ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『他宗教とキリスト教』コリントの信徒への手紙一2:6〜12

聖書研究祈祷会 2025年11月12日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の356番「インマヌエルの主イェスこそ」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。

◆私たちの神様。初めてここに来た方や、教会に来て間もない方に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、ここへ招かれた一人一人に、あなたの恵みが豊かにあって、新しい気づきや変化を一緒に受け取っていくことができますように。

◆私たちの神様。先日の日曜日には、華陽教会で岐阜ボーカルサウンドシンガーズのコンサートが開かれ、素敵な歌声をみんなで聴くことができました。どうか今、地域における交流が、ますます豊かに導かれ、新しい出会いと関係が広がっていきますように。

◆私たちの神様。芽含幼稚園でも、収穫感謝礼拝が開かれ、みんなで作った豚汁を美味しくいただくことができました。どうか今、子どもたちの成長がこれからも導かれ、あなたから受け取った恵みを、ますます豊かに分かち合うことができますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。コリントの信徒への手紙一2:6〜12の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書301頁です。

同じく、コリントの信徒への手紙一2:6〜12の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書296頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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メッセージ

 今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「他宗教とキリスト教」というトピックについて、コリントの信徒への手紙一2:6〜12に焦点を当てて、話していこうと思います。

 キリスト教は他の宗教とどこが違うのか? そのような質問を受ける度、私は困ってしまいます。日本に住んでいると、お寺や神社など、キリスト教以外の宗教を目にする機会も多いですが、私はこれらの宗教についてあまり詳しくありません。何なら、キリスト教とルーツを同じくするユダヤ教やイスラームについてさえ、ほとんど中身を知りません。

 キリスト教は他の宗教とどこが違うのか? と聞かれても、他の宗教の中身を知らない以上、どう答えたらいいのか分からない……というのが本音です。しかし、牧師にこのような質問をする人の多くは、「色んな宗教がある中で、あなたはどうして、キリスト教こそが『真理』であり、『正しい教え』だと信じているのですか?」ということが聞きたいのだと思います。

 さて、この集会に参加している、あるいは、配信を見ている信徒や牧師は、どのように答えるでしょうか? きっと、私以外のキリスト教徒も困ってしまう質問だと思います。なぜなら、私を含め、キリスト教の信仰を与えられた人の多くは、色んな宗教を吟味した上で、キリスト教の洗礼を受けたわけではないからです。

 もちろん、華陽教会にも、色んな宗教を見た上で、最終的にここへ来て、教会に留まった方もいますが、たいへん謙虚に「自分はキリスト教について体系的に学ぶことができていない」と繰り返しおっしゃられています。実は、キリスト教について「理解したから」他の宗教との違いが「分かったから」ここを選んだのではなく、気づいたらキリスト教に出会わされ、教会に留められていた……という人の方が、圧倒的に多いでしょう。

 しかし、私たちが、同じ信仰を誰かと共有したくなったとき、一緒に教会へ来てほしいと願うとき、その人に、他の宗教ではなく、キリスト教を選んでほしいという思いから、他の宗教を下げる形で、「キリスト教以外は真理じゃない」「キリスト教こそが真理であり正しい教えだから信じるべきだ」と言ってしまいたくなるときがあります。

 そして、「キリスト教を信じない人は愚かだ」「隠された秘儀を、真理を、理解できない人たちだ」と暗に貶め、「私たちと一緒に賢い者になりたければ、こっちへおいで」というふうに、誘いたくなるときがあります。ちょうど、先ほど読んだコリントの信徒への手紙一2章6節から12節も「キリスト教の知恵は他の知恵よりも優っている」という主張に、使われやすいところでした。

 キリスト教の信仰が成熟した者には、神の知恵が語られる……隠されていた秘儀としての神の知恵が明らかにされる……逆に言えば、神の知恵が分からない、明らかにされてない者は、早く信仰を持って成熟しなければならない! 信仰を持たず、成熟しなければ、この世の滅びゆく支配者たちと同じように、救いのないまま死に至る……だから、今すぐ私たちの仲間になって、信仰を成熟させなさい……というふうに。

 実は、このような聖書の受け取り方は、キリスト教系の宗教カルトや、カルト化した教会でも、信者を獲得するために、度々強調される読み方です。中には、既に、他の教会で信仰生活を送っている人、他の宗教を信じている人相手にも「あなたの信じているものが本当に真理を与えてくれたなら、いつ、どこで、どのように、自分が真理を得られたか、確信を得られたか、説明できるはずでしょう?」としつこく尋ねるところもあります。

 そして、答えられずにいると、「あなたはまだ真理を得られていない」「神の知恵を得られていない」「本物を知りたければ、確信を得たければ、私たちのところで勉強してみませんか?」と誘い、他の宗教や教会から、信者を引き抜くところもあるんです。言い換えると、「神の知恵」「真理」を知らずにいることへの不安を掻き立て、「このまま本物じゃない信仰を持っていたら救われない」という恐怖をあおった勧誘です。

 しかし、ここで重要なのは、成熟しない者が成熟しないまま、理解しない者が理解しないまま、滅びゆく者が滅びゆくまま、神様は放置されない方だという点です。特別な知恵を会得した者、修得した者が救われるのではなく、神ご自身が、ご自分の霊を送って、目の見えない者を見えるように、耳の聞こえない者を聞こえるように、人の心に思い浮かびもしなかったことを実現するように知恵を与え、救ってくださるという知らせです。

 事実、イエス様が自分についてくるよう呼びかけた弟子たちは、イエス様が十字架につけられて死んだあと、3日目に甦ったとき、その姿を見ても、その声を聞いても、復活したイエス様だと気がつかずに過ごしました。目が見もせず、耳が聞きもせず、心が理解しない者たちでした。

 しかし、復活したイエス様は、弟子たちが自分だと気づくまで、一緒にエマオの途上を歩き、彼らのためにパンを裂き、弟子自らが「わたしの主、わたしの神よ」と告白するまで、付き合い続けてくださいました。重要なのは「私たちがキリスト教を、神様を、理解できるか?」ではなくて「私たちが理解するまで、信じるまで、神様が、イエス様が、聖霊が、出会い続けてくださる」ことです。

 キリスト教が他の宗教よりも優れているとか、キリスト教以外はここが分かっていないとか、他の宗教を貶めないと、自分の信仰を保てないような「知恵」は、それこそ、神の霊による知恵ではなく、この世の霊による知恵です。他の宗教を信じていたら救われないとか、真理を得られた確信がなければ滅びに至るとか、相手を焦らせるような伝道の仕方は、どこまでも救いの手を伸ばす「神への信頼」から離れ、「救いが潰える恐怖」に支配されてしまった伝道です。そのときこそ、閉じている目を開かなければなりません。

 もし、「色んな宗教がある中で、あなたはどうして、キリスト教こそが『真理』であり、『正しい教え』だと信じているのですか?」という問いに、あなたが答えられないとき、それでも、この道を歩み続けているのなら、あなたは既に、復活したキリストと共に歩んでいるんです。

 エマオの途上で、復活したキリストと出会った弟子たちが、イエス様だと気づかずに、「一緒に泊まってください」と頼んだように、あなたは今日、キリストと共に宿へ泊まろうとしています。見えてないこと、聞こえてないこと、理解できてないことは、神様が、あなたから離れた証拠ではなりません。神様は、あなたが見えるように、聞こえるように、理解するようになるまで、あなたに出会い続けるからです。あなたと共にいるからです。

 復活したキリストが、弟子たちの前でパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったとき、それまで、一緒に居るのが死んだはずのイエス様だと気づかなかった弟子たちは、ついにイエス様だと気がつきました。その瞬間、イエス様の姿は再び彼らの目に見えなくなりました。

 しかし、彼らはもう、イエス様の姿が見えないことに項垂れはしませんでした。この方は、見えてないときにも、自分たちと居てくれたことに気づいたからです。だから、私たちも、この言葉を心に留めて、送り出されていきましょう。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」……キリストの平和の使者として行きなさい。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている石川県金沢市の金沢教会のために、発達障害のある人のために、精神障害のある人のために、身体障害のある人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆石川県金沢市の金沢教会のために祈ります。華陽教会から引っ越して、金沢で信仰生活を送っている仲間の上に、あなたの支えがありますように。高齢の方や病気の方、北陸学院の学生、教会学校の生徒たちとの関わりが、誠実に、豊かに導かれますように。

◆発達障害のある人のために祈ります。対人関係やコミュニケーション、注意力や集中力、読み書き計算などの面で、困難を感じている人に、あなたの助けがありますように。本人と周りの理解が進み、二次障害から守られて、より生きやすくなりますように。

◆精神障害のある人のために祈ります。本人と家族が安心して過ごせるように、周りの環境が整えられ、差別や偏見が解消され、適切なケアやサポートが広がりますように。特に自信を失っている人、自尊心が傷ついている人に、あなたの癒しがありますように。

◆身体障害のある人のために祈ります。自由に動けない方や、行動が制限されている方、周りに迷惑をかけないか不安を感じている人に、あなたの慈しみがありますように。みんなが過ごしやすい社会となるように、共に変化を作っていくことができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌16番「苦難のはざまから」を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は『一緒に遣わされる』と題して、ヨハネの黙示録 11:1~6のお話をする予定です。日曜日の礼拝は『聞こうとしない』と題して、出エジプト記6:2〜13のお話をする予定です。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。