ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『救いとは何か?』フィリピの信徒への手紙2:12〜18

聖書研究祈祷会 2025年12月17日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の260番「いざ歌え、いざ祝え」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆世界を創造し、完成される神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。

◆私たちの神様。キリストの誕生を記念するクリスマスを待ち侘びつつ、キリストが再び来られる時を待ち望むアドヴェント第3週目を迎えています。どうか今、クリスマスを迎える準備をしている一人一人に、あなたの導きが豊かにありますように。

◆私たちの神様。日々の忙しさに押しつぶされ、落ち着かない人たちにも、あなたは自ら訪れます。準備の整わない者が整うように、喜べない者が喜ぶ者となるように、一緒に導いてくださいます。どうか今、みんなであなたを迎えることができますように。

◆私たちの神様。病気や怪我、障害や衰え、介護や看病、仕事や学業、そして様々な事情によって、傷つき、疲れ、悲しんでいる人に、あなたの慰めがありますように。どうか今、痛みが癒やされ、力が回復し、共に希望を受け取ることができますように。

◆私たちと共におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。フィリピの信徒への手紙2:12〜18の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書363頁です。

同じく、フィリピの信徒への手紙2:12〜18の聖書協会共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書355頁です。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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メッセージ

 今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「救いとは何か?」というトピックについて、フィリピの信徒への手紙2:12〜18に焦点を当てて、話していこうと思います。

 キリスト教の救いとは何か? ということを考えるとき、多くの人は「信じることで、神様に助けてもらえること」「死んだあと天国へ行けること」というふうにイメージすると思います。病気や怪我が癒やされ、事故や事件から守られ、暴力や貧困から解放される。たとえ、それらが生きている間に叶わなくても、死んだあと天国に迎え入れられ、幸せに過ごすことができる……そんな期待があるでしょう。

 一方で、「救い」の反対である「滅び」には、「神様に助けてもらえず、天国へ行けないこと」「地獄へ堕ちること」というイメージがあるでしょう。神様を信じない者は、神様が支配する天国へ迎えてもらえずに、締め出されてしまう……信じていても、神様に赦されない罪を犯した者は、受け入れられずに滅ぼされる……そうならないように、自分が犯してきた全ての罪を赦されるよう、一生懸命、善いことをしなければならない……そう思うかもしれません。

 実際、教会の門を叩く人の中には、自分が犯した罪のゆえに、神様から罰を受けているのではないか? 病気や怪我が治らないのは、事故や事件に遭ってしまうのは、私が神様を怒らせているからじゃないか? と不安に駆られ、神様に罪を赦してもらい、よくないところが癒されるように、事故や事件から守られるように、死んだあと天国へ迎えてもらえるように、どうしたらいいのか知りたい……と考える人が、一定数います。

 もちろん、聖書の中にも出てくるように、病気や怪我が治らなかったり、事故や事件に遭ったりするのは、必ずしも神様の怒りを受けているからとは限りません。神様も認める善人が、そのような苦難を受けていたり、「あなたの信仰は立派だ」と神の子も認める人物が、困難な目に遭っていることも珍しくありません。

 長い間、「なぜ、こんな目に遭わなければならないのか?」と苦しみに耐えてきた人間が神様から病気を癒やされ、困難を克服させられ、報われる話もあれば、最後まで、不遇な目に遭って死んだ者が、神様の手で天の国へ引き上げられる話も出てきます。周りから、「あの人は神様に嫌われている」「救いから遠い存在だ」と思われていても、ちゃんと神様に助けてもらえる話が出てきます。

 しかし、どこかで「自分もちゃんと救われる」という確証を得たい私たちは、「救われる条件を満たしているか?」とついつい確認したくなってしまいます。「どこまで神様のことを理解したら、十分な信仰と認められるだろう?」「どこまで信仰生活を徹底したら、罪を赦してもらえるだろう?」「どこまで奉仕や献金を行ったら、神様に従順だと認められるだろう?」

 「信じる者は救われる」と言われても、何をどのように信じたら「自分も確かに救われる」と思っていいのか、気になってしまいます。「神様を信じる」と一口に言っても、神様でないものを神様だと信じていたり、自分の思い込みで神様を理解していたり、神様のことをほとんど知らないままふんわり信じていたら、果たしてそれは、救われるに足る信仰なのか、疑問符がついてしまいます。

 救いとは何か? という問いは「どうすれば救われるのか?」「どのように救われるのか?」という問いとも、切り離すことができません。この世で困難から救われることも、あの世で滅びから救われることも、「どのように」「何をして」そこに至るのか、私たちは、尋ね求めずにはいられません。

 破壊的カルトは、このような問いに対して、とても分かりやすい解決を与えます。「救いとは、肉体が滅んでも霊界に行って、霊が幸せに生きることです」「霊界には悪い霊が集められるところ、善良な霊が集められるところと、いくつかのランク(階級)が存在します」「良い階級の霊界へ行くには、良い信仰生活を送らなければなりません」「良い信仰生活を送るには、神様の遣わすメシア(救い主)と会って、その話を聞かなければなりません」

 そのように続けて、神様の遣わしたメシアとは、実は、自分たちの「先生」である教祖なんだと刷り込んで、「先生」を「メシア」と信じられるかどうかが、救いに至るかどうかを決定させると思わせます。メシアである教祖の言うとおりにできるかどうかが、救いに直結していると思わせます。

 加えて、教祖が遣わされた現代こそ、メシアが再び遣わされた「新しい時代」で、今このとき、「先生」をメシアと信じなければ、もうチャンスはやって来ない……地上における肉界でも、天上における霊界でも、今、「先生」と出会ってメシアと信じなければ、救われるチャンスは二度とない……そういうふうに思わせて、教祖と会うことを許されるように、必死に宗教の勉強をさせる……そうやって、信者をコントロールするところがあります。

 もし、「先生」が「メシア」だと悟ることができなければ、「先生」をメシアと信じることができなければ、聖書を読んでキリスト教を信じているつもりになっている人たちも、本当の意味で信仰者とは認められず、霊界で裁きを受けてしまう……善良な霊が集まるところへ行かせてもらえず、苦しむことになる……そう言って、教祖を批判したり、教祖に疑問を持ったりすることは、救いから遠のくことだと思わせてしまうんです。

 ちなみに、「霊界」や「肉界」という言葉は、通常のキリスト教会ではまず使われません。信仰に応じて、死んだあと行くことのできる霊界のランクが決まってくる……という教えも、キリスト教というよりは、東洋やスピリチュアルの思想を組み合わせたもので、聖書には、そんな細かく具体的に「死んだあとに行く世界」は描かれていません。そこがどういうところかは分からないけど、死が終わりではないこと、死によって隔てられた人ともいつか再会できる希望があることが、大事なところです。

 また、イエス様は自分に最後までついてこれなかった、最後まで疑ってしまった弟子たちにも、従うようになるまで、信じるようになるまで、働きかけ続けました。今すぐ信じなければ、今すぐ従えなければ救われない! というような、強迫的な関係ではなく、理解しなくても、ついてこれなくても、理解するまで、ついてこれるまで、見放すことのない関係を築かれました。本当のメシア、救い主は「何か条件を満たさなければ救われない」と突き放すような方ではありません。

 救いとは「見捨てられるかもしれない」「滅ぼされるかもしれない」という恐怖から解放され、希望のうちに生きていくことです。本来、信じることができないまま、従うことができないまま、滅んでいくはずだった人間も、神の国へ迎えられるように、罪を赦されるように、どこまでも付き合ってくださる方が、一人一人へ訪れてくださいます。神様は、罪を赦されない者が、赦されないまま終わることなく、新しい命を受けて、回復されるよう働きかけます。

 思い出してください。十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになさったのですか!」と叫んだ神の子は、同じように、「神に見捨てられた!」と叫んで亡くなっていった者、倒れていった者を訪れてくださいました。彼らが捨てられたままにされず、永遠の命を受けるため、陰府に降ってくださいました。もう既に、見捨てられたと思われていた人々をも、この方は、見捨てられたままにされません。

 もし、見捨てられる恐怖、救われない恐怖をあおって、信仰生活を徹底するよう、ささやいてくる者がいたら、警戒してください。本来の信仰は、救いが潰える恐怖ではなく、救いに対する信頼によって築かれます。神様は、あなたが救いを達成できなければ、救いが達成できるまで、どこまでも、死を越えて、あなたを導き続けます。信じない者が信じる者となる日まで、従わない者が従う者となる日まで、根気よく一緒に居続けます。

 洗脳によってでも、マインドコントロールによってでもなく、その人自身の意思によって、救いを受け取るときがやってくるまで、この方は一人一人に近づき、呼びかけ、出会い続けます。この方は、転んで泥だらけになった者と、一緒に転んで泥だらけになり、一緒に起き上がってくださいます。綺麗な手を掴めないあなたへ、自分も泥だらけになって一緒に肩を組まれます。

 神様は、ゴールで待っている方ではないんです。あなたと一緒にゴールするため、あなたの隣で走っている方なんです。神様の希望と励まし、慰めと平安が、あなたがた一同の上にあるように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている愛知県名古屋市の熱田教会のために、離れている人のために、近くにいる人のために、これから出会う人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆愛知県名古屋市の熱田教会のために祈ります。創立120周年を迎え、新会堂を与えられたこの教会が、地域への伝道へ豊かに用いられますように。附属幼稚園に入園児が招かれますように。

◆離れている人のために祈ります。教会から離れている人、遠いところにおられる人、怪我や病気で来られない人たちへ、あなたの慈しみがありますように。あなたとのつながりが強くされ、恵みと喜びで満たされますように。

◆近くにいる人のために祈ります。私たちの身近にいる家族や友人、近所の方々、普段、顔を合わせる方々に、あなたの祝福がありますように。私たちの思いと言葉と行いを通して、イエス様との出会いが導かれますように。

◆これから出会う人のために祈ります。久しぶりに教会へ来ようとしている人、初めて礼拝に参加しようとしている人、私たちが出会っていく一人一人に、あなたの恵みがありますように。これらの交わりが豊かにされ、共に希望を分かち合えますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌53番「歌い、踊り、跳ね、笑い、叫べ」を歌いましょう。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日の聖書研究祈祷会はお休みです。夜7時から8時のクリスマス聖夜礼拝(クリスマス演奏礼拝)に合流します。翌日、25日のクリスマスには、午後1時半からクリスマス祈祷会を行います。

 

『ベツレヘムのこどもたち』と題して、マタイによる福音書2:13〜23のお話をする予定です。祈祷会の中で、21日の礼拝や24日の礼拝へ来られなかった人のために、パンと水をいただいて、神の祝福を分かち合う愛餐式も行います。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。