ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神の使命を失敗する?』マタイによる福音書 14:1~12

聖書研究祈祷会 2025年11月5日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の463番「わが行くみち」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆新しい命をもたらす神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。

◆私たちの神様。先日の日曜日は、亡くなった人たちを思い起こす召天者記念礼拝が行われ、教会から親しい人を見送った人たちと共に、神の国で再会する希望を新たにすることができました。どうか今、これらの希望が、ますます多くの人へ分かち合えますように。

◆私たちの神様。自分自身や自分の身内が、調子を崩しておられる方に、あなたの癒しと導きが豊かにありますように。どうか今、適切な治療やケア、援助やサポートが受けられるように、あなたの助けが与えられ、回復がもたらされますように。

◆私たちの神様。教会で新しく出会った方々に、あなたの恵みが豊かにあって、これからも良い関係を築いていくことができますように。どうか今、私たち自身も、必要なとき、必要なところへ出て行って、隣人と出会っていくことができますように。

◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書 14:1~12の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書27頁です。

同じく、マタイによる福音書 14:1~12の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書27頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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メッセージ

 今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「神の使命を失敗する?」というトピックについて、マタイによる福音書 14:1~12に焦点を当てて、話していこうと思います。

 聖書の中には、族長や士師、王や預言者など、神から使命を授けられた様々な人が出てきます。イエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネ(または「洗礼者ヨハネ」)も、大切な使命を与えられた一人でした。その使命とは、人々が待ち望んでいた救い主メシアがやってくることを伝え、その方を迎えて、教えを受け取る準備を人々にさせることでした。

 ところが、洗礼者ヨハネは、イエス様が宣教を開始してしばらく経つと、領主ヘロデに捕まって、牢に閉じ込められてしまいます。領主ヘロデが、自分の兄弟の妻であったはずのヘロディアと結婚してしまったことを「神の掟である律法で許されていないことだ」と繰り返し批判したからです。

 その頃、大衆の宗教指導者であった律法学者やファリサイ派は、礼拝のために仕事を休むよう定められた安息日に働かないと生きていけない人たちや、定期的に神殿で献げ物をするのが困難な人、細かな掟を守ることが難しい人たちに、神の掟である律法を遵守するよう、厳しく指導していました。

 しかし、律法で禁じられている婚姻関係を堂々と結ぶ領主には、貧しい人や立場の弱い人たちへ向かうように「律法で許されていない」と指摘したり、批判したりはしませんでした。一方ヨハネは、旧約聖書に出てくる預言者たちと同じように、自分を危険な目に合わせる支配者層や権力者にも、正面から批判を行いました。その結果、彼は長いこと牢屋に囚われてしまいます。

 ヨハネは、自分が牢から解放されて、救われる日を待っていましたが、なかなかその時は来ませんでした。そして、自分が洗礼を授けたイエス様が、本当に救い主メシアなのか不安になって、イエス様に「来たるべき方は、あなたでしょうか? それとも、ほかの方を待たなければなりませんか?」と弟子たちを送って尋ねさせました。

 イエス様は、ヨハネが安心するように、彼の弟子たちへ言いました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音(良い知らせ)を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

 そして、群衆に対し、今捕まっているヨハネについて「預言者以上の者である」と言い「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」「彼は現れるはずのエリヤである」「耳のある者は聞きなさい」と語って、ヨハネのことを蔑ろにする者たちへ、もう一度、彼の話を振り返って、受けとめるよう促しました。

 けれども、それからしばらくして、洗礼者ヨハネは領主ヘロデに殺されてしまいます。しかも、首を刎ねられて盆に乗せられ、人々の前に晒される、という屈辱的な死に方でした。イエス様は、ヨハネの弟子たちからそのことを聞くと、ひとり人里離れた所に退かれ山の上で祈っていました。イエス様もヨハネの死を悼んでいたのだと思います。

 このように、洗礼者ヨハネは、救い主メシアを受け入れるよう人々に促し、神の教えを守るよう訴えたことで、教えを受け入れない人の反感を買って、殺されてしまいました。しかも、神の使命を担っていたのに、屈辱的な死を迎えてしまいました。そのため、これらのエピソードが、キリスト教系の破壊的カルトで、都合よく利用されてしまうことがあります。

 たとえば、洗礼者ヨハネが、領主ヘロデに殺されたのは、神の使命に従って迎えた「殉教」ではなく、救い主イエス・キリストと出会ったのに、一緒についていかないで、メシアであることを疑ってしまった報いである……洗礼者ヨハネのように、途中で疑い、失敗してはならず、最後まで従わなければ、屈辱的な結末が待っている……というような主張をして、信者をコントロールするところがあります。

 このような教えを展開するところでは、洗礼者ヨハネが領主ヘロデの婚姻関係について批判したことは、彼の勝手な行いであり、その結果、自分の死を招いてしまったのは自業自得だと教えられます。しかし、ヨハネが領主ヘロデの婚姻関係について指摘したのは、自分の危険を顧みず、王や王妃に、罪の告発や悔い改めを促すという「預言者的使命」の一つであり、旧約聖書に出てくる預言者たちも、同様の役割を担って迫害を受けています。

 また、洗礼者ヨハネがイエス様と出会ってからも、イエス様の弟子たちと一緒に行動せず、別々に、人々へ洗礼を授けていたことをもって「ヨハネは、イエス様のために行動せず、自分の宗教を作ってしまった」「洗礼者ヨハネは、イエス様が救い主メシアであると証しする使命に失敗し、それゆえに、キリストは十字架にかからなければならなくなった」と教えてしまうところもあります。

 しかし、ヨハネによる福音書には、イエス様の弟子となったペトロとアンデレが、もともと洗礼者ヨハネの弟子であったことが書かれています。2人はヨハネから「見よ、神の小羊だ」とイエス様を紹介され、イエス様に従うよう促され、キリストの弟子に加わったのであり、ヨハネはイエス様と別に自分の宗教を作ろうとしたのではありません。

 そもそも、マルコによる福音書9章の終わりや、ルカによる福音書9章の終わりには、イエス様の弟子たちと一緒に行動しなかった仲間たちが、他にも居たことが書かれています。その際、イエス様の弟子たちは、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と言いましたが、イエス様は、「やめさせてはならない」「わたしに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と答えて、離れたところで行動する彼らも、同じ仲間であることを宣言しました。

 洗礼者ヨハネが、イエス様が本当にメシアなのか不安になり、「来たるべき方は、あなたでしょうか? それとも、ほかの方を待たなければなりませんか?」と尋ねたときも、イエス様は安心できる答えを返し、彼が自分に逆らったとは言いませんでした。むしろ、ヨハネを預言者と認めない者たちへ「預言者以上の者である」と訴え、ヨハネが使命に忠実な者であることを宣言しました。

 にもかかわらず、キリスト教系のカルトの一部で、洗礼者ヨハネがイエス様を疑って、メシアを証しする使命に失敗したから、キリストも十字架にかからなければならなくなった……と主張するのは、自分たちの教祖がメシアかどうか疑ったり、組織から離れて行動したり、中途半端に従っていると、救いのない未来が待っている……と刷り込んで、教祖から離れられなくするためです。

 自分たちが教祖に忠実でなかったら、キリストが3年半しか活動できなかったように、現代のメシアも十分な活動をすることができず、使命を失敗させてしまう! 救いを達成できなくしてしまう! という恐怖を植え付け、どこまでも従順な信者でいるよう、コントロールしてしまうんです。

 しかし、キリストが十字架にかかったのは、洗礼者ヨハネが使命に失敗したからではなく、ご自身を完全な献げ物として、全ての人の罪を贖い、全ての人を「罪の報い」である「滅び」から免れさせるためです。「独り子(イエス)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」です。そして、信じない者が信じる者に、滅ぶべき者が救われる者となるように、自分の声に応えるまで、死を越えて、一人一人へ出会われます。

 多くのキリスト教系の破壊的カルトは、キリストの3年半の活動が「救いを達成できなかった不完全なもの」と主張して、「救いを達成できるのは、現代のメシアとしてやってきた教祖である」と訴えますが、聖書ではそのような表現はありません。むしろ、キリストの十字架と復活によって、救いが「成し遂げられた」こと、神の国の到来する計画が「完全な」「確かなもの」になったことが記され、良い知らせを信じるように促しています。

 だから、自分も、神の使命を失敗して、救いのない未来を招いてしまうんじゃないかと恐れている方は、安心してください。神様は、救いのない未来ではなく、救いが達成する未来を確かなものとするために、救い主イエス・キリストを遣わし、あなたと出会わせてくださいました。あなたが使命を失敗したまま終わることのないように、死を越えて、あなたを呼び起こされる救い主を送ってくださいました。

 どんなに、失敗する恐怖や挫折する不安をあおってくる者がいようと、あなたが挫折したまま、失敗したまま、この世が終わることはありません。キリストが、あなたを救いの完成する日へ、必ず至らせてくださいます。救いの完成を記念する祝宴へ、あなたを招いてくださいます。

 どうか、不安や恐怖をあおって、あなたを従わせようとする者から、あなたが守られますように。私たち自身が、歪んだ支配や関係性に陥ることなく、誠実に、良い知らせを伝えることができますように。さあ、平和のうちに、この世へと出て行きましょう。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛して、隣人に仕えていきましょう。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている富山県富山市の富山新庄教会のために、会衆の家族のために、会衆の友人のために、教会に来た新来者のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆富山県富山市の富山新庄教会のために祈ります。富山の郊外で、105年間守られてきた教会に、あなたの祝福がありますように。教会員みんなが礼拝生活を全うできるよう支えられ、家族と地域に福音が広がりますように。

◆会衆の家族のために祈ります。華陽教会に連なっている、会衆一人一人の家族の上に、あなたの祝福がありますように。病気や怪我、障害や衰え、悩みや葛藤で苦しんでいる身内の上に、あなたの癒しがもたらされ、生活が明るくなりますように。

◆会衆の友人のために祈ります。華陽教会に連なっている、会衆一人一人の友人の上に、あなたの祝福がありますように。孤独や孤立、事故や事件、差別や暴力で傷ついている友の上に、あなたの助けがもたらされ、平安が与えられますように。

◆教会に来た新来者のために祈ります。華陽教会の礼拝、聖研、集会へ来られて間もない人に、あなたの祝福がありますように。不安や恐怖、不満や落胆、疑問や不審に悩まされている人へ、あなたの恵みがもたらされ、喜びで満たされますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌25番「住む家のないわたしたちに」を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は『他宗教とキリスト教』と題して、コリントの信徒への手紙一2:6〜12のお話をする予定です。日曜日の礼拝は『土地を受け継ぐ約束』と題して、創世記15:1〜21のお話をする予定です。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。