ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『一緒に遣わされる』ヨハネの黙示録 11:1~6

聖書研究祈祷会 2025年11月19日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の447番「神のみこころは」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけて歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆命の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。

◆私たちの神様。コンサートやお楽しみ会を通して、新しく出会った方々に、あなたの導きが豊かにありますように。どうか今、私たちの思いと言葉と行動を通して、ここで出会った方々に、あなたの慈しみを伝えていくことができますように。

◆私たちの神様。今度の日曜日は、収穫感謝礼拝です。あなたからいただいた多くの実りに感謝しつつ、賛美と祈りをささげます。どうか今、あなたに蒔かれた御言葉によって、信仰と希望と愛という、豊かな実りも受け取ることができますように。

◆私たちの神様。来週は、音楽交流を中心とした岐阜地区の信徒大会が開かれます。それぞれの教会から、歌や楽曲を持ち寄って、賛美と感謝をささげます。どうか今、この交流が豊かに導かれ、それぞれの課題を一緒に担っていくことができますように。

◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネの黙示録 11:1~6の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書464頁です。

同じく、ヨハネの黙示録 11:1~6の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書451頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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メッセージ

 今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「一緒に遣わされる」というトピックについて、「二人の証人」というキーワードが出てくる、ヨハネの黙示録 11:1~6に焦点を当てて、話していこうと思います。

 聖書には、創世記の初めから「人が独りでいるのは良くない」と語られ、人間が誰かと一緒に遣わされる様子が描かれています。アダムはエバと一緒に命あるものの名前をつけるように遣わされ、モーセはアロンと一緒に神様の言葉を伝えるように遣わされました。神の子であるイエス様も、弟子たちを2人一組にして、各地へ宣教に遣わしました。

 そのため、キリスト教会でも「神様によって、誰かと一緒に遣わされる」ということを大事にしてきました。自分が手柄を立てるためではなく、自分を遣わした神様の教えと業が広がるように、愛と平和が広がるように、互いに助け合い、互いに支え合って、みんなで教会を築いてきました。

 普段の礼拝で、牧師一人が聖書朗読もメッセージもするのではなく、信徒と一緒に聖書を読み、祈りをささげ、信仰の証を行うのは、私たち信仰者が共に遣わされ、共に祭司として立てられていることを思い出すためでもあります。独りではなく、みんなで遣わされていることを、互いに隣人として送り出されていることを、毎週確認しているんです。

 けれども、キリスト教系の破壊的カルトや、カルト化してしまった教会の中には「神様が互いに支え合う隣人を送ってくださる」という良い知らせを「より大きな成果を得るため、2人一組のペアが用意されている」という話にすり替え、信者をコントロールするための道具に使っているところがあります。

 たとえば、イザヤ書34章16節の「主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ、主の霊が集めたものだからである」という聖句を引いて、万物にはペアがあると教え、あなたのペアとなるべき相手が誰か、正しく教えられるのは自分たちの先生だけだと言い、教祖の指定した、あるいは認めた相手としか結婚させないところがあります。

 しかし、ここに出てくるイザヤの言葉は、イスラエルを苦しめていた、エドムの町への審判が避けられないものである……と示すための表現で、「生き物に雄と雌がいるように、エドムの町にも裁きがある」というようなニュアンスで語られている言葉です。万物にペアがあることを解説している箇所ではありません。

 また、コヘレトの言葉4章9節から12節の「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ」という聖句を引いて、2人が一つになると二倍以上の力になると説明し、みんなで団結して、献金集めや勧誘を行うよう促されるところもあります。

 中には、このような聖句を利用され「家族や身内が信者でなければ、自分がその分の献金をささげなければならない」と思い込まされ、パートナーや子どもの分まで必死に献金をささげさせられている人もいます。もちろん、コヘレトの言葉も、助け合う相手がいることの重要性を示したもので、身内の分まで献金や奉仕を強要させるための言葉ではありません。

 さらに、一部の破壊的カルトでは、最初に読んだヨハネの黙示録11章1節から6節の言葉を引いて、神様は「時代を切り開く者」と「時代を完成させる者」の2人を遣わされると教え、自分たちの「先生」である教祖も「時代を完成させる者」として遣わされたメシアである!……という主張を展開します。

 たとえば、ここに出てくる「二本のオリーブの木」は、オリーブから油が取れることを理由に「2人の油注がれた者」すなわち「神様から使命をもらった人」と説明し、一人はエリヤのことで、もう一人はモーセのことだと教えられます。しかし、同じ「二本のオリーブの木」が出てくるゼカリヤ書では、ゼカリヤと同時代の政治的指導者ゼルバベルと大祭司ヨシュアのことを指しています。

 この2人は「王国」と「祭司」を代表する人物として象徴的に用いられます。そして、ヨハネの黙示録では、1章6節で、自分たちキリスト教徒と教会が、神様によって新しい「王国」と「祭司」にされていると語られています。そのため、「王国」と「祭司」を象徴する「二本のオリーブの木」は、ここでは特定の人物というより、キリスト教徒と教会全体を指しています。

 そして、「彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある」「水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる」というエリヤやモーセを思い起こさせる表現で、キリスト教徒と教会の最終的な勝利を予感させています。

 したがって、黙示録における「二人の証人」および「二本のオリーブの木」は、神様が遣わす特定個人というより、信仰者全体を表す表現です。けれども、一部のキリスト教系のカルトは「二人の証人」とはモーセとエリヤ、洗礼者ヨハネとイエスのように「時代を切り開く者」と「時代を完成させる者」のことだ……と強引に説明します。

 そして、時代を切り開くはずだった洗礼者ヨハネが、時代を完成させるはずだったイエスのことを神の子かどうか疑って、証をしなくなったため、イエスは迫害にさらされて、新しい時代を完成できずに死んでしまったと教えます。そう語ることで、新しく「時代を完成させる者」として遣わされた教祖を疑ってはならないと刷り込むわけです。

 けれども、ヨハネの黙示録の中で、「二人の証人」について手紙の著者に予告しているのは、文脈に従って読むなら、世の終わりに再び来られる救い主イエス・キリストご自身です。実際、新約聖書で「証人」「あかしびと」と出てきたら「イエス・キリストを神の子と証しする人」のことなので、通常「証人」が「キリスト」を指しているとは読みません。むしろ、イエス・キリストは「証しされる対象」で「証人を遣わす方」だからです。

 それなのに、「二人の証人」のうちの一人がイエス様だと言ったら、おかしなことになってしまいます。このように、キリスト教系のカルトは、「聖書は比喩で書かれている」と言い、「比喩を正しく理解すること」が重要だと言って、自分たちに都合の良い意味を、聖書の比喩だと刷り込みますが、実は、簡単に破綻してしまう解釈が多いんです。

 ちなみに、この箇所に出てくる「はかりざお」「物差し」のことを「御言葉」「神の言葉」の比喩であると教える団体もありますが、聖書学的には、「測る」という言葉は「特別の保護の下におく」ことを意味します。そのため、ここに出てくる「はかりざお」「物差し」を与えられること、神殿と祭壇を測るように指示されることは、「そこで礼拝している者たち」「神の民である信仰者」を保護し、守ることの比喩となっています。

 しかし、破壊的カルトやカルト化した教会の中では、そこで礼拝している者たちは保護されるどころか、生活が破綻するほど宗教活動へ駆り出されたり、人間関係を制限されたり、自分の頭で考えることを放棄させられたりします。隣人として遣わされるはずの信者同士で、お互いの生活を監視し、教祖や組織を裏切らないようがんじがらめにしてしまいます。

 だからこそ、「一緒に遣わされる」「互いに支え合う」ことを大事にするとき、私たちも歪んだ支配や破壊的な関係に陥ってないか、注意が必要です。聖書の言葉を利用して、特定の人に従う構造を生み出してないか、無批判に自分もそれに加担してないか、振り返ることが重要です。

 どうか、私が過ちを犯すとき、一緒に遣わされている隣人である皆さんから、注意ととりなしを受けられますように。一緒に遣わされている隣人である皆さんが、過ちを犯してしまうとき、見て見ぬふりではなく、和解と回復ができるように、勇気を持って、注意ととりなしができますように。
 さあ、キリストの証人として、遣わされていきましょう。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている石川県金沢市の金沢南部教会のために、子どもたちのために、青年のために、年配の方々のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆石川県金沢市の金沢南部教会のために祈ります。開設から65周年を迎えたこの教会に、あなたの祝福が豊かにありますように。宣教のビジョンを高く掲げて前進し、大きな変革の時期を乗り越えていくことができますように。

◆子どもたちのために祈ります。芽含幼稚園、桐ヶ丘幼稚園、常盤保育園をはじめ、中部学院大学付属幼稚園や済美高校、教会学校の生徒や岐阜市の子どもたちに、あなたの恵みとお守りが豊かにありますように。事故や事件、病気や怪我から守られますように。

◆青年のために祈ります。済美高校や中部学院大学の学生、卒業生をはじめ、岐阜市の青年たちに、あなたの支えと導きが豊かにありますように。特に、岐阜から名古屋、名古屋から東京へと新しい門出を迎える青年に、あなたの慈しみがありますように。

◆年配の方々のために祈ります。華陽教会の会衆と、会衆の家族をはじめ、岐阜市におられる年配の方々に、あなたの希望と喜びが豊かにもたらされますように。特に、病気や障害、衰えや介護などによって、なかなか教会へ来れない人に、慰めがありますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌14番「奮い立て貧しい民よ」を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は『メシアが来る日?』と題して、ダニエル書 12:5~13のお話をする予定です。また、今週の金曜日は、午後2時半から3時半に「聖書物語ダイジェスト(7)」としてキリスト教ABC講座を、午後7時半から8時半に本日と同じテーマで夜間聖研祈祷会を開きます。

 

なお、今度の日曜日の礼拝は『人が見るようには見ない』と題して、サムエル記上16:1〜13のお話をする予定です。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。