ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『あなたが討った救い主』 使徒言行録2:25〜36

聖書研究祈祷会 2022年5月19日


www.youtube.com

 

案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、3回目のワクチン接種を受けた人たちで、聖書研究祈祷会に集まっています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の306番「あなたもそこにいたのか」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆復活と希望をもたらす私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここにいる配信奉仕者と、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。今週から、何とか教会に集まる礼拝や集会を再開できたことを感謝致します。どうか今、ここに集まる人たちの健康と安全が守られ、配信を通して参加している人たちにも、あなたの力と恵みがもたらされますように。

◆私たちの神様。来週から、感染症対策を徹底した上で、3回目のワクチン接種を終えた人たちで日曜日の礼拝に集まります。どうか今、感染症に苦しんでいる方や、様々な事情で直接参加できない人にも、あなたの祝福と導きがありますように。

◆私たちの神様。未だ、ウクライナとロシアの戦争や、アジア・アフリカにおける紛争、少数民族への弾圧や迫害など、悲惨な現実が続いています。どうか今、全ての人に和解と平和がもたらされるよう、私たちに誠実な知恵と勇気をもたらしてください。

◆愛と平和の源であるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録2:25〜36の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

www.bible.or.jp

Maike und Björn BröskampによるPixabayからの画像

メッセージ

「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」……ペンテコステの日、聖霊を受けたペトロが最初に語ったメッセージは、非常に生々しい言葉で終わっています。誰がどう聞いても、聞き手が責められている、脅されている感じの言葉。

 

あなたがたは間違いを犯した。あなたは正しい者を、善良な者を、自分の救い主を殺してしまった……さあ、これから報いが待っている! どうすればいいか聞きたいか? 暗に、そう言っているんだとしたら、人々は狙いどおりに聞いてきます。「わたしたちはどうしたらよいのですか?」

 

ペトロは答えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい」……私はこの流れが、どうしても不穏に感じてしまいます。以前にも言いましたが、恐れや不安をかきたて、人々を入信させるカルトの手口を彷彿とさせる流れだからです。

 

もちろん、ペトロは人々へ無理やり洗礼を施したわけじゃありません。強制したわけじゃありません。でも、こういうふうに言われたら、何となく次のように言われた気分になるでしょう。「このままでは罪赦されず、メシアを殺した罰を受ける!」「何とかしないと地獄に落ちる!」「だから、洗礼を受けなさい!」と。

 

この日、エルサレムに集まっていたユダヤ人の多くは、直接イエス様に手をかけたわけじゃありませんでした。死刑に賛成したか、反対しなかっただけです。何なら、遠方からやって来て、初めてこの事件を知った人もいたでしょう。しかし、ペトロははっきりと、容赦なく彼らへ責任を突きつけます。「あなたがたが十字架につけて殺した」と。

 

あの日、あそこで殺された、私たちの身代わりとなった方の死に、あなたも関わっている、あなたも彼の死に責任がある一人だ……と。同様のことが、私たちにも言われます。神に背き、良心に背き、自分自身を正当化するあなたもまた、救い主を引き渡し、捨ててしまった一人である。だから、悔い改めて洗礼を受け、罪を赦していただきなさい……。

 

果たして、この言葉は、恐怖をあおって入信させる、洗礼を受けさせるための、脅迫的な言葉なんでしょうか? 不安や罪悪感を刺激して、メンバーを増やそうとする、破壊的カルトの勧誘と同じような狙いなんでしょうか? 私たちもこういうふうに洗礼を促すべきなんでしょうか?

 

問題のメッセージは、復活したイエス様が天に上った10日後に語られました。弟子たちが約束された聖霊を受け、他の国々の言葉で話し出したとき、集まっていた人々は戸惑いながらこう言います。「いったい、これはどういうことなのか?」中には嘲ってこう言う人も出てきます。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」

 

ペトロが口を開いたのはこのときです。彼は今まで一人だけ座っていたのか、ようやく立ち上がって、他の11人と並びます。そして、声を張り上げます。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります」「この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」

 

不思議なことに、彼は「私たちは」ではなく「この人たちは」と、自分以外の11人について話します。まるで、彼だけは、今まで他の国々の言葉で話し出さず、沈黙していたかのようです。ペンテコステの日、私たちは12人の弟子たちが、一斉に他の国々の言葉で語り出したとイメージします。

 

でも実は一人だけ、他の弟子たちが立っているとき、まだ座っている者がいた。みんなが語り始めたとき、まだ沈黙している者がいた。それがなんとペトロだった……改めて読むと、そんな印象を受けるんです。周りにいた人々は思わず注目したでしょう。最後に立ち上がった彼こそが、弟子たちの中心人物です。

 

同時に、彼こそが、弟子たちの中で唯一、イエス様を三度も否定した人物でした。イエス様が逮捕され、自分も捕まりそうになったとき、「わたしはあの人を知らない」「仲間じゃない」と言ってしまった。その場から逃げ出し、イエス様が処刑されるとき、遠くから見ていることもできなかった。

 

「あなたがたが十字架につけて殺したイエス!」ペトロがそう口にするとき、同様に彼も言われるでしょう。「あなたが三度否定したイエス!」「あなたが見捨てて置き去りにしたイエス!」「あなたが見殺しにしたイエス!」……そんな中、彼はよく、こんなメッセージを口にしたなと思います。

 

「いやいや、あんたこそ!」「お前も人のこと言えねえだろう!」確実にそう言われるであろうこと、自身の失態を思い出させる厳しい言葉を、わざわざ語ったわけですから。ところが、ペトロがこのメッセージで語るのは、「あなたも、私も、イエスを捨てた」という事実だけではありません。むしろ、彼が語りたかったのはこっちです。

 

「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました!」この後くどいほど、「イエスは死んだままじゃない」という言葉が出てきます。「イエスが死に支配されたままでおられることは、ありえなかった」「神はその魂を陰府に捨ておかず、朽ち果てるままにしなかった」「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」

 

弟子たちが突然他の国々の言葉で話し出したのは、このイエス様が神様のもとへ行き、天から聖霊を送ってくれたから。ペトロはそう説明します。かつて、イエス様のことを三度否定した自分に、イエス様は現れた。かつて、イエス様を見捨てた者に、裏切った者に、信じなかった者に、殺されたイエスは現れて、真ん中に立ってこう言った。「あなたがたに平和があるように」

 

そして約束された。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と。約束されたもの……それが今、自分たちに注がれた聖霊だ。あなたがたの見ている光景だ。イエス様は自分を捨て、自分を裏切り、自分を殺した人々へ、救いをもたらしに来た。自分を死なせた人たちへ、取り返しのつかない過ちを犯した人たちへ、和解と平和をもたらしに来た。だから、この方を信じなさい。悔い改めて、洗礼を受けなさい。

 

繰り返し思い出すべきことがあります。それは、私たちに怒りを向け、報復するはずだった方が、私たちを愛し、赦し、救う者となったことです。ヒーローに手をかけてなお、ヒーローは私のヒーローだった。私を敵として追放するのではなく、仲間として頼り続けてくれた。

 

ペトロが力強く、魂の底から絞り出すのはこのことです。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」……あなたのメシアに! あなたが手をかけてなお、この方はあなたの救い主です。私が見捨てても、否定してもなお、この方が私の救い主であったように。

 

人々は、これを聞いて大いに心を打たれました。いたずらに、不安や恐怖をかきたてられたからではありません。それ以上の動揺でした。だって、自分を罰するはずの方が、自分を憎むはずの方が、自分を助ける救い主で、自分を仲間として送り出される方だと知らされたから……目の前に立つ人が、その一人だったから。

 

ペトロが洗礼を受けなさいと勧めるのは、そうしないと罰されるからではありません。もうあなたを受け入れて、あなたを救いに来ている方、もうあなたを仲間として、信頼し切っている方に、今こそ応えなさい、という呼びかけです。恐怖の押し付けではなく、救いの確信をもたらす伝道へ、私たちも遣わされましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(横浜市瀬谷区の横浜二ツ橋教会)のために、体が弱っている人のために、心が弱っている人のために、疲れている人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆横浜市瀬谷区の横浜二ツ橋教会のために祈ります。補修工事を終えた会堂が、ますます豊かに用いられますように。会衆一人一人が支えられ、守られて、宣教の業が広がっていきますように。

◆体が弱っている人のために祈ります。病気や怪我、衰えや障害によって、体が弱っている人に、あなたの励ましがありますように。特に、痛みやしんどさから解放され、回復がもたらされますように。

◆心が弱っている人のために祈ります。ストレスやトラウマによって、心が弱っている人に、あなたの慰めがありますように。適切なケアや治療がもたらされ、十分に休息することができますように。

◆疲れている人のために祈ります。人間関係や環境の変化、仕事や家庭、学校のトラブルによってしんどい思いをしている人に、あなたの慈しみがありますように。悩みや負担が軽くなるよう、必要な助けが与えられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌18番「あの方が独り子を」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

 

主の祈り93-5A

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。


日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

 

報 告

本日も、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究祈祷会は、配信奉仕者2名、同時に視聴された3名、計5名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

日曜日の礼拝も、感染症対策をした上で、3回目のワクチン接種を終えた人たちで集まっています。引き続き、配信を通して参加することも可能です。顔と顔を合わせるのを楽しみにしています。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。