ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『私の罪って何ですか?』 創世記6:5〜13

聖書研究祈祷会 2022年2月2日


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案 内

華陽教会では、岐阜県の医療提供体制を踏まえて、会堂に集まる集会を休止し、配信等による在宅聖研を行っています。共に今、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の444番「気づかせてください」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美をささげましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の在宅聖研祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を探している人を導いてください。

◆私たちの神様。新年最初の一ヶ月が終わりました。感染症が再び拡大し、困難なスタートとなりましたが、積み重ねられた対策に助けられてもいます。どうか今、次の世代に活かされるよう、私たちにも、知恵と力を積み重ねさせてください。

◆私たちの神様。ワクチン接種を受けられていない子どもたちに、あなたのお守りがありますように。3回目の接種を待っている保育士や介護士にも、あなたのお守りがありますように。どうか今、少しでもみんなのリスクを下げさせてください。

◆私たちの神様。コロナ禍の影響で、イベントの中止や縮小、営業の休止を余儀なくされた人たちに、あなたの助けがありますように。どうか今、経済的に苦しむ人たちが回復し犠牲者が広がらないように導いてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。創世記6:5〜13(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Jeff JacobsによるPixabayからの画像

メッセージ

キリスト教を好きになれない、胡散臭いと感じてしまう……そう思う台詞の上位にあがってくるのが、おそらく次の2つでしょう。「あなたも罪深い人間です」「あなたも神に愛されている」……「罪」と「愛」……教会で吐いて捨てるほど、聞かされてきた言葉ですよね? こんな言い方怒られるかもしれませんが、実際、ほぼ毎週聞かされています。

 

どちらも便利な言葉です。「何一つ罪を犯していない」と胸を張って言える人は少ないでしょうし、「愛なんて全く欲しくない」と本心から言う人も少ないでしょう。「罪」を持ち出されたら、たいていの人は、反省しなきゃいけない気持ちになってくるし、「愛」を持ち出されたら、たいていの人は、それを求める気持ちになってきます。

 

とりあえず、こう言っておけば、話をまとめられる……そんなフレーズになっていないか、都合良く口にしていないか、自分の中でもドキッとさせられます。漠然と、私たちの中にある、反省を呼び起こす言葉、正解を感じさせる言葉、それが「罪」や「愛」という言葉になっていないか、注意が必要に思えてきます。

 

キリスト教が語る「罪」って何ですか? 「愛」って何ですか? それは一般に語られるイメージと変わらないものですか? もっと深刻で、もっと高尚なものですか? あなたが「罪」を語るとき、あなたが「愛」を語るとき、それは何を現しているんですか?……誰かにそう詰め寄られたら、果たしてキリスト教徒は、どのように答えるんでしょう?

 

一番簡単なのは、私たちの聖典である聖書を開いて、「罪とはこういうものだ」と説明することです。旧約聖書に使われているヘブライ語だけでも、「罪」にあたる言葉は20もあります。いくらでも引用できるでしょう。神の意志を拒否すること、神の掟を破ること、神に信頼しないこと、神を求めもしないこと……エピソードもたくさん出てきます。

 

でも、やっぱりピンと来ない。神が一人一人に直接語りかけてくるのなら、その意志に従うことも、拒否することもできますが、現代では、聖書を読んだり、教会でメッセージを聞かない限り、自覚的に「神に背く」という態度を取ることは、あまりないと思います。だって、大半の人は、神様が語っていることを知りませんし、聞いてません。

 

それなのに、「あなたも神を拒否している」「あなたも神に従ってない」と言われたら、「何だよ、こいつ……」ってなりますよね。だったらちゃんと、神様が自分に何を求めているのか、教えてくれって思います。だけど、神様が一人一人に何を求めているのかは、信徒や牧師も分からない。聞いてもお茶を濁される。

 

たまたま聖書を持っていて、中身を読んでいたとしても、何が、神の掟を破るということなのか、分からない人も多いでしょう。「豚は食べちゃダメ」とか「血に触ったらダメ」とか、現代でも守れと言われているのか? 「異教徒は排除しろ」とか「街の中でレイプされたら、被害者の女性も殺しなさい」とか、従ったらやばいルールも相当ある。

 

クリスチャンだって、それらの掟を実行することに意義を唱えたくなるでしょう。神様は、現代の私たちに「そうしろ」と求めているわけじゃない! 確かに、聖書に書いてあるけど、そのまま従うことが神の意志じゃない!……じゃあ、神の意志、神の言葉に従うって、どうすることなのか? 何が「罪」になって、何が「正義」になるのか?

 

イエス様に至っては、「腹を立ててはならない」とか、「七の七十倍までゆるしなさい」と語っていますが、そんなの敬虔な信徒でも守れません。四六時中、神様に心を向けることも、疑いを抱かないこともできません。「神の意志、神の掟に従わない」「神を求めず、神に信頼しなくなる」……それってもう、私の生活全てが当てはまるじゃないですか?

 

そう、だいたいのことが「罪」になる。だいたいのことが「悪」になる。自分じゃどうしようもないから、神様にそれをゆるしてもらって、なるべく正しく生きていこうね、なるべく罪を避けていこうね……って言うようになる。ちょっとずるいですよね? 結局、罪を犯しちゃう自分でいいのか、どこまで改める必要があるのか、微妙な気持ちになる。

 

「私の罪って何ですか?」という問いに、何とでも答えられる一方、何にも答えられなくなる私がいます。なんだかんだ、聖書を読んで、神学を学び、信仰生活を続けてきても、やっぱり、神様が自分に求めること、神様が自分にさせたいことを、理解できずにいるからです。

 

私が牧師になることを、本当に神様は求めていたのか? 私が教会で語ることに、本当に神様は賛成しているか? 私があの人に言ったこと、私がこの人にやったこと、私が自分にしてきたことは、本当に神様の意志に沿っているのか、実は、反していることか……分からないのが本音です。いったい、神様にとって、どんな状態が「罪」なのか?

 

創世記6章に出てくる「ノアの洪水物語」は、罪深い人間が一掃される有名なエピソードです。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」……そうして、世界を洪水で洗い流すという大事件が起こされます。

 

ところが、地上に増した人の「悪」、人々の思い計っていた「悪いこと」が、具体的には何なのか、全く記してくれません。「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」とありますが、どのように堕落したのか、どのように法を犯したのか、全く言及がありません。それらが原因で、ノアとその家族以外が滅ぼされたのに、原因となる「罪」については、驚くほど関心がありません。

 

神の裁きによって滅ぼされた、ソドムとゴモラの町も、その罪が「非常に重い」と訴えられているにもかかわらず、どんな罪を犯していたのか、どんな悪いことをしていたのか聖書は伝えてくれません。ノアの洪水も、ソドムの滅亡も、人類史に残る大事件ですが、びっくりするほど、その原因を描きません。

 

まるで、「怒られた」ということだけが頭に残って、「なぜ怒られたか」「自分が何をしたのか」はケロッと忘れてしまう小さい子どもみたいです。これらを後から読んだ私たちは「きっとこういう罪を犯したんだ」「こういう悪があったんだ」と、自分の気に入らない行動や態度を当てはめて、その罰が下されたんだと解釈します。

 

地震が起きれば「神を信じない人が多いからだ」と言い、疫病が流行れば「性的に乱れているからだ」と訴える……聖書に出てくる事件に限らず、私たちは勝手に、自分の思う「罪」が、神様の嫌がる「罪」、自分の思う「悪」が、神様の訴える「悪」だと、無意識に変換しますよね?

 

でも、神様が私に直接そう言ってきたわけじゃない。そのとき、私がそれを「罪」だと思い、私がそれを「悪」だと考えただけで、神様も同じように思っているかは分からない……私たちは、本当は神様の意志より、自分の意志と一致するものを、受け取りたいだけなのかもしれません。私が「ダメ」と思うものを神様も「ダメ」と言い、私が「良し」と言うものを神様も「良し」と言うだろう……と。

 

しかし、聖書はそう都合よく、「神様はこうだと言っている!」と私たちに言わせてくれません。むしろ、「本当にそれがあなたの意志ですか?」と繰り返し私たちに問わせます。「神様に背を向ける」とは、たぶんそれをやめることです。「本当に?」「どうして?」「何をしようとしています?」と神様に投げかけなくなることです。

 

異教徒の大虐殺、ユダヤ人への迫害、聖地を取り戻す戦争、セクシュアル・マイノリティへの差別……「本当にそれがあなたの意志ですか?」と神様に問わなくなったことで、キリスト教も多くの罪を再生産してきました。私自身も、問わなければなりません。私の罪って何ですか? 私がまだ、気づいていないことですか? 私自身が、見ないようにしていることですか?……あなたは、神様に何を問いますか? 

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(長野県佐久市の岩村田教会)のために、子どもたちのために、保護者のために、高齢者のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆長野県佐久市の岩村田教会のために祈ります。2020年以降、感染症の拡大により、大きな影響を受けた教会に、あなたのお支えがありますように。この間に守られてきた礼拝が、これからも様々な工夫で続けられるよう導いてください。

◆子どもたちのために祈ります。保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、専門学校で広がっている感染症から、子どもたちが守られますように。今、治療を受けている子どもたちやその家族も支えられ、速やかに回復が導かれますように。

◆保護者のために祈ります。家族や職場を守るため、葛藤しながら毎日を過ごしている人たちに、あなたの慈しみがありますように。一人一人の負担が分けられ、安心と喜びが大きくなるよう、私たちのつながりを用いてください。

◆高齢者のために祈ります。家から出られず、会いたい人にも会えない人に、あなたの恵みがありますように。特に、怪我や病気で療養している人たちに、あなたの憐れみが豊かにあって、癒しの御手が差し伸べられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌20番「すべてを売り払い」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

報 告

本日も、配信を通して聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究祈祷会は、教会に集まった3名、同時に視聴された6名、計9名が出席されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の水曜日も配信等による在宅聖研を行います。教会に集まる集会の再開は「まん延防止等重点措置」の解除を目安に、2週間毎に検討し、教会員への連絡網とホームページ等でお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。