ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ラオディキアの教会(ヨハネの黙示録⑨)』ヨハネの黙示録3:14〜22

聖書研究祈祷会 2026年6月24日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の430番「とびらの外に」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆慈しみ深い神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。

◆私たちの神様。先日の日曜日は、ぶどう園の集いで、会衆による賛美と演奏を分かち合い、夕方には、桐の響を楽しむ会のトリオフェスティバルが礼拝堂で行われました。どうか今、音楽を通して与えられた、新しい出会いと交流が、ますます豊かにされますように。

◆私たちの神様。昨日は、芽含幼稚園の100周年事業委員会が開かれ、8月22日の記念礼拝・コンサートや、建物の修繕工事などについて話し合われました。どうか今、一つ一つの行事や取り組みが、良い形で実を結ぶように、引き続き私たちを導いてください。

◆私たちの神様。来週には、中部教区の常置委員会が開かれ、各地区・各委員会の報告や教区の機構改定についての話し合いが行われます。どうか今、これらの話し合いが建設的に導かれ、より良い未来に向かって歩むことができるよう、一人一人を助けてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネの黙示録3:14〜22の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書456頁です。

同じく、ヨハネの黙示録3:14〜22の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書444頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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メッセージ

 今年度の聖書研究祈祷会は「希望と励ましを届けよう」という華陽教会の年間主題に沿って「キリスト教の終末思想」というテーマで、ヨハネの黙示録を読み進め、メッセージを共有しています。第9回は、3章14節から22節に出てくる「ラオディキアの教会」について、取り上げたいと思います。

 ヨハネの黙示録は、ローマ帝国の支配下にあるアジア州の7つの教会に向けて記された手紙の形を取っていますが、7つの教会のうち、最後に出てくるラオディキアの教会は、天上にいるキリストからこんな批判を受けています。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。」

 なかなか手厳しい言葉ですよね? 「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」……ちなみに、「口から吐き出す」という言葉には「縁を断つ」という決定的な裁きの意味が込められています。加えて、この表現は、ラオディキアの水事情とも関連づけられた皮肉になっています。

 ラオディキアの北には、保養地として知られるヒエロポリスがあり、そこから引かれる温泉水には、癒しの効果が期待されました。また、東にはコロサイがあり、冷たくて美味しい清水が湧き出ていました。ラオディキアは、この2つの町の中間にあり、石の水路を通って水が届くまでの間に、温度が下がって、なまぬるい鉱泉水になりました。

 その水は飲みにくく、飲んだ人の気分が悪くなることもあったようです。天上のキリストは、そんなこの町の水事情に絡めて、ラオディキアの教会の人たちが、熱くも冷たくもない、中途半端な信仰生活を送っていると指摘します。ここで、イエス様に批判されている「熱くも冷たくもない信仰」とはどういうものか、私たちも気になりますよね?

 ラオディキアの教会の人たちは「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言って、平穏な生活を送っていたことが書かれています。冒頭の「わたしは金持ち」「私は裕福」という言葉は鼻につきますが、後半の「満ち足りている」「何一つ必要なものはない」という言葉は、どちらかというと、神様から必要なものは既にいただいている、足りないものはない、という信仰告白にも聞こえてきます。

 よく考えると、彼らが言うような「満ち足りている」「必要なものは既に足りている」という感覚は、私たちがあこがれやすい「信仰の境地」とよく似ています。心が迷わされることなく、平安に満たされ、神の恵みに満足して生きていく……これこそ、清く正しく美しい信仰者の目指すべき態度だと思われるかもしれません。

 ところが、一見理想的に見える彼らの態度をイエス様は「熱くも冷たくもなく、なまぬるい」と指摘します。むしろ、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」という酷い言い草です。これには、ラオディキアの人たちだけでなく、他の町の人々も驚くでしょう。

 どちらかというと、惨めに感じるのは、いつまでも満ち足りた感覚が得られず、自分に足りないものばかりを感じ、弱さを、貧しさを嘆いている、何かをずっと追い続けている、そんな姿の人間です。満ち足りた振る舞いをすることは、信仰的に成熟した証であり、迷うこと、悩むこと、苦しむことは信仰的に未熟な証ではないか? そう感じることもあるでしょう。

 熱くも冷たくもない姿……それは、迷いなく、落ち着いていて、どこか高みに到達したような、立派でかっこいい姿に見えるかもしれません。けれども、イエス様は、満ち足りた振る舞いをしているあなたがたこそ「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者であること」が、「目の見えない者、裸の者であること」が、分かっていないと、ラオディキアの人たちに言うんです。

 よく見ると、ラオディキアにある教会へのメッセージには、サルディスにある教会へのメッセージと同じく、他のユダヤ人や異邦人からの迫害に耐えている様子も、使徒や預言者を自称する人たちによる異端との闘いも出てきません「あなたがたが様々な困難とどう闘ったかを知っている」というイエス様の言葉が出てきません。

 ラオディキアの町は、キリスト教の教えを広めることに寛容だったのでしょうか? この町は、アンテオコス2世の創立した町で、商業・織り物の盛んな地域でした。目薬で有名な医学校もあり、起源60年に地震の被害を受けた際も、通常与えられる皇帝の援助を受けることなく、独自の財力で再建できるほど裕福な町でした。

 ペルガモンの町と同じく、医療の神アスクレピオスや、ゼウス、ディオニュソスなど、異教の神々を祀る神殿があり、皇帝崇拝も盛んでした。当然、神でないものを神として拝む偶像礼拝を拒絶するキリスト教徒は、迫害の対象になるはずでした。他の町のように、キリスト教徒であるという理由で、一部の職業につけなくなっても、財産を取り上げられても、おかしくありませんでした。

 ところが、ラオディキアの教会の人々は、裕福で、生活に困難を感じている様子がありません。ローマ市民から迫害を受けている様子も、社会からの圧力とどのように折り合いをつけるか迷っている様子もありません。それは、ラオディキアの町がキリスト教に寛容だったからではなく、この教会の人々が、皇帝崇拝に取り込まれることへ疑問を持たず、淡々と従っていたからではないかと思います。

 日本の教会も、戦前、戦時中に、天皇を神のように拝むことへ疑問を持たず、国に従うことで生き残ってきた時代がありますが、その結果、教会が国家の戦争に加担するという神様が喜ぶはずのない事態を招き、多くの人が傷つきました。キリストが統治者として再臨することを説き、天皇制を否定したと訴えられた「ホーリネス教会弾圧事件」では、当時の日本基督教団の幹部たちも、この弾圧に反対するどころか支持していました。

 実は、現代で言うリベラルな人たち、自由主義神学の立場を取っていた人たちも、最初は、天皇制をはじめとする国家の要請に従うことへ、一緒に加担していたんです。熱くも冷たくもない、お行儀の良い、みんなが憧れる「恵まれた」姿こそ、信仰的だと思って、闘うべきことから目を背けていたんです。

 本当は、自分の信仰と社会との折り合いをどのようにつけるか、聖書の教えをどのように受けとめ、どのように実践するか、迷い、悩み、揺れ動くのは、信仰的に未熟な姿ではなく、誠実で正しい姿なんです。迷わないこと、悩まないこと、自分に足りないものを感じないことは、信仰的に成熟している証とは言えず、熱くも冷たくもない状態に陥っているかもしれないんです。

 ラオディキアにある教会へのメッセージは、決して、ある時代、ある地域だけに限定された、注意と警告ではありません。今の時代に至るまで、全ての教会に向けて語られている、重要な指摘になっています。そして、この警告は、単なる断罪で終わりません。中途半端な信仰者への裁きの言葉で終わりません。

 神の子であるキリストは「わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」と言いながら、20節で「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と告げられます。

 ルカによる福音書14章やヨハネの黙示録19章では、キリストと共に食事をするということは、神の国に入ることであり、神の国の完成を祝う祝宴にあずかることだとされています。本来、この祝宴に招かれた者は、その時間に間に合うよう、主人の家へ自ら訪れることが求められます。

 しかし、自分の家に閉じこもって、出てこようとしない者たちにも、キリストは自ら訪れて、鍵を開けるよう戸を叩き、祝宴に連れて行こうとされるんです。何なら、イエス様が敵に捕まったとき、見捨てて逃げてしまった弟子たちは、イエス様が復活して会いに来たとき、戸に鍵をかけて閉じこもっていましたが、自ら戸を開けることさえできませんでした。

 「復活したイエス様を見た」という知らせを聞いても、戸を開けて、迎える用意ができなかった彼らは、そのまま見限られることなく、突如、部屋の真ん中に現れたイエス様と再会します。「なぜ信じないのか?」「なぜ閉じこもっているのか?」と責めるのではなく「あなたがたに平和があるように」と宣言された、イエス様と出会います。

 すぐには、イエス様だと信じられない弟子たちのために、この方はその場で魚を持って来させ、みんなの前で食事をし、神の国で「あなたがたと新たに飲むその日」が来ると告げられた、自分が帰ってきたと示されます。熱くも冷たくもない信仰をそのままにせず、彼らに息を吹き入れて、聖霊の炎を受けさせます。

 死んでから3日目に復活し、弟子たちへ再び会いに来られたイエス様の姿は、世の終わりに、再び地上へ訪れて、私たちと出会ってくださるイエス様の姿の先取りです。この箇所で、厳しく叱り、鍛えようとする神の言葉は、単に、信じなければ滅ぼされるという脅しの言葉ではありません。私たちの心に火を灯すため、どこまでも新しく出会いに来られる、あきらめることのない、熱情の神の言葉でもあるんです。

 さあ、あなたが勝利を得るように、あなたを祝宴にあずからせるために、今も、戸口に立ってたたいている、キリストの呼びかけに応えましょう。この方が「神の国」「天の国」へ迎え入れてくださることを信じましょう。耳ある者は、“霊” が諸教会に告げることを聞くがよい。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている神奈川県鎌倉市の鎌倉泉水教会のために、隠退教師のために、高齢者のために、一人世帯のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆神奈川県鎌倉市の鎌倉泉水教会のために祈りを合わせます。この教会と、全ての人の命の尊厳が守られますように。力を誇る者への揺るぎない批判と同時に、自らを深く悔い改める群れとなりますように。

◆隠退教師のために祈ります。華陽教会をはじめ、全国の教会におられる隠退教師の先生がた、そのご家族に、あなたの支えと祝福が豊かにありますように。特に、隠退後、教会へ行くことや生活が困難になっている牧師家庭の上に、あなたの助けがありますように。

◆高齢者のために祈ります。歳を重ねて、だんだんと友人・知人が少なくなっている人たちに、あなたの励ましがありますように。病気や障害、怪我や衰えから守られて、新しい喜びと発見があるように、日々の生活を導いてください。

◆一人世帯のために祈ります。周りに頼れる身内がなく、一人で過ごしている人たちに、あなたの支えと励ましがありますように。教会でも、近所でも、人とのつながりや、誰かと交流する時間が、良い形でできますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌21番「心騒ぎ不安になる夜に」を歌いましょう。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5A、あるいは、オンライン賛美歌の後ろの方の4頁です。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。来週の聖書研究祈祷会は、『天上の礼拝(ヨハネの黙示録⑩)』と題して、ヨハネの黙示録4章1節から11節のお話しをする予定です。次回もぜひ、祈りを合わせてご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。