問いかけます。神様は、自分が無視されていると感じるカインを放置せず、その怒りを受けとめて、話を聞こうとされました。しかし、カインは神様に向かって、自分の怒りを言葉にすることができません。

 「主よ、どうしてわたしの献げ物は、目に留めてくださらないのですか?」「わたしは、あなたに目を留めてもらえないことが悲しいのです」……ただそのように、思いをぶつけることができていれば、神様との和解も、すんなりできていたかもしれません。カインは決して無視されておらず、その様子を見た神様から、声をかけられていたからです。

 しかし、カインは、自分に目を留めて、声をかけてきた神様に、何も言葉を返すことなく、代わりにアベルへ言葉をかけにいきます。本来は神様へ差し出すべき思いを、弟アベルへの嫉妬に変えて、燃え上がらせていたようです。神様は、自分ではなくアベルに怒りをぶつけようとするカインに対し、「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」「お前はそれを支配せねばならない」と警告しますが、カインは最後まで無視します。

 そうして、彼は野原に呼び出したアベルを襲い、打ち殺してしまいました。わざわざ野原に呼び出して、人のいないところで殺しているため、その場で血が昇って、カッとなった犯行というより、計画的な犯行です。野原へ移動している間、頭を冷やして、思い直すチャンスもあったはずですが、彼はその衝動を支配することができませんでした。

 さらに、カインは、神様から「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねられた際、「知りません」と嘘をつき、「わたしは弟の番人でしょうか」と答え、犯行を隠し、反省する様子を見せません。神様が、「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」「今、お前は呪われる者となった」「土を耕しても、土はもはやお前のために作物を生み出すことはない」と告げてからも、カインは謝罪の言葉を述べません。

 「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と自分の先行きを恐れる言葉は吐きますが、神様に対し「わたしが悪かったです」「ゆるしてください」と謝ることも、弟の死を悔やむ様子も見せません。実は、彼の両親アダムとエバが、神様との約束を破って「取って食べるな」と言われた木の実を食べたあとのように、カインもアベルを殺したあと、悔い改めて謝罪するシーンはありませんでした。

 キリスト教と言えば、自分の罪を告白して、神様に悔い改めること、反省して生き方を改めることが求められるイメージがありますが、創世記に出てくる人類の先祖は、罪を告白する姿も、悔い改めて謝罪する姿も、ほとんど見せませんでした。謝らなければと分かっているけど謝れない、謝りたくても謝れない……現代の私たちが度々陥る、愚かな姿と変わりません。

 しかし、神様は、罪の告白も、謝罪もできないカインに対し、出会った人が彼を殺してしまわないよう「しるし」をつけて、その身を守る約束をします。カインは、殺人の報いとして「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と告げられますが、妻ができ、子どもができ、町ができるまで見守られ、地上をさまよい続けるまま、さすらうままにはされませんでした。

 そんな中、カインは自分が建てた町に、息子につけた名前と同じ「エノク」という名前をつけていきます。エノクという言葉は「わたしは従う」という意味から来ています。かつて、神様に従うことができなかった、悔い改めることも謝ることもできなかったカインが、今度こそ、神に従う者になりたいと、自ら付けた名前でした。

 このように「神の国」「天の国」をもたらす方は、「信じない者」「従わない者」が「信じる者」「従う者」となれるまで、付き合い続けて来た方です。私たちが負いきれない罪、償えない罪の報いを受けるまで、放置される方ではなく、罪を赦され、滅びを免れるように、付き合い続けてくださいます。

 新約聖書にも、自分を見捨てた弟子たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけたイエス様が出てきます。自分の復活を信じられない弟子たちに、何度も会いにやって来て、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われた方が出てきます。よく見ると、弟子たちも、再会したイエス様に、自分たちが見捨てたことや信じなかったことを謝罪するシーンはありませんでした。

 むしろ、復活したイエス様に会っても、すぐには気づけない、疑い続ける弟子もいました。しかし、イエス様は、弟子たちが自分に気づくまで、信じる者となれるまで、声をかけ、共に歩き、一緒に食事をして、付き合い続けてくださいました。負いきれない罪を負った者が、赦しを信じられるまで、和解を受け入れられるまで、イエス様は新しく出会い続けてくださいました。

 神と人、人と人との間にある隔たりは、そのように取り払われていきます。天の国、神の国に迎えられるとき、顔と顔を合わせること、共に食卓に着くことを、期待さえできない人たちとも、神様は和解と平和をもたらします。この方は、あなたが負いきれない罪を負いきれないまま、放置されることはありません。あなたの大切な人も、さまようまま、さすらうまま、放置されることはありません。

 だから、顔を伏せている者は、顔を上げなさい。不安に支配されている者は、希望を受け取りなさい。信じられずにいる者は、信じられないあなたにも、訪れている主を見上げなさい。あなたは、神の国から遠くありません。神の国の方から、あなたに近づいているからです。さあ、悔い改めて、福音を信じなさい。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌17番「祈れないときに」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

愛 餐

本日は、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。愛餐式とは、キリストが神の国のしるしとしてなされた5千人の給食を根拠にした「神の祝福を分かち合う食事」です。モラヴィア派の人々やメソジスト教会の各家庭で、かつては盛んに行われていたものでした。

 

信仰を告白した人が、信仰者であり続けるための「聖餐式」と違い、洗礼を受けていない人もあずかることができるので、現在もカトリックとプロテスタントの教派を超えた礼拝や、洗礼を受けていない人が多く集まる地区・教区の新年礼拝などで用いられています。

 

配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。御着席のままで大丈夫です。

 

食卓への招き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」

 

主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。

 

信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげます。

 

恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。

 

様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。

 

配 餐

共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、初めて来た方も、このパンと水は信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。

 

本日、礼拝に来られているお子さんや学生も、一緒に受け取っていただけます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。係の方は、前へお越しください。(パンと水を配る)

 

分かち合い

ケースの蓋をお取りください。共に、神の恵みを味わいましょう。

 

主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」

私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。

 

主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」

私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」2、3節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

主なる神さま。あなたがくださる沢山の恵みの中から感謝の献げ物をします。私の生き方と共に用いてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の29番「天のみ民も」を歌いましょう。(差し支えない方は、お立ちください)

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)

 

祝 福

神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくださいますように/あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。(詩編67:2〜3)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった21名、同時に視聴された5名、計26名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

本日は召天者記念礼拝として、教会から親しい人を見送った方、遠方から来たご遺族の方もお越しいただき、ありがとうございます。この後、教会から車で10分ほどの岐阜市営上加納山墓地で、短く納骨式と墓前礼拝を行います。

 

何人かの車で乗り合わせていきたいと思うので、車のない方は牧師や役員までお申し出ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。