ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『キリストを否むなら』テモテへの手紙二2:8~13

聖書研究祈祷会 2024年10月9日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の505番「歩ませてください」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆慈しみ深い神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。先日の日曜日は、長らく顔を合わせることのできなかった姉妹兄弟と、一緒に礼拝が守れたことを感謝致します。どうか今、なかなか自宅から、施設から、出て来ることができない人に、これからもあなたの助けと導きが豊かにありますように。

◆私たちの神様。日曜の午後には、在日大韓基督教会と日本基督教団の協約締結40周年を記念して、岐阜地区の合同礼拝を開くことができました。どうか今、ここで再会できた人たちと、これからも豊かな交流と宣教協力ができますように。

◆私たちの神様。ここへ来ることを願いながら、病のため、怪我のため、衰えのため、介護のため、礼拝や聖書研究祈祷会に来ることができない人に、あなたの慰めがありますように。どうか今、それぞれに必要な癒しと回復をもたらしてください。

◆私たちの友なる主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。テモテへの手紙二2:8~13の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

メッセージ

 テモテへの手紙一では、テモテをはじめとする教会指導者と、教会指導者を迎える会衆に向けて、様々な教えが書かれていました。教会の指導者はどのように選ばれるべきか? 指導者はどのような責任があるか? 会衆はどのように教会生活を送るべきか? 教会は世間に対し、どんな姿を見せるべきか?

 もちろん、異なる教え、偽りの教えに対する警告も述べられていましたが、信仰の内面についてはほとんど触れず、信者の振る舞い、態度、生活スタイルなど、外面的な内容について触れているところがほとんどでした。それに比べて、テモテへの手紙二では、いくらか信仰の内面についても触れられています。

 「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」……これは、イエス様こそ、神様が人々に遣わすことを約束された救い主で、全ての人の罪を負って十字架にかかり、神様に甦らされた方である、という信仰告白です。

 おそらく、神の子であるキリストが十字架にかけられて亡くなったことを否定する者、死んでから三日目に復活したことを否定する者がいたんでしょう。神の子なのに、人のために死んでしまったなんて受け入れられない……死んだ者が生き返ったなんて納得できない……本当は死んだわけではなかったのだ……肉体を捨てて魂だけが甦ったのだ……!

 そんなふうに、「これが隠された秘密である」「我々だけが本当の真理を知っている」というような、偽りの教え、異なる教えが、あちこちで語られるようになりました。そんな中、イエス様が死者の中から復活したことを語り続けるキリスト者は、偽りの教えに飛びつく者から、本当の秘密を知らない、無知な信者のように貶されることもあったでしょう。

 また、死者の復活は、サドカイ派など保守的な宗教指導者からは否定されていたので、そんな突拍子もないことを信じて述べ伝えるなんて、愚かで迷惑な行為だと、度々、批判も受けました。そのため、宣教者パウロも、人々を惑わす者として捕えられ、対立するユダヤ人から訴えられ、犯罪人として鎖につながれたこともありました。

 一方で、「神の言葉はつながれていません」という言葉のとおり、鎖につながれたパウロやペトロ、ヨハネたちは、牢に捕らわれていた囚人たちを信仰に導き、看守の家族に洗礼を授け、「裁判の場」である法廷を「宣教の場」に変えてしまい、イエス様との出会いや教えを人々に語っていきました。

 普通、伝道しようとしているときに、投獄されてしまったら、鎖につながれてしまったら、次々と苦難が襲ってきたら、「自分が宣教に遣わされることは御心ではなかったんだ」「神様は私を遣わすことを止められたんだ」と思ってしまいますが、彼らは自分が受けた苦しみを、そんなふうには捉えません。

 むしろ、思ってもみない宣教の場が与えられた……思ってもみない人々の出会いが導かれた……ここに、キリストの栄光がある……ここに、神の言葉が現れている……そのように、聖霊から励ましを受け、力付けられ、歩み続けていきました。彼らが「選ばれた人々のために」耐え忍んだ苦しみは、囚人や、異邦人や、敵だった人のためでもあったんです。

 ただし、私たちが今、この手紙を読み返すと、どうしても、心がチクっと刺されてしまう、厳しい言葉に目が留まります。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる……」

 けっこう厳しい要請ですよね? 「キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きるようになる」……これは、殉教を厭わない態度を持つよう勧められている言葉とも、信仰を持たない古い自分が死んで、信仰を与えられた新しい自分として生きる洗礼式が勧められている言葉にも取れますが、前者だと、なかなか受けとめにくいですよね。

 ダメ押しするように、「耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる」という言葉が続くため、棄教を迫られても、迫害に遭っても、信仰を捨てずに、その命を全うすることが、救いの条件であるようにも感じてしまいます。多くの方は、踏み絵を強制されて、たくさんの信者が殺された、キリシタンの歴史が頭に浮かんでくるでしょう。

 殉教した先人たちのように、キリストのために、命を捨てることができなければ、最後まで従うことができなければ、私たちは救いにあずかることができないのか? 命惜しさに、我が身可愛さに、信仰を否定してしまったら、キリストと共に生きることは、二度とできなくなってしまうのか?

 さらに、次の言葉が胸を刺します。「キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる」……実際、イエス様ご自身も、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」と語ったことが、マタイによる福音書10章33節に書かれていました。

 ここまではっきり言われると、もう逃げ場がありません。イエス様の教えと業を信じたいけど、正直、復活の話は受け入れられない……イエス様の教えていること、命じていることを「はい、分かりました」と全て受けとめることは今もできない……ときには、人前で、自分が信仰を持っていることを隠してしまう…….。

 そんな私は、イエス様から「もう知らない」と言われてしまうんだろうか? 天の国で神様の前で否定され、救いから漏れてしまうんだろうか? そうならないように、死ぬことも厭わないで、苦しみを避けないで、恐怖を原動力にして、耐え続けなければならないんだろうか?

 いえ、ちょっと待ってください。私たちは、キリストと共に死のうとして、一緒に死ねなかった人たちを知っています。キリストを否定して、「知らない」と言ってしまった人たちを知っています。それはまさに、イエス様に「最後まで従う」と言いながら、イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たちです。

 その中の一人である使徒ペトロは、後からこっそりイエス様をつけ、最後まで従おうとしましたが、結局、周囲の人間に仲間だとばれ、問い詰められてしまいます。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」「この人はナザレのイエスと一緒にいた」ペトロは恐ろしくなって、「そんな人は知らない」と三度もイエス様を否定してしまいました。

 ペトロだけではありません。他の弟子たちも皆、イエス様が捕まったとき、その死を見届けることさえしませんでした。皆、自分も捕まることを恐れて、戸に鍵をかけて閉じこもっていました。「あなたのためなら命を捨てます」と言った弟子たちは、誰一人、キリストと共に死ぬことのできなかった人たちでした。

 また、多くの手紙を書き残した宣教者パウロは、もともとイエス様が神の子であることを否定して、イエス様の仲間である弟子たちを捕え、処刑していた人物でした。誰よりもキリストを否定していた人物でした。ペトロも、パウロも、イエス様を見捨てて逃げた他の弟子たちも、本来なら、予告どおり、イエス様から「わたしはあなたを知らない」と言われるはずの人たちでした。

 しかし、イエス様は自分を否定した弟子たちに、復活して姿を現します。「あなたがたに平和があるように」と挨拶し、「わたしに従いなさい」ともう一度呼びかけます。自分を知らないと三度否定してしまったペトロには、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と三度問いかけ、三度、自分への愛を告白させます。

 さらに、自分の復活を信じられないトマスにも、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と訴え、「わたしの主、わたしの神よ」と告白させます。誰よりも、自分を迫害してきたパウロには、信じて弟子になるように、仲間のもとへ向かうように命じます。イエス様は、自分を否定した者が、否定したまま滅びることをゆるしませんでした。

 自分と共に生きるように、彼ら一人一人へ、新しい命を与えていきました。信じない者が信じる者となるように、従えない者が従う者となるように、新しく出会い続けていきました。この方は、キリストを否む者たちが、キリストを受け入れ、迎える者となれるまで根気よく付き合い続けます。

 「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」……そうなんです。この言葉は真実です。イエス様は、私たちを放置することができません。私たちが裏切ったまま、見捨てたまま、滅んでいくままにできません。和解と平和がもたらされるまで、どこまでも手を伸ばします。

 だから、安心して、イエス・キリストのことを思い起こしなさい。未だ、信じることができなくても、受け入れることができなくても、理解することができなくても、この方はあなたを見捨てません。あなたをそのままにできません。どこまでも、あなたと付き合い続け、あなたを新しくしていきます。あなたを自分と共に生きる者へと変えられます。

 味わい見よ、主の恵み深さを……アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている徳島県海部郡の宍喰(ししくい)教会のために、在日外国人のために、在日二世のために、海外在留の日本人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆徳島県海部郡の宍喰教会のために祈ります。4月から新しく牧師を迎えられた教会に、あなたの祝福がありますように。教師と教会員一同が、県南の伝道に励みつつ、あなたの恵みを豊かに受けて、歩んでいくことができますように。

◆在日外国人のために祈ります。外国から来て、日本で暮らしている方々、外国から連れてこられて、日本で暮らすようになった人々の子孫、それぞれに、あなたの慈しみがありますように。一人一人の尊厳が守られますように。

◆在日二世のために祈ります。自分自身のルーツを理由に差別を受けておられる方々、親や周囲とのコミュニケーションに困難を覚えている子どもたち、それぞれに、あなたの憐れみがありますように。安全な居場所と必要な助けが得られますように。

◆海外在留の日本人のために祈ります。外国で暮らしている日本の方々、外国で生まれた子どもたち、留学や研修で赴いている学生たちに、あなたのお守りがありますように。混乱が生じているところに平和が、争いがあるところに和解がもたらされますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌13番「恐れ惑うこの身に」(©️柳本和良)を歌います。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。本日は諸事情のため、30分早く始めさせていただきましたが、配信終了後の分かち合いもお休みです。

 

来週はいつもどおり午後1時半〜2時半に、聖書研究と分かち合いを行います。なお、来週の水曜日は『復活はもう起こった?』と題してテモテへの手紙二2:14~26のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。