ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『教会内の最初の軋轢』 使徒言行録6:1〜7

聖書研究祈祷会 2022年9月14日


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案 内

華陽教会では、感染症拡大を防ぐため、初めて参加する方のみ、お問合せいただき、10〜15名以内になるよう人数を調整して、少人数で配信と並行した聖書研究祈祷会を行っています。共に今、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の410番「昇れよ、義の太陽」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。岐阜県の病床使用率も40%代になり、少しずつ新規感染者数も減ってきています。どうか今、感染した人の回復と一人一人の予防が導かれ、一日も早く、日常が取り戻されますように。

◆私たちの神様。突然の豪雨や台風の接近で困っている人に、あなたのお守りがありますように。どうか今、各地の安全が守られて、事故や災害による犠牲が少しでも減りますように、助けてください。

◆私たちの神様。様々な自立支援や回復支援、援助やサポートの利用者と、その関係者が守られますように。課題があるところに対策を、補助が必要なところに助けを、つながりが薄いところに結びつきをもたらしてください。

◆私たちを支え、導き、送り出すイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録6:1〜7の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Steve BuissinneによるPixabayからの画像

メッセージ

教会内の最初の軋轢……こう言うと、皆さんは何を思い浮かべるでしょう? 「あの人が私に奉仕を押し付ける」という苦情、「役員会が勝手に大事なことを決めてしまう」という文句、「牧師が自分と全然話をしてくれない」という苦言……だいたいが、「私は理不尽な扱いを受けている」という訴えです。

 

初代教会で起きた最初の軋轢も、やはり、「私は理不尽な扱いを受けている」という訴えから始まりました。ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。なぜなら、「日々の分配」のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからです。

  

「日々の分配」というのは、貧しい人々に対する援助のことで、ユダヤ教の伝統をキリスト教会が引き継いだものです。毎週金曜日、それぞれの地域で貧しい人々に与えられた「パンかご」と呼ばれる基金のお金か、あるいは「盆」と呼ばれる施しのことで、見知らぬ人たちに届けられた食料のどちらかを指すんでしょう。

 

どうも、外国出身のユダヤ人と、生まれた頃からエルサレムにいるユダヤ人との間で、不公平な分配が行われていたようです。たぶん、あからさまな差別というよりは、地元のユダヤ人から食事が配られ、後から配られる外国出身のユダヤ人たちが、毎回何人かあぶれてしまう……という話だったんじゃないかと思います。

 

「先生、どうにかしてください」「彼らを叱って公平に配らせてください」「私たちの仲間にも、行き渡るようにしてください」……あちこちから抗議の声があがります。しかし、12人の使徒たちは、この問題に手が回りません。3000人、5000人と、どんどん増えていく信徒に対して、12人だけでは、手が足りなくなってきたんです。

 

そこで、彼らはこう言います。「わたしたちが神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」……これじゃあ雑用に追われて、聖書の話もイエス様の話もろくにできないじゃない、と危機感を持ったわけです。逆に言えば、このときまで、教会の代表者たる12使徒、「司祭」や「牧師」と呼ばれるような宗教的指導者が、人々の食事を世話していたってことですよね。

 

考えてみたら、イエス様がいたときから4000人、5000人の群衆に、パンや魚を配っていた弟子たちは、同じように、ずっと人々の食事を世話してきたわけです。しかし、彼らだけでは手が回らなくなってきたため、改めて食事の世話をする7人を選ぶことになります。

 

彼らの選出は、12使徒の指名ではなく、教会会議による選挙によって行われます。全会衆の中から「霊と知恵に満ちた評判の良い人たち」7人を、みんなで投票するわけです。この7人は、単に食事の世話をするために選ばれますが、皆さんは、教会の「執事」や「役員」といった、指導者的立ち位置の選挙を思い浮かべるでしょう。

 

事実、7人のうち、ステファノやフィリポといった人物は、食事の世話に留まらず、病人を癒し、不思議な業を見せ、人々へ力強くメッセージを語って、伝道の第一線に立っていきます。もう、使徒たちに準ずる教会の立派な指導者です。そう、教会における指導者は、地位がある者、偉い者としてではなく、人々に仕える者として立てられます。

 

初代教会で最初に選出された執事、役員のように見える7人も、もともとはこのように食事の世話をするため選ばれました。ところが、この7人の選ばれ方、少々奇妙に思えます。普通、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間で揉め事が起きたんですから、選出される7人も、ギリシャ語を話す者とヘブライ語を話す者、半々くらいにするのが自然です。

 

ところが、ここに挙げられた7人の名前、ステファノ、フィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、ニコラオという人物は、全員ギリシャ的な名前か、外国出身の人物です。ヘブライ語(厳密にはアラム語)を話すユダヤ人は、一人も入っていないんです。これって、かなりバランス悪く感じます。

 

もしかして、ヘブライ語を話すユダヤ人が、自分たちへの苦情を聞いて反省し、ギリシャ語を話すユダヤ人が優先されるよう、自ら身を引いてくれたんでしょうか? 彼らの思いを汲んで、選出した結果なんでしょうか? そうだとすれば美しい話ですが、実際はどうだったんでしょう?

 

ヘブライ語を話すユダヤ人の中には、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」がいなかった、というオチかもしれません。あるいは、「食事の世話をする役目なんて、ギリシャ語を話すユダヤ人に任せればいい」と思い、誰もヘブライ語を話すユダヤ人には票を入れなかった……そういう話かもしれません。

 

こんなこと言ったらひんしゅくを買うかもしれませんが、私はどちらかと言うと、後者だったんじゃないかと思います。だって、誰もが認める立派な人を、食事の世話係に任命するなんて、なかなか難しいでしょう? 尊敬する人から食事を分配してもらう、自分たちの仲間に仕えてもらうって、けっこう抵抗あるでしょう? 

 

だから、おそらく選ばれた7人は、確かに評判が良かったけれど、ある種、こういう役割を担わせるのに、抵抗が薄かった人たちでもあったんだと思うんです。こう言うと、教会的じゃない話に聞こえますよね? ですが、この出来事は、私たちへ重要なことを教えてくれます。ちょっと身近な場面で想像してみましょう。

 

ある日、私たちの教会で、女性の信徒と男性の信徒の間に揉め事が起きたとします。昼食を配るとき、いつも男性たちが優先的に配られて、度々、女性の分が忘れられている。みんなが食事の席についたとき、まだ女性に行き渡っていないのに、男性に食事が行き渡っていれば、すぐみんな食べ始めてしまう。すると、後から来た人の分が減ってしまう。

 

「先生、公平に食事が配られるようにしてください」「女性の分も確保させてください」誰かが牧師に頼みます。けれど、礼拝のあと、役員会の準備やらで、食卓に来るのが遅れてしまう私には手が回りません。そこで、こう提案します。「それなら、公平に配ってもらえるように、評判の良い人を配膳係に選びませんか?」「男も女も関係なく、みんなに行き渡るよう気を遣ってくれる人たち7人を選んでみましょうよ」

 

さっそく、みんなで話し合い、7人の配膳係が選ばれます。しかし、そこに選ばれたのは、なんと女性のみでした。「男性で配膳してくれる人なんて、この中に果たしているだろうか?」「配膳なんて、女性にやらせとけばいいんじゃない?」……ぶっちゃけ、公平性という観点からは、ほど遠い理由で選ばれた7人でした。

 

ところが、彼女たちを選んだ会衆は、全く想像がつきませんでした。この7人が、配膳係という枠を超えて、新来者のサポートをし、受洗勉強会を立ち上げ、聖書入門クラスやキリスト教入門まで開くようになり、果ては礼拝で証をしたり、教会の中心を担う役員となったり、神学校を卒業して新たな牧師となっていくなんて……。

 

そう、食事の世話する人に過ぎなかった彼らは、精力的に伝道の道を歩き出し、教会の中に、新しい風をどんどん吹き込んでいくんです……今、私たちが見ている使徒言行録には、そんな衝撃的な記録が残されています。

 

初代教会で、ギリシャ語を話す7人を選んだ教会の人たちは、まさか彼らが、自分たちの活動の中心を担う者になるなんて、考えていなかったと思います。ただの雑用、自分たちのお世話のために選んでおいた人々が、自分たちの指導者的立ち位置になっている……その事実に、ある者は驚き、ある者は悔い改め、ある者は腹を立てたでしょう。

 

しかも、このうちのステファノは、最初の殉教者、イエス様に従って命をささげた者となります。また、フィリポはサマリアの町で信徒を増やし、エチオピアの宦官まで信仰に入らせます。こんなこと、誰が予想できたでしょう?

 

神様は、私たちの「選び」に働きかけて、思ってもみない展開をもたらします。打算であったり、妥協であったり、利己的な思いで選んだ人が、想像を超えた働きをすることがあります。なんなら、私たちの期待していた方向とは、全然違う展開かもしれません。しかし、そのような出来事を見るたびに、私たちの都合や身勝手な思いを大きく超えて働かれる神様の「選び」を思い出すんです。

 

ある人にとって、自分が選ばれたことは、周りの身勝手さによる不本意な出来事かもしれません。みんなの期待するように動くことを求められ、しんどい思いをするかもしれません。しかし、神様は周りの期待や目論見を超えて、あなたに大切な使命を与えます。また、私たちが無責任に選んだ人たちを、私たち自身の導き手として遣わします。

 

教会内の軋轢は、しばしば、教会そのものの改革を促し、新しい風を招き入れ、多くの人々を揺り動かして、新しく、キリストの体を築いていきました。その一つ一つの出来事を心に刻みながら、私たちも改めて、神に仕え、隣人に仕え、この世へと出て行きたいと思います。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(           )のために、子どもたちのために、若者のために、保護者のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆教会のために祈ります。礼拝になかなか行けない人、奉仕に疲れを覚えている人、人間関係で悩む人に、あなたの憐れみがありますように。それぞれが大切にされるつながりと課題への取り組みが進むように、教会全体を導いてください。

◆子どもたちのために祈ります。学校に行くのが困難な人、勉強が苦痛になっている人、集団行動が苦手な人に、あなたの慈しみがありますように。それぞれが安心できる時間と居場所がもたらされ、生きやすさを得ることができますように。

◆若者のために祈ります。将来に希望を持てない人、自信を失い続けている人、心身が整わない人に、あなたの癒しがありますように。それぞれが絶望から解放され、近くに助けが与えられ、必要な希望を見いだすことができますように。

◆保護者のために祈ります。日常に忙殺されている人、子どもと上手く向き合えない人、身内の助けが得られない人に、あなたの支えがありますように。それぞれが自分も家族も蔑ろにしなくて済むように、周りの変化をもたらしてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌5番「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

 

主の祈り93-5A

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。


日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

 

報 告

本日も、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。来週の聖書研究祈祷会も、初めて参加する方のみ、お問合せいただき、10〜15名以内になるよう人数を調整して、配信と並行した聖書研究祈祷会を行います。

 

日曜礼拝も、奉仕者6〜7名、教会員3〜4名、新来者1〜4名の計10〜15名で集まる『調整型小規模礼拝』を行っています。教会員の方は、礼拝出席希望表や牧師とのメール、電話で、出席する日を調整していきます。

 

新来者の方も、毎週一家族分、出席できるように枠を用意しています。始めて教会に来る方は、日曜日は問い合わせなしで参加できるので、ぜひお越しください。また日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。