ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『悪魔祓いになってない』 申命記6:16〜19、ルカによる福音書4:1〜13

日曜礼拝 2023年2月26日


www.youtube.com

 

消 灯

本日は、受難節第1週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を1本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。

 

案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、日曜日の礼拝も配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

                         

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。(ローマの信徒への手紙10:12)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、旧讃美歌83番「めぐみのひかりは」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(差し支えない方は、お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

◆赦しと和解をもたらす神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今週も、突然の怪我や病や事件から、一人一人を守ってくださったことを感謝いたします。どうか今、治療中の人、療養中の人、一緒にいる家族を支え、癒しと回復をもたらしてください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす受難節を迎えました。どうか今、あなたが私たちを救うため、共に悩み、共に痛み、共に希望を持たせてくださることを思い出し、自らの罪と向き合う力を持たせてください。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまで6週間、必要な準備をしていくことができますように。どうか今、あなたのもたらす赦しと和解を信頼し、自分自身が新しく生きていくことを信じられるようにしてください。

◆全ての者を新しくする、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。申命記6:16〜19、ルカによる福音書4:1〜13(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

www.bible.or.jp

交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編66:1〜20(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、讃美歌21の284番「荒れ野の中で」を歌います。(お立ちください)

 

Brigitte WernerによるPixabayからの画像

メッセージ

キリストの復活を記念するイースター前の6週間、「受難節」に入りました。この期間、キリスト教会では、イエス様の受けた苦しみと十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改めて、イエス様の復活を祝う準備をしていきます。その最初の日曜日に、多くの場合、イエス様が40日間、悪魔の誘惑を受けた話が読まれます。

 

そこで、信徒の中には、自分も40日間、お酒やお菓子を我慢して、誘惑に耐えながら、イエス様の受けた苦しみを思い起こし、感謝と悔い改めの日々を送る人もいます。そんなとき、「やらない」と決めたことをさせようとする、「しちゃいけない」と思うことに手を出させようとする「誘惑」が、自分自身をそそのかす「悪魔」のように感じられます。

 

実際、聖書に出てくる「悪魔」や「サタン」という存在も、人々を「誘惑する」あるいは「試みる」「試す」者として出てきます。「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ?(本当に神の子ならできるはずだ)」とか、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ(本当に神の子なら平気なはずだ)」というふうに。

 

よく見ると、こういうふうに「試みる」「試す」様子は、信仰者の間でこそ、見られやすいかもしれません。「信仰者なら、もっと借金してでも献金したらどうだ?(本当の信仰があれば、借金もすぐに財産へ変えられるはずだ)」とか「信仰者なら、通院をやめて薬を捨てたらどうだ?(本当に信仰があるなら、祈って病気を治せるはずだ)」というふうに。

 

おそらく、皆さんがイメージする悪魔の誘惑というものは、もっと衝動的な欲求を刺激してくる存在じゃないかと思います。暴飲暴食、薬物やアルコール、物欲や承認欲求を満たす乱暴な行動、あるいは、誰かに責任をなすりつけたり、誰かを虐めて自分を守ろうとしたりする行為……そんな「よくある誘惑」を思い浮かべやすいと思います。

 

しかし、聖書に出てくる悪魔やサタンは、単に、衝動的な欲求を刺激する存在というよりも、信仰を理由にした過激な行動や、信仰に優劣をつけようとする態度へ、引っ張り込もうとしてくるものです。「信仰があるなら、これもできるはず」「信仰で守られるなら、これも平気なはず」「偽物の信仰か、本物の信仰か、試させてくれ」……と。

 

旧約聖書に出てくるヨブは、「本物の信仰なら、病気になっても、家族を失っても、神に従い続けるはず」というサタンの働きによって、体を壊され、子どもを失い、財産も奪われてしまいました。新約聖書に出てくるユダは、サタンが入ったことによって、「神の子なら、自分が売っても、殺されまではしないはずだ」とイエス様を裏切ってしまいました。

 

聖書に出てくる悪魔って、こんなふうに、「神様に守られている人」「神様を信じている人」を試そうとしてくる存在です。実はそれって、信仰の芽生えた人たちにこそ、よく訪れる光景です。「信じて洗礼を受けたなら、あなたもここまでできるよね?」「神様を信頼しているなら、これも忍耐できるよね?」と。

 

そう言えば、イエス様が悪魔の誘惑を受けたのは、ヨハネから洗礼を受けて、聖霊に満たされた直後でした。私たちが教会で洗礼を受けて、信仰を持つようになってすぐ、誘惑が近づいてきます。信仰者になった自分自身を、あるいは同じ信仰者を、もしくは、信仰者を守る神ご自身を、試そうとする態度が現れます。

 

厄介なことに、この「試そうとする態度」は、なかなか、悪魔の誘惑には見えません。むしろ、「神様が何でも可能にすると信じているから」「神様が守ってくれると信じているから」「信仰があるから、やる必要がある」と勘違いさせてくるんです。実際、イエス様を試した悪魔の言葉も、「言われたとおりにしなければ」と思わせてくる内容でした。

 

たとえば、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」……石をパンに変えられないなら、あなたが神の子であるとは認められない。しかし、石をパンに変えたら、人々もあなたを神の子とすぐに認めるだろう。それとも、あなたはやはり神の子ではなく、聖霊に満たされた今も、「石をパンに変えられる」と信じていないんじゃないか?

 

こう聞かれたら、神の子として、聖霊に満たされた者として、石をパンに変えなければと思う方が自然でしょう。そうする方が信じてもらえるし、信仰の証になると思うでしょう。信仰的な理由から、石をパンに変える、正当的な理由があると感じるでしょう。しかし、イエス様は答えます。

 

「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」……それは、神の子でなくても知っている、聖書の言葉の一つでした。神の子であることを証明するため、奇跡を行おうとはしませんでした。奇跡を見せることで、認めさせ、信じさせようとはしませんでした。その試み自体が誘惑だったからです。

 

次に、悪魔はこう言いました。「この国々の一歳の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」……これも、厄介な論法でした。私はこの一帯を任されている。私が権力を振るえているのは、神にその役目を任されているからだ。私に従うことは、神に従うのと同じことだ……。

 

カルト化教会の指導者が、言いそうなことを言ってくる悪魔に、イエス様は答えます。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」……再び、神の子でなくても知っている、聖書の言葉を読み上げます。イエス様は、権力を任されている存在へ「あなたは神ではないし、神のように扱われるべき存在でもない」と、はっきり言いました。

 

最後に、悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせて言いました。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

 

こう聞かれたら、神の子として、神様が自分を守ってくれることを証明しなければと思うでしょう。飛び降りなければ、「やっぱり神様はいないんだろう?」とか「神様が守ってくれると信頼していないんだろう?」と言われてしまうでしょう。信仰的な理由から、危険に身を投じることが、間違っていないように感じるでしょう。

 

しかし、イエス様は答えます。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」……最後まで、神の子でなくても知っている、聖書の言葉を告げるだけでした。神の守りを証明するため、神への信頼を見せるため、自分を危険に晒そうとはしませんでした。その試み自体が誘惑だったからです。

 

やがて、悪魔はあらゆる誘惑を終えて、去っていきます。しかし、イエス様を「試みる者」「試す者」は、この後も次々と出てきます。それは、ファリサイ派や律法学者だけでなく、イエス様に奇跡を要求する群衆や、故郷の人々も含まれました。教会にいる私たち自身も、いつの間にか、信仰者である自分自身を、他の誰かを、試す者になっているかもしれません。

 

この箇所は、イエス様による最初の「悪霊追放」「悪魔祓い」の記事に見えますが、単なる「悪魔祓い」にはなっていません。聖霊に満たされているのに、聖霊の不思議なパワーは一切使わず、十字架や聖水も一切用いず、奇跡も全く行いません。悪魔との闘いらしい闘いはありません。むしろ、勝負を避けています。

 

そう、誘惑を受けたイエス様がしたことは、ただ、試してくる者の試みに乗らなかっただけです。洗礼を受けて、聖霊に満たされた直後のイエス様が、色々な奇跡で対抗するのを期待する私たちに、真逆の対応を示します。私たちが悪魔と気づかず、誘惑と気づかず、試みと気づかずに受けていること、してしまっていることを、悟らせようとしてきます。

 

キリストの復活を記念するイースターまで6週間、神の子であるイエス様を、神の民である仲間たちを、試してしまう罪から離れ、イエス様が答えた神の言葉を味わうことができるように、静かに祈りを合わせましょう。変化と回復をもたらすキリストが、私たちを起こしてくださいますように。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、オンライン賛美歌7番「何も変わらないと(A)」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。(お立ちください)

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください)(お立ちください)

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください)(お立ちください)

 

 

聖句と主題

今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。使徒言行録26:16。

 

年間聖句

起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。

 

年間主題

華陽教会では、今年度「これからの教会を考える」というテーマで、使徒言行録26:16を年間聖句にしています。

 

今週は、日曜礼拝、教会学校、聖書研究祈祷会、オリーブ会、ヒラソルの会の歩みを振り返り、残された課題と来年度の目標を共に立てていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。(初めての方は、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください)

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の3節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌います。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌いましょう。(お立ちください)

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった(ルカによる福音書4:4)

 

祝 福

主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。(詩編121:7〜8)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった19名、同時に視聴された19名、計38名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

来週の日曜日は、感染症対策をした上で、聖餐式を行う予定です。日曜日の礼拝に来られない方々も、訪問聖餐や愛餐式を希望される方は、ぜひ、牧師までお申し出ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。