ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『打ち明けてくれない』 マルコによる福音書4:10〜12、30〜34

日曜礼拝 2022年2月6日


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案 内

華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝に切り替えています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。(サムエル記下12:13)

 

讃美歌

マスクをしたままで、旧讃美歌457番「たのしきこえを」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。在宅礼拝に切り替わってから、3週目を迎えました。残念ながら、収束する気配は未だ見えませんが、治療薬や予防の手立ても少しずつ広がっています。どうか今、私たちの間にある希望を見つめさせてください。

◆私たちの神様。新型コロナが発症した人、これから発症するかもしれない人を守ってください。特に、子どもたちや保護者の心身が守られるように導いてください。どうか今、苦しんでいる人たちが速やかに癒されますように。

◆私たちの神様。感染症の拡大によって、仕事や生活に支障をきたしている人を支えてください。営業時間が制限された飲食店や、医療関係者、音楽や演劇に携わる人を守ってください。どうか今、一人一人の日常が新しく豊かにされますように。

◆私たちを導かれる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マルコによる福音書4:10〜12、マルコによる福音書4:30〜34(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。交読詩編も同様に後からカットしています。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編109:21〜31(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の281番「大いなる神は」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

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Sammy-SanderによるPixabayからの画像

メッセージ

聖書に出てくるたとえ話って、全ての人に分かりやすいかと言うと、決してそうではありません。現代の私たちが聞いても、どう捉えたらいいか分からないものや、頷くことのできないものがたくさんあります。たとえば、朝から働いていた人たちと、夕方から働き始めた人たちに、同じ賃金が支払われた「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。

 

不公平にしか聞こえない、簡単に受け入れられない話……それが、神の国をたとえていると言われても、素直に喜ぶことはできません。そんなものが神の国であってたまるかと反発したくもなってきます。また、イエス様のたとえ話は「そんなこと普通ありえない」と感じるものがほとんどです。

 

たとえば、後半に読んだたとえでは、どんな種よりも小さく見えるからし種が、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に鳥が巣を作るほど大きな枝を張ると言われています。でも実際には、からし種って成長しても1.5メートルから3メートルくらいにしかなりません。鳥が巣を作るほど大きくなることはないんです。

 

たとえ話としては微妙ですよね。「なるほど、確かにそうだ!」と私たちが頷くような話じゃない。素直に信じようと思える話にもなってない。むしろ「そんなの納得できない」「そんなこと普通ありえない」とつまずかせる方が多いです。神の国について語るとき、イエス様は、どうしてこんな教え方をしたんでしょう?

 

その理由について、イエス様の衝撃的な言葉が記されます。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」

 

自分を信じる弟子たちには、神の国の秘密を打ち明けるけど、それ以外の人たちには、理解できないように、立ち帰らないように、赦されることがないように、全てをたとえで話される……めちゃくちゃ閉鎖的で、秘密主義に聞こえます。そんなことしていたら、いつまで経っても、イエス様の教えに共感する人は増えません。教えを広められません。

 

本当に、神の国について知らせたいなら、みんなが神様に立ち帰って赦されることを求めているなら、一部の人しか分からないように話すんじゃなくて、誰が聞いても分かるように話さなくちゃいけません。それなのに、イエス様は「たとえを用いずに語ることはなかった」と言われています。

 

いつも、誰かが分からないように、誰かが理解できないように語っていた……秘密を知られないように、謎のままにして語っていた……全ての人を救うために、やってきたはずのイエス様が「分かる人だけ分かればいい」という言い方になるのって、ちょっとイメージと合いません。

 

というか、イエス様のたとえを聞いただけで、意味が分かる人なんていませんでした。最も近くにいた弟子たちでさえ、「どういう意味ですか?」と尋ねています。説明がなければ、誰も意味が分からない話……そのくせ、重要なたとえ話の解説は、聖書の中に1個か2個しか出てきません。あとは意味を記されないまま、たとえ話だけが載っています。

 

普通、イエス様の話をちゃんと伝えたいなら、この解説こそ残すべきです。本題は「たとえ」ではなく「たとえの意味」になるはずです。ところが、イエス様から直接意味を聞いていた弟子たちも、神の国の秘密をそのまま打ち明けてはくれません。多くのたとえ話をそのまま残し、意味については記さない。「謎のまま」「秘密のまま」にして語る。

 

一方で、33節には「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」とも書かれています。「分かる人だけ分かればいい」「分からないなら別にいい」と思っているなら、「人々の聞く力に応じて」たとえを変える必要はありません。それぞれに応じて語ろうとするのは、秘密を秘密のままにするつもりではからです。

 

どうやら、イエス様のたとえ話は、見る人、聞く人に「納得できない」「受け入れられない」反応をもたらす一方で、「どういう意味ですか?」「何を言っているんですか?」と、イエス様に直接尋ねる態度へ、私たちを促しているようです。人々の聞く力に応じて、疑問が生まれてくるように、問いかけが生まれてくるように、イエス様は語ります。

 

弟子たちが、イエス様から直接聞いたたとえの意味を、ほとんど記さなかったのは、聖書に残さなかったのは、自分たちと同じように、聞く人たちが疑問を持つようにしたかったのかもしれません。「このたとえはどんな意味ですか?」「私の受け取り方は間違ってますか?」「あなたが言おうとしていることは何ですか?」「私には正直分かりません……」

 

信仰というのは、イエス様のたとえを聞いて、イエス様の教えを聞いて、どんな意味かを悟ること、気づくことではありません。正直に、自分は分からないこと、悟れないことを告白して、「どういう意味です?」と尋ねることです。「イエス様、あなたは何を言おうとしてるんです?」と聞かずにはいられない自分、神の言葉を求める自分、その態度こそが信仰の始まりで、たとえがもたらす力です。

 

イエス様はたとえを語り、教えを語り、多くの人をつまずかせました。私も、つまずいた者の一人でした。納得できず、受け入れられず、「どうしてですか?」「なぜですか?」「そんなことあってはなりません!」と詰め寄った者の一人でした。いつまでも、イエス様の言うこと、為すことを理解できない、意味を悟れない者でした。

 

しかし、イエス様は「見るには見るが、認めず」「聞くには聞くが、理解できず」「こうして立ち帰ることのない」私自身に付き合います。拒絶する者に疑問をもたらし、問いかけずにはいられない心を与えます。弟子たちがそうであったように、私たちも納得できず反発するとき、イエス様から「離れる者」ではなく「近づいて尋ねる者」へ変えられます。

 

正直に告白するなら、現在、聖書に出てくるたとえの意味を、はっきり「こういう意味だ」と語ることは、私にはできません。イエス様から直接聞かない限り、私にはその真意を悟ることができません。でも、皆さんと一緒に「こういう意味ですか」「こういうことが言いたいんですか?」とイエス様に尋ねる姿勢こそ、大事な生き方だと思うんです。

 

「聞く耳のある者は聞きなさい」と繰り返し呼びかけたイエス様は、悟ること、理解することがなかなかできない私の問いを、決して拒絶はされません。「分かりません」「教えてください」と聞く者たちを、侮ることはありません。聖書の意味を悟れないことは、あなたの不信仰を意味しません。あなたの問いを、どこに向けるかが問われています。

 

「答え」を見つけられずに尋ねるとき、あなたはもう、立ち帰って赦されることのない外の人々ではなく、イエス様の内に入ってきた者なんです。神の国へ迎えられた者なんです。共に、赦された恵みを味わいましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌23番「わたしの口は絶えず歌う」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

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使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の裏面をご覧ください)

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

紹 介

本日も、初めて配信を見に来た方、久しぶりに配信を見られた方と、一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。互いに顔を合わせることはできませんが、礼拝を通してつながっている一人一人に、神様の祝福がありますように。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろから2ページ目をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の裏面をご覧ください)

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

愛 餐

本日は、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。

 

食卓への招き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」

 

主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。

 

信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげます。

 

恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。

 

様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。

 

分かち合い

共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、このパンと水は、信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。

 

主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。

 

主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

献金の祈り(例)

主なる神よ、私たちが持っているものは皆あなたからいただいたものです。今、私自身の生き方をあなたの御用のためにおささげします。ここにささげた献金もあなたの求めていることに用いてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の3節を歌いましょう。

 

讃美歌

頌栄29番「天のみ民も」を歌いましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。(マルコによる福音書4:22〜23)

祝 福

平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟(姉妹)たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。(エフェソの信徒への手紙6:23〜24)

 

報 告

本日も、配信を通して日曜礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅礼拝は、ライブ配信の奉仕者8名、同時に視聴された26名、計34名が参加されました。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

来週も、配信等による在宅礼拝を行います。教会に集まる礼拝の再開は2週間ごとに検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページ、各SNSの公式アカウントでお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。