聖書研究祈祷会 2022年2月9日
案 内
華陽教会では、岐阜県の医療提供体制を踏まえて、会堂に集まる集会を休止し、配信等による在宅聖研を行っています。共に今、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
讃美歌
マスクをしたままで、讃美歌21の441番「信仰をもて」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美をささげましょう。
お祈り
ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。
◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の在宅聖研祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を探している人を導いてください。
◆私たちの神様。全国の幼稚園、保育園で、感染症にかかってしまった子どもたちや保護者、先生がたに、あなたの憐れみがありますように。どうか今、速やかな回復が導かれ、重症化や後遺症から守られますように。
◆私たちの神様。全国の高齢者施設、介護福祉施設で、感染症にかかってしまった利用者と家族、スタッフの上に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、精神的にも身体的にも、一人一人が癒されますように。
◆私たちの神様。全国のひとり暮らし、身寄りがいない人たちに、あなたのお守りがありますように。どうか今、助けを必要とする人たちに、周りの気づきと支えがありますように。教会に来ている一人世帯の人たちも助けてください。
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖書朗読
聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書5:27〜32、ルカによる福音書17:1〜4(新共同訳より抜粋)
*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。 |
メッセージ
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」……イエス様の公生涯が記された、マルコによる福音書で、最初に出てくるイエス様の言葉です。使徒言行録には、弟子であるペトロのこんな言葉も載っています。「悔い改めなさい。めいめい、キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」
「悔い改め」って、キリスト教会で非常に重要な言葉です。神の国へ入るため、罪を赦してもらうため、必要不可欠な要素であり、救いの条件である……というふうにも捉えられます。悔い改めれば、神様に受け入れてもらえる。悔い改めれば、善人として扱われる。悔い改めれば、裁かれない。困難な状況から救出される。
神様に自分の罪を告白し、悪かったことを認め、赦しを乞うて反省することが、私たちを「安全圏」へ入れてくれる……「赦される側」「救われる側」にしてくれる……そんな感覚になることが、正直、私にもあります。罪の自覚がない人より、神様に赦しを乞わない人より、きっと幾らかマシだろう……悔い改めたと認められて、安心したい。
おそらく、多くの信仰者は、悔い改めが、「間違いを認め」「反省し」「神様の赦しを願うこと」だと思っているでしょう。そして、しばしば、間違いを認めず、反省せず、神様に赦しを乞わない人が「悔い改めを拒否した者」に見えるでしょう。そのままじゃ、神様に赦されず、救われない者に見えてしまう。
一方で、自分から見て、悔い改めているとは思えない人が「悔い改めた」と主張したり、周りにそう見なされたら、何だかモヤモヤしてきます。本当に、あの人は、神様に赦されていいんだろうか? 神様に救われていいんだろうか? そういうポーズをしているだけで、実際には、心から悔い改めてはいないんじゃないか?
反対に、自分がそんなふうに責められた人もいるかもしれません。「あなたは本当に悔い改めてはいない」「口だけだ」「救われる者とは言い難い」……さあ、大変です。いったいどうしたら、悔い改めたと認めてもらえるんでしょう? 何をすれば、悔い改めになるんでしょう?
実は、「それって口だけじゃない?」という悔い改めが、聖書の中にも出てきます。先ほど読んだルカによる福音書17章で、イエス様はこんなことを言っていました。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」
いや、それって、心から反省してはいないですよね? とりあえず「赦してください」って言っとけばいいや……って態度に見えますよね? まさに、口だけの「悔い改め」に聞こえます。だけど、イエス様はそんな人たちのことを「赦してやりなさい」と言ってくる。自分も、そんな人たちの「悔い改め」を受け取って、赦していると言うように。
いいんですか、イエス様? それって本当に悔い改めと言えるんですか? 何か、やり直そうという意思表示、明らかな行動が示されないと「赦していい態度」とは、言えないんじゃないですか? 実際、イエス様と出会って、大きく行動を変えられた、今までにない意志決定をした人もいます。
たとえば、ユダヤ人みんなに嫌われていた徴税人が、イエス様と出会って弟子になったり、もてなした出来事を思い出します。徴税人は、イスラエルを支配していたローマ帝国の手先となって、人々から税を徴収し、多めに取った分を、自分達の肥やしにしていた者たちです。同胞のユダヤ人から見れば、分かりやすい「悪」「裏切り者」でした。
しかし、その中の一人であったレビは、イエス様から「わたしに従いなさい」と言われてすぐ、何もかも捨てて立ち上がり、弟子になったと書かれています。今までの「悪い生き方」を捨て、神の子についていく「良い生き方」になった……まさに、悔い改めた行動のように思えます。
ところが、レビはイエス様の弟子になった直後、すぐに自分の家へ招き、盛大な宴会を催します。そこには、今まで一緒に働いていた徴税人や他の人々も招かれていました。昔の仲間と関係を切らず、市民から巻き上げた金で、贅沢に飲み食いし始めたんです。自分の生き方を反省し、悔い改めた直後の行動とは言い難い。
そこに、のこのこ招かれた、イエス様も不思議です。「こんな宴会を催す前に、貧しい人たちへ財産を分け与えたらどうか?」「不当に取り立てた人たちへお金を返したらどうか?」そうやって、怒り始めてもおかしくない現場です。「何もかも捨てて……従った」と言いつつも、家や財産、仕事仲間やそれまでの付き合いを、全然捨ててはいなかった。
イエス様の弟子になったレビは、悔い改めた人だったんでしょうか? 有名なもう一人の徴税人ザアカイも、そう言えば「財産の半分を貧しい人々に施します」「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言っていたけど、実際にそうしたかは書かれていない。現実的に不可能なことを、その場のノリで言ったのかもしれない。
ところが、イエス様は、そんな怪しい人たちと出会う度に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言って、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言します。ファリサイ派や律法学者たちはカンカンです。「どこが悔い改めた者だ?」「彼らは罪人のままじゃないか!」「何が『赦される』だ!」と。
その場にいたら、私たちも同じことを言いそうですよね? どうも、イエス様の語る「悔い改め」って、私たちがイメージする状態とは、ちょっと違うみたいです。もともと、聖書に出てくる「悔い改め」という言葉は、「向きを変える」とか「向きを直す」というような意味でした。
「正しい道に帰ってきた」という「状態」ではなく「正しい方向へ振り返った」という「スタート」に近い様子です。実際、「わたしに従いなさい」と言われてついてきたレビや「ぜひ、あなたの家に泊まりたい」と言われたザアカイは、イエス様に呼ばれて「振り返った」「向きを変えた」ばかりの者で、反省の言葉や赦しを願う言葉は出てきません。
本当にただ振り返った、向きを変えただけです。それも自分からではなく、イエス様に「言われて」「呼ばれて」ようやく振り向いた人間です。即座にイエス様をお迎えし、従ったように見えるけど、湖でイエス様に呼ばれて従った弟子たちのように、これから何度もつまずいて、心が離れ、行ったり来たりする様子が目に浮かびます。
でも、イエス様は、彼らを弟子として迎え、一緒にスタートへ立たれます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」……わたしが来たのは、正しいところへ来た人を迎えるではなく、正しい方向へ振り向いた人と一緒に帰るためである。
悔い改めというのは、罪を自覚できたとか、きちんと反省できたとか、心から赦しを乞えたとか、そういう到達点ではありません。救いの条件として設定されている到達点じゃないんです。むしろ、イエス様に呼ばれて振り向いた、向きを変えたところであり、これからイエス様と一緒に悩んだり、反発したり、気づきを得ていくスタートなんです。
どうしたら悔い改めたと言えるのか、悩んでいる方は、その到達点を探すのではなく、もう既にスタートに立っているんだと理解してください。あなたの生き方は、これから変わっていくところです。神様は振り返ったあなたに語り続け、神の国へ入るまで、付き合い続けてくださいます。
とりなし
共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(長野県松本市の松本筑摩野伝道所)のために、病気に苦しむ人のために、生活が苦しい人のために、孤立している人のために、祈りを合わせましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。
◆長野県松本市の松本筑摩野伝道所のために祈ります。信仰の多様性を認め合い、礼拝が成長して、多くの人に神様の愛が広がっていきますように。子ども礼拝とこひつじ会の再開が導かれますように。
◆病気に苦しむ人のために祈ります。様々な病気に悩む一人一人が守られますように。特に、病床が逼迫して、入院治療が受けられない方々や、薬が手に入りにくい方、手術を延期せざる得ない人に、あなたの助けがありますように。
◆生活が苦しい人のために祈ります。自立に必要なサポートが足りてない方、一人親世帯や生活困窮者に、あなたのお支えがありますように。特に、収入が減ったり、仕事を失ってしまった方、補助や補償を受けられない方に、あなたの導きがありますように。
◆孤立している人のために祈ります。心身の病気や依存症、人間関係のトラブルのため、誰かと一緒に生活することが難しい人たちに、あなたの慈しみがありますように。暖かいつながりと必要な変化がもたらされますように。
◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
マスクをしたままで、オンライン賛美歌20番「すべてを売り払い」(©️柳本和良)を歌いましょう。
主の祈り
共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
報 告
本日も、配信を通して聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅聖研祈祷会は、教会に集まった3名、同時に視聴された6名、計9名が出席されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の水曜日も配信等による在宅聖研を行います。教会に集まる集会の再開は「まん延防止等重点措置」の解除を目安に、2週間毎に検討し、教会員への連絡網とホームページ等でお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。