ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ついていけなかった場所に』 使徒言行録12:6〜17

聖書研究祈祷会 2023年2月22日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の296番「いのちのいのちよ」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆赦しと和解をもたらす、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。今日は、キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改める「受難節」の始まり、「灰の水曜日」を迎えました。どうか今、私たち一人一人の苦しみを共に担ってくださるイエス様と、新しく出会わせてください。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまでの6週間、私たちは、自分の過ちを見つめつつ、イエス様がもたらす赦しを聞いて、新たな生き方を始めます。どうか今、単なる罪責感でなく、希望と信頼に基づく悔い改めを始めさせてください。

◆私たちの神様。今週も、突然の事故や、毎日の積み重ねによって、怪我をした人や体調を壊した人、心を病んでしまった人に、あなたの癒しがありますように。どうか今、心身の回復が進むように、引き続き、あなたが守り、支えてください。

◆愛と力と希望の主である、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録12:6〜17の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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TomによるPixabayからの画像

メッセージ

今日は「灰の水曜日」と呼ばれる、キリスト教会の特別な日です。この日から、神の子である救い主、イエス・キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改める「受難節」(レント)が始まります。受難節は、一人一人が、神様の赦しと和解を信じ、キリストの復活を記念するイースターの準備をする6週間でもあります。

 

この受難節の間に、受洗勉強会などを行って、イースターにキリスト教の入信式「洗礼」を受ける人たちもいます。華陽教会も、聖書研究祈祷会が終わった後、15時半まで、洗礼を希望する人や、学びに興味のある人と、一緒に受洗勉強会を行っています。まさに、イースターの準備です。

 

しかし、受難節に自分の罪を悔い改めて、キリストの復活を祝う準備をするって、けっこうしんどく感じるかもしれません。よく、この時期に断食したり、お酒を絶ったり、肉を食べないようにする信徒もいます。何かを我慢して、自分のためにイエス様が受けられた苦しみを思い起こすわけです。

 

中には、過去に犯した過ちや、現在も抜け出せない罪を、誰かに告白したり、紙に書いたりして、自分自身を見つめる期間にする人もいます。いずれも、なかなか苦しいですよね? ただただ、自分自身がいかに悪いか、いかに愚かで弱いか自覚しようと、苦行のような日々を過ごしてしまう人もいるかもしれません。

 

しかし、私たちがイエス様の受難を思い起こすのは、「私のせいでイエス様が苦しんだ」「私は本当に悪い奴だ」とひたすら言い聞かせるためではありません。「私の悪いところ」を数えて、暗い顔を見せるためではありません。「自分なんか……」と否定して、自分自身を貶めるためでもありません。

 

私たちが、イエス様の苦しみを思い出すのは、イエス様がどんなに私を信頼していて、その信頼が、本当に間違っていないかを思い出すためなんです。イエス様は、あなたを心から信頼して、あなたのために苦しみを受け、あなたも、その信頼に応える者として、ちゃんと、新しく歩まされていくんです。

 

かつて、イエス様に選ばれた12弟子の一人であったペトロは「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と宣言しました。事実、彼はイエス様が捕まったとき、他の弟子と一緒に一旦逃げたものの、すぐに隠れながら、捕まったイエス様を追いかけていきました。

 

自分も捕まる危険を犯して、最後までついていこうとしたわけです。ところが、遠く離れて従っていたペトロに、ある女中が「この人も捕まったイエスと一緒にいた」と言い始めます。他の人も「あの連中の仲間だ」とペトロを指さして言い出します。ペトロは3度否定して、「わたしはあの人を知らない」「仲間じゃない」「何を言っているか分からない」と言いました。

 

その瞬間、鶏が鳴き、ペトロは数時間前にイエス様から言われたことを思い出します。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」……本当に「知らない」と言ってしまった……仲間じゃないと叫んでしまった……一緒に捕まっても、牢に入っても、死んでもよいと言ったのに、イエス様を仲間じゃないと言ってしまった。

 

結局、ペトロはそれ以上ついていくことができず、外に出て激しく泣いていました。その場で名乗り出て、イエス様と同じ牢に入ることも、イエス様と一緒に十字架にかかることもできませんでした。ペトロの犯した過去の過ち、忘れられない自分の罪です。やがてペトロは復活したイエス様と再会しますが、自分が本当に赦されているか、何度も自信を失ったでしょう。

 

使徒言行録を読んできた私たちは見ています。ペトロが神様にヤッファで幻を見せられたときも、「屠って食べなさい」と言われた獣を食べることができず、神が清めたものを「清くない物」「汚れた物」というふうに、三度否定してしまったことを。また、三度従えなかったことを。彼のために遣わされた異邦人も、最初は受けら入れられなかったことを。

 

最後まで、イエス様についていけなかったことを赦されてからも、ペトロは神様の命じたことに従えず、語られたことを受け入れられず、過ちを犯し続けてきました。彼の中で「また、やってしまった」「また、従えなかった」「また、ついていけなかった」という思いが積み重なっていきます。

 

やっぱり、あのとき最後までイエス様についていけなかった自分は、ダメな奴だ、悪い奴だ、愚かな奴だと、苦しんでいたかもしれません。早く今までの失敗を精算して、納得のいく死に方がしたいと思っていたかもしれません。イエス様と同じくらい苦しめば、ひたすら苦しみに耐えて死ねば、今度こそ赦されたと思えるかもしれない。

 

そんな中、迫害が激しくなってきたユダヤで、先にヤコブが殺されてしまいます。また自分だけが生き残り、置いていかれた気持ちになりながら、続けてペトロも捕えられます。どんな巡り合わせか、その時期はイエス様が捕えられ、十字架につけられたのと同じ、徐酵祭の最中でした。四人一組の兵士に見張られながら、ペトロは牢で過ごします。

 

彼を捕まえた領主ヘロデは、過越祭の後で、ペトロを民衆の前に引き出し、処刑するつもりで準備していました。2本の鎖でつながれたペトロは、静かにその時を待っていました。教会では彼のために熱心な祈りがささげられていましたが、不思議なことに、ペトロ自身が救いを求めて祈る様子は記されません。

 

ペトロにとって、自分が囚われている場所は、これから連れて行かれる場所は、あの日自分がついていけなかった、イエス様のいる場所でした。あの日、ついていけなかった牢に入り、あの日、ついていけなかった処刑場へ、連れて行かれるのを待っています。もはや、彼はここから逃がしてくれとは願いません。

 

ようやく、ここに来ることができた。ようやく、ついていけなかった場所にやってきた。あとは、十字架につけられて死を迎えたら、あの日犯した過ちも、これまで犯してきた罪も、本当に赦されたと納得できる。あと少し、もう少しで、ついていけなかった場所に、十字架の死にたどり着ける。イエス様に、今度こそ「ついてきました」と応えられる。

 

ところが、思ってもみないことが起きました。ペトロのそばに天使が現れ、光が牢の中を照らします。「急いで起き上がりなさい」と彼を立ち上がらせ、鎖を外し、こう言われます。「上着を着て、ついて来なさい」……ペトロは幻を見ているのだと思い、天使に言われるまま、第一、第二の衛兵所を過ぎ、ひとりでに開く門を通っていきました。

 

しばらく進んでいくと、急に天使が離れ去り、ペトロは我に返ります。神様が天使を遣わし、自分をヘロデの手から、民衆から、あらゆる目論みから、救い出してくださったことに気がつきます。振り返ると、自分がいなくなった空っぽの牢と、天使の去った道が続いていました。かつて、イエス様がいなくなった空っぽの墓と、天使の去った道が続いていたように。

 

彼は急いで仲間のいる家へ走りました。そこには、大勢の人が集まって、中で祈っていました。ペトロは外から門を叩きます。かつて、自分たちが戸に鍵をかけ、閉じこもっている家へ、復活したイエス様がやってきたように、今度は門を締め切って、閉じこもっている信徒の家へ、ペトロが訪れ、力いっぱい戸を叩きます。

 

最初は、イエス様が復活したと信じられなかった弟子たちのように、ペトロの帰還もなかなか信じてもらえません。しかし、彼が戸を叩き続けると、信徒たちは恐る恐る扉を開き、本当にペトロが帰って来たことを信じます。あの日、あの時、イエス様がやってきた場所に、ペトロもこの日、訪れていました。

 

あの日「ついていけなかった場所」は、ペトロにとって、十字架の死がゴールだったかもしれません。そこまでついていくことが、イエス様の信頼に応えることだと思っていたかもしれません。しかし、イエス様の遣わした天使に「ついて来なさい」と言われた場所は、十字架の死の先にありました。

 

ペトロがついていった先にあるのは、墓場で終わる道ではありませんでした。復活したイエス様の訪れた場所へ、ペトロはついていきました。彼が、ついていこうとさえ思えなかった、願うことさえできなかった場所まで、イエス様はついてこさせたんです。彼が牢にいる間、思い起こしたイエス様の苦しみは、彼も、同じ苦しみを受けることではなく、新しく生きる道をもたらしたんです。

 

皆さんも、ついていけなかった場所があるでしょう。ここまでついていけたら、赦されあと思えるところが、たぶんあるでしょう。でも、あなたは自分が思ってもみないところまでついて行かされます。死がゴールだと思っていたのに、それを超えた復活の道を歩まされます。たとえ今、望むことさえできなくても、イエス様はあなたを新しく生きる者へと変えられます。

 

ペトロがイエス様の信頼に応える者となったように、あなたもイエス様の信頼に応える者となっていきます。どこまでもあなたに付き合ってくださる神様が、イエス様が、聖霊がおられます。だから、この期間、あなたの犯した過ちを見つめつつ、あなたを赦された神様と、あなたを新しくするイエス様と、もう一度出会っていきましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(埼玉県さいたま市の埼大通り教会)のために、傷ついている人のために、悩んでいる人のために、耐え忍んでいる人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆埼玉県さいたま市の埼大通り教会のために祈ります。一昨年、50周年を迎えたこの教会に、あなたの祝福がありますように。50周年記念誌の編纂が進み、これからも希望を持って、神様の栄光を現すことができますように。

◆傷ついている人のために祈ります。戦争で、災害で、暴力で、差別で、傷つけられた人たちに、あなたの癒しがありますように。傷つけるものたちに変化が訪れ、平和と回復がもたらされますように。

◆悩んでいる人のために祈ります。家庭で、学校で、職場で、近所で、人間関係や周囲の環境に悩まされている人たちに、あなたの慰めがありますように。それぞれに気づきと理解がもたらされ、安心できる場所と変わっていく力が与えられますように。

◆耐え忍んでいる人のために祈ります。誰かのために、みんなのために、あるいは自分が傷つかないために、耐え忍んでいる人たちに、あなたの慈しみがありますように。一方的な我慢や負担から解放され、共に新たにされていくことができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌2番「あなたの内なる人を」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。先週の聖書研究祈祷会は、教会に集まった3名、同時に視聴された2名、計5名が参加されました。後から動画や原稿を見て祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。人前でお祈りするのを遠慮したい方は、飛ばしてもらうこともできます。よかったらぜひご参加ください。

 

聖書研究祈祷会が終わった後、受洗志願者と一緒に受洗勉強会も15:30まで行っています。受洗する気はないけど興味のある人、既に受洗したけど出てみたい人も、自由に参加できるようにしています。どうぞ気軽にお越しください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。