聖書研究祈祷会 2026年6月17日
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
讃美歌
讃美歌21の18番「心を高くあげよ!」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。
お祈り
ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。
◆祝福の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。
◆私たちの神様。先日の日曜日は、花の日こどもの日の礼拝として、礼拝後に、花束を持って、長らく教会で顔を合わせられたなかった方々とも、訪問聖餐を行うことができ、感謝致します。どうか今、全ての家に、あなたの祝福がありますように。
◆私たちの神様。芽含幼稚園の外壁洗浄塗装工事も着々と進み、少しずつ子どもたちの環境が整備されています。どうか今、事故なく怪我なく、子どもたちと作業をされる方々の安全が守られ、綺麗な建物で保育や礼拝を行うことができますように。
◆私たちの神様。来週の日曜日は、隠退教師の鈴木重正先生がメッセージをしてくださいます。どうか今、先生とご家族の上に、全国の隠退教師の上に、あなたの恵みとお支えが豊かにありますように。
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖書朗読
聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネの黙示録3:7〜13の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書456頁です。
同じく、ヨハネの黙示録3:7〜13の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書443頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |

メッセージ
今年度の聖書研究祈祷会は「希望と励ましを届けよう」という華陽教会の年間主題に沿って「キリスト教の終末思想」というテーマで、ヨハネの黙示録を読み進め、メッセージを共有しています。第8回は、3章7節から13節に出てくる「フィラデルフィアの教会」について、取り上げたいと思います。
ヨハネの黙示録は、ローマ帝国の支配下に置かれたアジア州にある7つの教会に宛てた手紙の形で書かれていますが、6つ目に出てくるフィラデルフィアにある教会は、他の教会と違って、天上のキリストから非難や批判が語られません。直前に出てきたサルディスの教会と対照的に、教会への高い評価と称賛が述べられています。
フィラデルフィア自体は、黙示録に出てくる町の中では、最も新しくできた町で、ペルガモンのアッタロス2世フィラデルフォスによって建設されたため、この名前が付けられました。フィラデルフィアには「兄弟愛」という意味もあり、アメリカ合衆国のペンシルベニア州南東部にも、同じ名前の都市があります。
アメリカのフィラデルフィアは、1682年にピューリタン運動から生まれたクエーカーのキリスト教徒、ウィリアム・ベンたちがヨーロッパから渡来し、移住区を建設したのが始まりです。信仰の自由が保障された都市として築かれ、1776年のアメリカ合衆国独立宣言も、その地で行われました。
ウィリアム・ベンは、この都市を「兄弟姉妹愛の都市」を意味する古代ギリシア語から付けましたが、もしかしたら、黙示録に出てくるフィラデルフィアの町も、念頭にあったのかもしれません。黙示録に出てくるフィラデルフィアは、リディアの未開の高地地方にギリシア語とその文化を拡大するためのセンターとして建設されました。
しかし、地震の多い地帯であったため、紀元17年には、大地震によって壊滅してしまいます。その後、ローマ皇帝ティベリウスの援助によって再建され、二度ほど町の名前を変えられますが、土地の人々の間では、フィラデルフィアという古い名前が使われ続けていたそうです。
全米第6位の大きさを誇る、アメリカの都市と同じ名前のため、非常に栄えた町のイメージがあるかもしれません。しかし、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディスなどの、交易や商業の中心地と比べ、そこまで便利に発展していたわけではありませんでした。
フィラデルフィアにある教会の人たちも「力が弱かった」と言われているので、迫害を受けている他の町の教会以上に、人数もお金も少なかったのかもしれません。礼拝の様子も賑やかとは言い難く、伝道の勢いも弱かったのかもしれません。週によっては、2人、3人で礼拝を行っている、山間部の教会の様子が連想されます。
ところが、天上のキリストは、彼らに対し、「わたしはあなたの行いを知っている」と言い、「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」と告げられます。「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない」と宣言されます。
黙示録で「開かれた門」が出てくれば、それはすなわち、救いに至る道の門、「神の国」「天の国」の入り口の門とイメージされます。ちょうど、7節には、フィラデルフィアの教会に語りかける天上のキリストについて、「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方」という表現も出てきました。
「ダビデの鍵を持つ方」という言葉は、イザヤ書22章22節に出てくる神の言葉「わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう」を反映しています。イザヤの預言は、神に背いた人間の王に代わって、父なる神の遣わす、憐れみ深い真の王が、みんなを支配してくれるようになる、という励ましの言葉でした。
ヨハネの黙示録では、その王こそが、神の子イエス・キリストであり、キリストご自身が、フィラデルフィアの教会の人々へ、「救いの門」「天の国の門」を開いておいたと宣言したことを告げています。この宣言は、もう一つ、聖書に出てくる、あるエピソードを思い起こさせます。
それは、マタイによる福音書16章で、イエス様が弟子のペトロにこう言われたことです。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」……この言葉は、ペトロが弟子たちを代表して、イエス様から「神の国」「天の国」への入り口を開く、特別な権威を授けられた出来事と理解されています。
また、カトリック教会では、この鍵を受け継いだ使徒ペトロが「初代ローマ教皇」であるとされています。それだけ、重要な出来事として記憶されていますが、この直後、ペトロはイエス様が十字架につけられて3日目に甦ることを聞き、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、イエス様の言葉を拒絶してしまいます。
彼は、イエス様が死んでから3日目に復活するという言葉が信じられず、イエス様が、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺される」という話に耐えられず、エルサレムへ行くのを思い止まらせようとしてしまうんです。それを見たイエス様はペトロに振り向き、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しい言葉を語られます。
ついさっき、イエス様から天の国の鍵を授けられたペトロが、その直後、イエス様から「サタン、引き下がれ」と言われてしまう……なかなか衝撃的なシーンですよね? ところが、イエス様は自分の言葉を信じられず、受け入れられなかったペトロから、天の国の鍵を取り上げようとはしませんでした。「私の言葉を信じないお前ではなく、他の者に天の国の鍵を授けよう」とも言いませんでした。
それどころか、一週間後に、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて、高い山の上に登られ、自分の姿が白く輝いて、変わるところを見せられます。地上を去ったはずの、天にいるはずの、族長モーセや預言者エリヤと語り合うところを見せられます。この光景を見せられたペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、エルサレム教会で「柱」と目される存在になっていったことが、ガラテヤの信徒への手紙2章9節に出てきます。
せっかく、イエス様から天の国の鍵を受け取ったのに、次の瞬間には、イエス様の邪魔をしてしまい、「サタン」とまで呼ばれてしまった人間が、その後も、イエス様から「わたしについてきなさい」と呼ばれ続け、信じない者ではなく信じる者となるように導かれ、教会の「柱」と呼ばれる人物にまでなっていく。
天上のキリストは、そんなペトロを思い出させるように、フィラデルフィアの人々へ、「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう」と宣言します。実は、フィラデルフィアにある教会へのメッセージには、このように、イエス様と使徒ペトロの間に起こった出来事を、いくつも思い出させる表現が連続しているんです。
特に、フィラデルフィアの人々へ語られた「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」という言葉は、ペトロがイエス様に向かって、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓った話を思い出させます。
結局、ペトロはそのように誓っていたにもかかわらず、イエス様が敵に捕まったとき、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」「この人はナザレのイエスと一緒にいた」と周囲から詰め寄られ、「そんな人は知らない」と打ち消してしまいました。イエス様は、そのことも予告して、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と告げていました。
以前、イエス様は弟子たちに向かって、「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」と教えていました。
だからこそ、ペトロは自分がイエス様を「知らない」と言うことを予告され、必死に打ち消したんだと思います。「たとえ死ぬことになっても、わたしはあなたを知らないなんて言いません!」「わたしはあなたの仲間で居続けます!」と……しかし、いざ、自分も捕まって殺されそうになると、イエス様の仲間であることを否定してしまいます。
こうなると、本来、ペトロは予告どおり、イエス様から「わたしもあなたを知らない」と天の父の前で告げられ、自分に授けられた鍵を取り上げられ、神の国から締め出されるはずです。ところが、復活したイエス様は、自分を三度否定したペトロに「わたしもあなたを知らない」とは言いません。
むしろ、他の弟子たちの前で、彼の名前を呼んで、こう言います。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」……ペトロは必死に、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え、イエス様はさらに、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と聞かれます。
ペトロも続けて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えますが、イエス様は再び「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と尋ねました。ペトロは三度目も「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えます。
このやりとり、よく考えるとすごいですよね。ペトロはイエス様の予告どおり、イエス様を「知らない」と三度否定してしまった人間です。それなのに、自分の口で「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるなんて、なかなか言えません。
「いや、お前はわたしを『知らない』と言ったじゃないか?」「三度も否定したじゃないか?」「わたしを見捨てて逃げたじゃないか?」そう言われてもおかしくないのに、ペトロは、「あのときあなたを否定したわたしが、それでも、あなたを愛していることは、あなたがよく知っておられます」とイエス様に答えるんです。
イエス様はそれを聞いて「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と繰り返し、自分を信じる信徒たちの世話をペトロに託していきました。ペトロのことを知らない人ではなく、自分の羊を任せる、誰よりも信頼している仲間として、呼びかけ続けました。
フィラデルフィアの教会の人たちも、「わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」とイエス様から言われていますが、一度も、イエス様の言葉に背かず、一度も、イエス様のことを疑わなかったのかと言えば、そうとは言えないんじゃないかと思います。
イエス様は、ヨハネによる福音書で、自分のことを理解し切れず、自分の言葉を受け入れ切れず、自分の教えに従い切れない弟子たちのことも、父なる神に向かって「彼らはわたしを信じ、受け入れ、従いました」と祈っていました。これから自分を裏切り、これから自分を見捨てる弟子たちのことを、神の民の一員にふさわしい者と言っていました。
それは、自分を三度否定したペトロが、自分を否定したままにならないよう、自分を知っていると告白するまで呼びかけ続けていったように、弟子たち一人一人が自分を信じ、受け入れ、従うようになるまで、どこまでも付き合い続けていくことを、最初から決めていたからです。自分の言葉を守れない者が、守れるようになるまで、自分の名前を知らないと言う者が、知っていると言うようになるまで、イエス様は新しく出会い続けます。
それは、ペトロをはじめとする12人の弟子たちや、フィラデルフィアの教会の人たちだけにではありません。それぞれの教会へのメッセージで「耳ある者は、“霊” が諸教会に告げることを聞くがよい」と言われているように、この励ましは、時代や場所を超えた、全ての教会の会衆に対して、語られ続けているものなんです。
イエス様は、自分を「知らない」と言った者、自分の言葉を守らなかった者を、あっさり捨てられるような方ではありません。むしろ、「知らない」と言ったまま、教えを守らないまま滅びていかないよう、弟子たちに付き合い続けたことを思い出させ、今も、あなたが救いの道に至るよう、付き合い続けている自分とで合わせます。
やがて来たる神の国から、新しい神の神殿から、外へ弾き出されることのないように、みんなが自分を「知っている」者となるように、一人一人に、ご自分の名を書き記そうと言われます。「わたしはあなたを知っている」「あなたのことを知っている」と、何度も、励ましを語られます。
ですから、ペトロが、イエス様を三度否定してしまった後も、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っています」と信頼して答えたように、私たちも、自分自分を、どこまでも仲間として受け入れてくださっているイエス様を、信じて歩み続けましょう。あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように。アーメン。
とりなし
共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている神奈川県川崎市のまぶね教会のために、子どもたちのために、若い人たちのために、壮年の人のために、祈りを合わせましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。
◆神奈川県川崎市のまぶね教会のために祈ります。教会員の高齢化や礼拝出席者の減少を感じる中で、これからの世代に、イエス・キリストの恵みをどのように受け渡していくか模索している教会に、あなたの導きが豊かにあって、良い働きができますように。
◆子どもたちのために祈ります。今年100周年を迎える芽含幼稚園の子どもたちをはじめ、岐阜市の子どもたち、全国の子どもたちに、あなたの祝福が豊かにありますように。私たち大人が、明るく平和な未来を築いていくことができますように。
◆若い人たちために祈ります。岐阜済美学院、金城学院、名古屋学院をはじめ、全国の学生や青年に、あなたの恵みが豊かにありますように。進路や就職、人間関係や経済的事情で困っている人に、必要な助けと気づきがもたらされますように。
◆壮年の人のために祈ります。仕事や子育て、介護や看病が大変な人、仕事につくことや家庭を築くことが困難な人、それぞれに、あなたの慈しみがありますように。頼れる人たちや安心して過ごせる居場所が、それぞれに与えられますように。
◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌2番「あなたの内なる人を」を歌いましょう。

主の祈り
共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5A、あるいは、オンライン賛美歌の後ろの方の4頁です。主の祈り……

報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。
よかったらぜひ、ご参加ください。来週の聖書研究祈祷会は、『ラオディキアの教会(ヨハネの黙示録⑨)』と題して、ヨハネの黙示録3章14節から22節のお話しをする予定です。次回もぜひ、祈りを合わせてご参加ください。
それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。