在宅礼拝・オープン礼拝 2022年1月23日
案 内
華陽教会では、本日から岐阜県の医療提供体制の逼迫を受け、配信等による在宅礼拝に切り替えています。また、例年1月に行っているオープン礼拝として、前奏から後奏まで、一つ一つの要素を説明しながら、礼拝の意味について、みんなで振り返るときを持ちます。
本来なら、礼拝後に研修会を行う予定でしたが、会衆が集まる礼拝を休止しているため、今回は、配信等による在宅礼拝の中で、礼拝の諸要素を味わい、後ほど、オンラインで研修会を行いたいと思います。
前 奏
最初に、前奏を聞いて心を静めましょう。前奏は、礼拝の開始を告げる音楽です。奏楽者は、その日の教会暦や行事に合わせて曲を選び、会衆が礼拝へ参加しやすいように、その日に歌う讃美歌も、礼拝が始まる少し前から流しています。
招 詞
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。(ペトロの手紙一1:5)
招詞(招きの言葉)は、礼拝に集まった人たちへ、神の招きを告げる聖句です。司式にあたる人は必ずしも聖書箇所まで告げる必要はありません。この言葉は、その日の教会暦やメッセージに即したもの、あるいは、聖書日課で指定されている聖書箇所から選ばれます。
讃美歌
マスクをしたままで、旧讃美歌457番「たのしきこえを」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。
最初の讃美歌は、神の招きに対する応答の賛美です。礼拝委員会で季節毎にふさわしいものを選びます。多くの讃美歌で、最後につけられている「アーメン」という言葉は「本当にそうです」「本当にそうなりますように」という意味のヘブライ語です。讃美歌は立って歌われることが多いですが、座ったままでも大丈夫です。
お祈り
共に祈りを合わせましょう。
開会の祈祷は、神の前に立った会衆がその言葉を受けとめるために、主に5つのことを祈っています。まず、【罪の告白】によってへりくだった心で神に向かい、【憐れみの賛歌(キリエ)】にあたる言葉で神による憐れみを願い、【赦しの言葉】によって神による罪の赦しを聞き、【頌栄(グローリア)】にあたる言葉で神の栄光をたたえ、【聖霊の導きを求める祈り】によって、聖書から神の言葉を聞く準備をします。
【呼びかけ】
◆愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝を始めることができ感謝します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
【罪の告白】
◆ 私たちの神様。私たちはこの一週間、思いと言葉と行いによって罪を犯し、あなたを悲しませてしまいました。どうか今、私たちが傷つけた人、怒りをぶつけた人を癒し、回復させてください。
【憐れみの賛歌(キリエ)】
◆ 私たちの神様。私たちはこの一週間、自分自身も傷つけられ、痛みと苦しみを覚えてきました。どうか今、私たちの心と体の傷を癒し、変化と回復をもたらしてください。特に、教会に集まれず、顔と顔を合わせられない人たちを力付けてください。
【赦しの言葉】
◆ 私たちの神様、あなたは心から悔い改め、あなたに立ち返る全ての人を赦してくださいます。どうか今、ここに連なる一人一人をあなたが憐れみ、全ての罪から清め、永遠の命を受け継ぐ者としてください。
【頌栄(グローリア)】
◆ 私たちの神様、あなたは後悔する者に癒しを、責める者に希望を与えてくださいます。本来なら、恵みを受け取れない者が喜べるように、変化と回復をもたらします。どうか今、天の上にも地の上にも、あなたの栄光が現されますように。
【聖霊の導きを求める祈り】
◆ 私たちの神様。あなたは心に平安をもたらし、大切な言葉を与えてくださいます。どうか今、心を乱す様々な事柄に惑わされず、あなたの声を聞かせてください。これからのち、新しい人として主に仕え、あなたの栄光を現すことができますように。
◆ 人と人との間におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。
聖書朗読は、神の語りかけを聞くときです。主に聖書日課で指定されている【旧約】【使徒書】【福音書】の中から選ばれます。礼拝の中心は神の言葉なので、できるだけ、この3つ全てを読むことが望ましいです。
どれかを省略しなければならないときは、クリスマス前の日曜日には【旧約】が、クリスマスからペンテコステ前までは【福音書】が、ペンテコステからアドヴェント前までは【使徒書】か、それに準ずる新約の文書が、必ず読まれるようにしています。聖書についている見出しは箇所を見つかりやすくするもので、礼拝の中では読み上げません。
申命記30:11〜15、マルコによる福音書1:21〜28(新共同訳より抜粋)
*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。交読詩編も同様に後からカットしています。 |
交読文
共に、詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編29:1〜11(新共同訳交読詩編より抜粋)
交読文は、聖書の言葉を聞いた会衆が祈りへ導かれるように、詩編の言葉を司式者と交互に唱えていくものです。詩編の箇所も、聖書日課で指定されているものを選んでいます。交読詩編付きの讃美歌21を持っている方は、一段下がったところと太字のところをお読みください。司式者は、会衆が読むところを間違えないように、テンポよく読むようにします。
讃美歌
マスクをしたままで、讃美歌21の166番「主は、わたしを究め」を歌います。
メッセージ前の讃美歌は、神の言葉を受けとめるため、教会暦や聖書箇所に即した歌が選ばれます。今回は、イエス様が私たちを支え、導き、送り出してくださる、という賛美を歌います。共に、讃美歌21の166番を歌いましょう。
メッセージ
本日は、「俺にかまうな」と題して、柳本伸良牧師にメッセージをしていただきます。
メッセージは、朗読された聖書の意味を解き明かし、神の言葉を受け取める時間です。「説教」や「宣教」とも呼ばれます。牧師は、聖書箇所の文脈や出てくる単語の意味を調べ、現代の会衆に語られているメッセージを伝えます。教会の信徒が信仰に至ったきっかけや、聖書の言葉に助けられた体験を話す【信仰の証(奨励)】をする場合もあります。本日は、私からメッセージをさせていただきます。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」……汚れた霊に取り憑かれた男が、イエス様にそう叫んだシーン。映画のワンシーンに出て来そうな、悪役のかっこいい台詞です。この男に取り憑いた霊は、油断ならない敵として、イエス様を牽制します。「正体は分かっている。神の聖者だ……」
お前が何者か知っている、お前の名前も、お前の住所も、お前の力も分かっている。悪いこと言わないから、俺のことは放っておけ。大人しく家に帰ってろ、俺にかまうな……イエス様の動揺を誘い、身バレをさせて優位に立ち、手強い相手と思わせる。実に見事な先制です。対するイエス様には、よりスマートな反撃が求められるでしょう。
自分の方が、優位に立ったと思い込んでいる相手に対し、イエス様の方も、名前や正体を当ててくる。「私もお前を知っている。◯◯から来た××という名を持つ霊。その力も、その正体も、手に取るように感じられる」……これが、通常期待されるやり方だと思います。権威ある者、力ある者が実力を示す方法です。
実際、テレビに出てくる本物か偽物か分からないエクソシストも、たいてい悪魔の名前を聞き出そうとします。聖書を引用して、聖水を振り撒き、あるいは油なんかを撒いて、伝統に則った、由緒ある方法で、取り憑いた霊を祓えるだけの力を示そうとするでしょう。ところが、イエス様は非常につまらないやり方で、汚れた霊を追い出します。
「黙れ。この人から出て行け」……そのひと言で祓ってしまう。頭の中で、騒ぎ立てている霊に対し、取り憑かれた男が、何度も叫んだ言葉と同じ。「黙れ、私から出て行け」「ここから出て行け」……代々受け継がれてきた聖句ではなく、古い言葉を繋ぎ合わせた式文でもなく、悩み苦しむ人たちが、自然と口に出す言葉。
「黙れ。この人から出て行け」……何一つ特別でない、誰もが口にする言葉で、イエス様は汚れた霊を追い出してしまいました。敵の名前や正体を言い当てることもしないまま男を助けてしまいました。人々はみんな驚いて、どういうことかと論じ合います。「この人は、汚れた霊にさえ命令して、言うことを聞かせてしまう!」
不思議なことに、居合わせた人たちは、目の前で見たことを「権威ある新しい教えだ」と口にします。この場面の冒頭で、安息日に、イエス様が会堂で教え始めたときも、同じように驚いていました。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから……」
私にはこれが不思議でした。律法学者って、旧約の掟に精通している専門家です。人々の生活を指導する宗教的なリーダーです。権威ある者として、振る舞ってなかったはずがないんです。一般人より聖書の掟を理解している、適用の仕方を知っているとして、伝統的な言葉遣いや専門用語を用いながら、会堂で教えてきたはずです。
それなのに、イエス様が始めて、「権威ある者」として教えたように書かれている……どうも、私たちのイメージする「権威」と、イエス様から出ていた「権威」は違うみたいです。実際、「権威ある新しい教え」を語ったとされるイエス様の発言は、「黙れ、この人から出て行け」しか記されません。新しくも何ともないですよね?
でも、新しかったんです。これがユダヤの会堂で、みんなが礼拝する場所で、汚れた霊を追い出すという、重要な場面で語られたのは。だって、伝統的な言葉遣いや専門用語も使わないで、みんなが普通にしゃべる言葉で、神様の教えを語っても、教会の業を行っても、それっぽく見えないじゃないですか?
ありがたみが薄れたり、舐められそうじゃないですか? それこそ、権威がなくなったように感じます。ちょっと分かりにくい言葉の方が、すぐには捉えきれない話の方が、何か特別なものを受け取った、そんな気分になれるから。悪魔祓いだって、多くの人が、パッと言えない聖句や祈祷、用意できない水や油を使った方が、権威ある業に思えます。
でも、イエス様はそういうことをしなかった。誰もが何かに悩まされ、苦しむときに言う言葉、自然に出てくる訴えで、汚れた霊を追い払った。「黙れ、この人から出て行け」……きっと、イエス様が会堂で語っていた教えも、みんなが普通にしゃべる言葉で、いつも話している言い方で、本当に伝わるように語ったんだと思います。
長いこと伝わらなかった、みんなに届いていなかった教えが、ちゃんと届くようになった。そういう新しさの中で、人々は驚いたんじゃないかと思います。私の中に、私の口に、私の心にあったんだ! 神様から受け取っていた御言葉が……最初に読んだ申命記にも、こんな言葉がありました。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にある」
そう、近くにあったんです。難しい言葉で祈れないあなたも、長い聖句を暗唱できずにいるあなたも、ちゃんと御言葉を受け取っているんです。あなたが傷つき、苦しみ、思わず叫んで訴えるとき、同じように訴えた、イエス様の言葉が蘇ります。「黙れ、この人から出て行け」……私と同じように、私と同じ言葉で、私から悪霊を追い払ってくださる主。
汚れた霊は「俺にかまうな」と抵抗します。「そっちも名前を当ててみろ、どこから来たか言ってみろ、俺が何者か明かして見せろ。特別な言葉も業も力も持っていないなら、俺に抗っても無駄だ!」……でも、イエス様は、特別な言葉も、業も、力も行使することなく、私たちの口と心にある言葉で、汚れた霊を追い出せることを教えました。
「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」……そう教えてくれたんです。変わらない自分に囚われた者も、解放されるときが近づいています。あなたの中にある叫び、あなたから出る訴えを、イエス様は共に叫びます。隠れた権威を現します。共に、神の言葉を賛美しましょう。
讃美歌
マスクをしたままで、オンライン賛美歌6番「戻らないせかいで」(©︎柳本和良)を歌います。
メッセージ後の讃美歌は、神の言葉を締めくくるのにふさわしい歌を歌います。今回は、神様からもたらされた、新しい変化を賛美する歌を歌います。立ちあがるのがしんどい方は、座ったままで大丈夫です。
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aか、オンライン賛美歌の裏面をご覧ください。
使徒信条は、神の言葉に共鳴して、教会の信仰を告白するキリスト教会共通の信条です。信仰者が何を信じているのか表す便利な要約となっており、一人一人が自分の口で、神様とイエス様と聖霊について、集まった人に伝える時間でもあります。
その性質上、なるべく集まったみんなに分かる言葉で告白するのが望ましいですが、華陽教会では文語の使徒信条を使っているので、『讃美歌21』か、ブログの原稿をご覧の方は93-4Bの口語訳を見ながらお聞きください。
使徒信条93-4A
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)
使徒信条93-4B
わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。
とりなし
神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。
とりなしの祈りは、自分自身がイエス様のとりなしによって助けられていることを覚え、今度はこちらから、周りのため、世界のために、神様へとりなす祈りです。お祈り毎に沈黙を挟むので、配信を見ている方も、それぞれ思い浮かぶ人のためにお祈りください。
司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。
司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。
司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。
司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。
司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。
司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。
司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。
司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。
司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。
主の祈り
共に、イエス様が教えられた最も基本的な祈り、『主の祈り』を祈りましょう。
主の祈りは、神の国でイエス様と共に食卓に着く日を待ち望み、キリストの十字架と復活を思い起こす「聖餐式」(パンとぶどう液をいただく式)の準備をする祈りです。イエス様が「祈り方の基本」として弟子たちに教えたものであり、現代でも、どう祈ったらいいか分からない人へ、最初に教えられる祈りでもあります。
「祈り方の基本」を伝えるものでもあるため、なるべくみんなに分かる言葉を用いることが望ましいですが、華陽教会では、今も文語の訳を使っているので、ブログの原稿をご覧の方は、「日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳」を見ながらお聞きください。
主の祈り93-5A
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。
献金は、神の恵みに対する感謝の応答です。自分の生き方を神にささげるしるしとして、献げ物を行います。初代教会では、信徒一人一人がパンや飲み物を持ち寄って祭壇にささげ、集まった食事を生活に困っている人たちへ分け与えていました。そのとき集められた一部を聖餐に用いたため、献金と聖餐は本来セットで行われます。
現代では、集めた献金を教会の維持や運営のため、牧師の謝儀(給与)のため、地区・教区・教団の働きのため、福祉や慈善活動のために用いています。あくまで「恵みに対する感謝」としてささげるものなので、金額に定めはありません。もし、どうしても迷ったら「自分と誰かにご飯を分けられるくらい」で考えるといいでしょう。献金の後、係の方が祈りをささげます。
献金の祈り(例)
愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の3節を歌いましょう。
讃美歌
頌栄29番「天のみ民も」を歌いましょう。
最後の讃美歌は、会衆が神の栄光をたたえて、礼拝から送り出されていくものです。神の栄光をたたえる「頌栄」の讃美歌が選ばれる他、祝福との関連で「派遣」をテーマにしたものが選ばれます。季節毎に礼拝委員会で話し合って決められます。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派遣の言葉と祝福は、会衆一人一人が神を証しする生き方ができるように、神の祝福を宣言して日常へ送り出すものです。私の場合は、皆さんを両手で招いて送り出す、神の祝福を表して、左右の手を伸ばしています。体の不自由な方やしんどい方は座ったままで大丈夫です。立っている方も、牧師が手を下げた後は、静かに座っていただいて大丈夫です。
派 遣
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:8)
祝 福
願わくは主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。願わくは主がみ顔をもって/あなた(がた)を照らし、あなた(がた)を恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。(民数記6:24〜26より)
報 告
本日も配信を通して、在宅礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった15名、同時に視聴された17名、計32名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜日も、配信等による在宅礼拝を行います。水曜日も、このチャンネルから在宅聖研を行っています。他に、ビデオ通話による小礼拝を希望される方、牧師と話がしたい方は、教会の電話番号か、ホームページの問い合わせフォームからご相談ください。
なお、本日はこの後、オンラインの礼拝研修会を予定しています。テーマは『旧讃美歌』『讃美歌21』『オンライン賛美歌』の使用と目的について、「聖餐式」と「愛餐式」についてです。引き続き、YouTubeからご覧ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。