日曜礼拝 2026年1月4日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。(ヨハネの手紙一5:6)
讃美歌
旧讃美歌234のB「むかし主イェスの」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆救いの源である神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。新年早々、様々な失敗やつまずきに直面している私たちへ、あなたは新しい気づきをもたらします。どうか今、私たちの過ちをお赦しください。そして、私たちが傷つけた人、壊してしまったものを癒し、変化と回復をもたらしてください。
◆私たちの神様。今週も、私たちの悩みや葛藤を受けとめて、支え導いてくださったことを感謝致します。どうか今、私たちが受け取ったあなたの恵みと憐れみが、さらに多くの人たちへ広がっていきますように。聖霊の働きが、私たちの間を満たしますように。
◆私たちの神様。新学期が始まった、幼稚園や学校にいる子どもたちに、あなたの慈しみがありますように。学校へ行くのが困難な子どもたちにも、あなたの慰めが豊かにあって安心できる仲間と居場所がもたらされますように。
◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。マルコによる福音書1:9〜11の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書61頁です。
同じく、マルコによる福音書1:9〜11の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書60頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編36:6〜10、新共同訳交読詩編の43頁です。
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『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の476番「あめなるよろこび」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

メッセージ
華陽教会では、洗礼式のことを「キリスト教の入信式」あるいは「信仰者になるための式」というふうに説明することが多いです。しかし、皆さんの中で、こんな疑問が湧いてきたことはないでしょうか? 神様を信じ、イエス様を「神の子」「救い主」と信じていても、洗礼を受けていなければ、「信仰者」とは呼べないんだろうか?
神様を信じて生きているのに、聖書を大切にしているのに、洗礼という儀式を受けない限り、キリスト教の信仰者、教会の一員とは、みなされないんだろうか? 洗礼は受けていなくても、教会の礼拝に参加したり、教会の行事を手伝ったり、他の信徒や会衆のために祈ってくれる人たちは、神の民とは言えないんだろうか?
たぶん、自分の友人、あるいは家族で、洗礼は受けていないものの、「同じ信仰を持っている」と感じる人が、皆さんにもいると思います。洗礼は受けていないけれど、神様を、イエス様を、信じていないわけがない……と感じる人が、私にもいます。もし、その人のことを「信仰者じゃない」と誰かに言われたら、ちょっと腹も立つでしょう。
中には、洗礼を勧められたものの、たいへん謙虚に「まだまだ、キリスト教のことも、聖書のことも分かってないので、私に洗礼は早いと思います」と断り続ける人もいます。そういう人を見て「私は洗礼を受けているけど、キリスト教や聖書のことが、ちゃんと分かっているかと言うと、決してそうとは言えないな」と後ろめたくなる人もいるでしょう。
なんなら、自分よりもこの人の方が、よっぽど真面目に礼拝へ出ている、たくさん聖書を読んでいる……と感じる相手もいるでしょう。もし、この人が洗礼を受けるのにふさわしくないなら、既に洗礼を受けた私だって、ふさわしくなかったんじゃないか? 本当は私こそ、洗礼を受けちゃいけない人間だったんじゃないか?
考えるうちに、だんだん怖くなってきます。実際、洗礼を受けたものの、周りにはクリスチャンであることを隠し、誰かを教会へ連れてきたこともなく、礼拝にも、毎週続けて来られない自分は、教会員の資格がないんじゃないか……? そう思い詰めてしまう方があちこちの教会におられます。
「自分はまだまだ……」と洗礼を受けない人もいるのに、信仰者としてふさわしくない私の方が、信徒でいるのは申し訳ない……先生、私が洗礼を受けたのは正しかったんでしょうか? このまま信徒でいるのは、教会員として過ごしているのは、間違っているんじゃないでしょうか?
牧師をしていると、そんなふうに問われることは珍しくありません。洗礼を受ける資格があるのは、何か一定の条件を満たした人で、条件を満たしていない人が受けるのは、おこがましいことである……そんなイメージがあるからなのかもしれません。皆さんはどうでしょうか? 自分が洗礼を受けたとき、何か一定の条件を満たしていたでしょうか?
洗礼を受けてから、今に至るまで、信仰者にふさわしく、清く正しい生き方を、続けられているでしょうか? むしろ、洗礼を受けてから、信仰的に大きくつまずいたり、教会から足が遠のいたり、神様に顔向できない失敗をしてきた人も、少なくないと思います。私だってそうです。
洗礼を受けてからも、聖書の記述に引っかかって納得できなくなったことや、良くない感情に支配されて間違いを犯してしまったことや、神様に疑いを抱いたり、怒りを覚えたりすることが、次々と出てきました。信仰が十分育っていたから、洗礼を許されたわけじゃありません。聖書がしっかり理解できたから、洗礼を受けられたわけじゃありません。
洗礼というのは、「聖書の理解度」や「信仰の強さ」によって受けることが許されるものではないんです。むしろ、聖書のことも、キリスト教のことも、よく理解してない私自身が、理解する者となれるまで、信仰の薄い私自身が、信仰の厚い者となれるまで、救い主イエス・キリストが、付き合い続けてくださることを信頼して歩み出すスタートなんです。
マルコによる福音書1章9節から11節には、そのイエス様ご自身が、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたことが記されています。不思議ですよね? 信仰者になるための式に、信仰される側のキリストが参加するって、変な話です。しかも、神の子が、人間から、洗礼を授けられにやってきます。
ヨハネも困ったことでしょう。彼は、人々に救い主を迎える準備をさせるため、神様によって遣わされていた人間でした。「神様を愛し、隣人を愛するように」という掟を何度も破り、神様を忘れ、隣人を傷つけてきた一人一人が、救い主から罪を赦され、救いにあずからせてもらえるように、罪と向き合って水に浸かり、身を清めるよう促していました。
それが、ヨルダン川でヨハネの行っていた「悔い改めのバプテスマ」です。ようするに救い主と出会ったとき、「救いにふさわしい者」と認めてもらえるよう、自分の罪を自覚して、悔い改めて、神様に心を向け続けるよう、何度も水で身体を清めさせていたんです。ところが、罪のないはずの救い主が、自分も洗礼を受けにやってきます。
マルコによる福音書では、非常に短く、イエス様がヨハネから洗礼を受けたことが記されていますが、マタイによる福音書では、ヨハネが驚いてこう言ったことが記されています。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
私たち人間は、救い主である、あなたに受け入れてもらえるよう、罪を赦してもらえるよう、悔い改めて、身体を水で清めていますが、神の子であるあなたは、悔い改める必要なんてないじゃありませんか? あなたは、私たちが、ちゃんと悔い改めているか、救いを受けるのにふさわしいか、合否を言い渡す側じゃないですか?
それなのに、悔い改める必要のないあなたが、悔い改める必要のある私から、洗礼を受けようと言うんですか?……ヨハネはもうパニックです。でも、マタイによる福音書で、イエス様はこう言っています。「今は、止めないでほしい」(今は、そうさせてほしい)「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
このときから、洗礼の意味が新しく変わっていきました。もはや、洗礼は、救いにふさわしい者と認められるため、どれだけ自分の罪と向き合ったか、どれだけ神様に心を向けてきたか、証明するためのものではありません。まだふさわしくない私自身が、救いを受けられるように、救い主が一緒に歩んでいることを信頼しますと公に告白するものです。
かつて、ヨハネがイエス様に洗礼を授けるとき、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と困ったように、牧師である私も、自分のような者が、誰かに洗礼を授けるなんて、本当にいいんだろうか?……と恐ろしくなるときがあります。むしろ、自分こそもう一度洗礼を受けなければならないくらい、何も変わっていない者じゃないか?
信仰者として、牧師として、欠けていることばかりで、「悔い改めが足りない」と非難される者じゃないか? 他の牧師に変わった方がいいんじゃないか? けれども、これから洗礼を受ける人が、私の前に出て来るとき、これから洗礼を受けるイエス様が、ヨハネの前に出て来た光景が、思い起こされるんです。
あなたが、私から洗礼を受けるとき、洗礼を受けるあなたによって、私も、キリストと出会わされているんです。「私のような者が、本当に洗礼を授けていいんだろうか?」……そう狼狽えてしまう私に向かって「止めないでほしい」「そうさせてほしい」と、私の前に立つあなたを通して、イエス様が語りかけてくれるんです。
そう、洗礼を受けるとき、皆さんは既に、キリストの業に用いられています。あなたが洗礼を受けるとき、あなたの洗礼そのものが、集まった会衆一人一人をキリストと出会わせる「伝道」に、「神の業」になっています。礼拝の中で、会衆と共に、信仰を告白するあなたの声、あなたの姿は、紛れもなくキリストを証しする伝道です。
あなたの洗礼を止めずに導いているのはイエス様です。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と宣言し、一人一人の洗礼を導いてきたのはイエス様です。安心してください。洗礼は、イエス様が待っているゴールではなく、イエス様の差し出している手を掴んで、一緒に歩み出すスタートです。
この方は、あなたがゴールしないまま、あなたが救いに入れないまま、放置する方ではありません。あなたのもとへやって来て、一緒にスタートする方です。あなたが救いにあずかるまで、あなたが神の国へと迎えられるまで、どこまでも付き合い続けます。洗礼は、神の国にふさわしくない私のことも、ふさわしくなるよう導いてくれるイエス様が、私に出会ってくれたことを、みんなの前で、告白する出来事です。
イエス様は、私とも一緒にスタートしてくれた。イエス様は、私のことも、救いにふさわしい者とするため、新しく出会いに来てくれた。たとえ、私が再びつまずこうとも、私が離れかけようとも、この方は私を呼び続け、私を正しい道に立ち返らせる。体が衰え、教会に来られなくなろうとも、物忘れが激しくなり、牧師の言うことが分からなくなろうとも、死を超えて、イエス様は私を救いへ至らせ、神の国へ迎えてくださる。
洗礼式を「信仰者になるための式」と言うのは、まさに、信仰者と呼べないはずの私のことも、一緒に水の中へ入り、一緒に水の中から上がってきて、一緒に信仰者としてスタートさせてくれる、イエス様との出会いを象徴する式だからです。あなたと共に死に、あなたと共に甦って、新しい命を与える方を、思い出させる式だからです。
共に、あなたと一緒にスタートされる、イエス様の姿を思い起こし、今週も新しく歩んでいきましょう。神に愛され、「神の心に適う者」と宣言されたイエス様が、あなたをも、祝福された言葉を受けとめ、新しく遣わされていきましょう。主の平和があなたがた一同と共にあるように。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌8番「何もかわらないと(B)」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題
御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。
年間聖句
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」
年間主題
華陽教会では、「信仰継承を考える」というテーマで、マルコによる福音書10:14を今年度の年間聖句にしています。
今週は、今年100周年を迎える、芽含幼稚園の子どもたち、保護者、卒園生のために祈り、幼稚園の働きが、これからも誠実に導かれるよう、心を合わせていきましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
主なる神さま。今、ここにささげたものを、どうぞ、あなたのみわざのために用いてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌15番「わたしたちは旅人」を歌いましょう。(差し支えない方はお立ちください)

祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。一同で「アーメン」と唱和した後、私が手を合わせたら、皆さんもどうぞご着席ください。
派 遣
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マルコによる福音書1:11)
祝 福
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(コリントの信徒への手紙二13:13)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった15名、同時に視聴された15名、計30名の方が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜日は、『人間をとる漁師』と題してマルコによる福音書1:14〜20のお話をします。また、水曜日の聖書研究祈祷会は、『再臨の準備』と題して、使徒言行録1:6〜11のお話をします。次回も祈りを合わせてご参加ください。
なお、来週は第3日曜日なので、ハレルヤランチを挟んで、月毎にテーマを決めて学びや近況を分かち合う「ぶどう園の集い」と、自由に近況を分かち合う「ヒラソルの会」が開かれます。誰でもお好きな方に参加できるので、時間のある方はぜひ、ご参加ください。
それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。