日曜礼拝 2022年2月13日
案 内
華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝に切り替えています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。(コリントの信徒への手紙一2:7)
讃美歌
マスクをしたままで、旧讃美歌457番「たのしきこえを」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。
お祈り
(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。
◆私たちを創造された神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちを回復される神様。先週も、たくさんの人が傷つき、悩み、疲れてきました。痛みと苦しみに耐えてきました。どうか今、一人一人に必要な癒しと、安心できる時間を与えてください。
◆私たちを慰められる神様。先週も、たくさんの人が間違え、挫折し、諦めてきました。夢や目標が壊されてきました。どうか今、一人一人に必要な力と、新しい気づきをもたらしてください。
◆私たちを励まされる神様。今週も、たくさんの人が不安や恐れを抱えています。自分の生活や人間関係に悩んでいます。どうか今、一人一人にあなたが寄り添い、希望と信頼を見つけさせてください。
◆私たちを送り出される、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。箴言2:1〜9、マルコによる福音書4:1〜9(新共同訳より抜粋)
*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。交読詩編も同様に後からカットしています。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編126:1〜6(新共同訳交読詩編より抜粋)
『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です) |
讃美歌
マスクをしたままで、讃美歌21の281番「大いなる神は」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。
メッセージ
「種を蒔く人」のたとえ話は、聖書の中でも数少ない、イエス様の解説が残されたメッセージです。13節以下で、「種」は「神の言葉」を表し、「種を蒔く人」は「神の言葉を蒔く」いわゆる「伝道者」あるいは「神ご自身」として説明されます。ということは、それぞれの「土地」は「御言葉を受け取る人たちのタイプ」を表すことになるでしょう。
ここまで説明されたら、たとえ話の受け取り方は単純です。神の言葉を蒔かれても、すぐ魔が刺して、御言葉を信じなくなるような人……「良い言葉だ」と喜んで受け取っても嫌なことがあればすぐつまずいて忘れる人……様々な誘惑に邪魔されて、神の言葉を聞かなくなってしまう人……そういう「悪い土地」「悪いタイプ」へならないように、という話。
そして、神の言葉を聞くだけでなく、しっかり受け入れ、何十倍、何百倍にも実を結ぶ「良い土地」として、多くの人を信仰に導く優秀な信徒を目指していこう……そんなふうに受け取った人が多いんじゃないかと思います。ところが、15節から「神の言葉」であった「種」が、いつの間にか「神の言葉を聞く人間」に、置き換わって説明されます。
「道端に蒔かれたもの」とは、悪い存在に唆されて、神の言葉を奪われる者……「石だらけの所に蒔かれたもの」とは、信仰の根がないために、困難が起きると、すぐつまずいてしまう者……「茨の中に蒔かれたもの」とは、思い煩いや欲望が入り込み、神の言葉を聞いても、実践することができない者……食べられ、芽が出ず、枯れていく人たちです。
一方、「良い土地に蒔かれたもの」とは、御言葉を聞いて受け入れる者で、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶと言われています。他の土地に蒔かれた者のように、自分を唆す存在に狙われたり、困難や迫害に遭ったり、思い煩いや誘惑に襲われることがなかった、幸運な人たちです。自分も良い土地、良い環境に蒔かれたいって思いますよね?
解説を読むと、私たち「神の言葉を聞く人間」が、それぞれの性質をもつ「土地」にたとえられているのか、それぞれの環境に置かれる「種」にたとえられているのか、どっちか分からなくなります。別にどっちでもいいじゃないですか? 土地であろうが、種であろうが、「たくさん実を結ぶ者になれ」と言われているのは変わらないし……そう思う人もいるでしょう。
でも、既に気づいた人もいるように、このたとえって、自分がどっちにたとえられているかで、たくさん実を結ぶために、何を促されているのか、捉え方がずいぶん変わってきます。もし、自分が「土地」にたとえられているなら、魔が刺しやすい硬い心を柔らかくし、信仰の根を伸ばせない困難や迫害を取り除き、誘惑や欲望をしっかり避けて、御言葉を受け入れられる「良い土地」になることが求められるでしょう。
でも、困難や迫害って、自分でどうこうできるものではありません。「良い土地」になれるのは、誰かが道端を耕し、石をどかし、茨を刈り取ってくれるからです。みんなから放置された土地は、種だけ蒔かれても、実りをもたらすことはできません。私たちが「土地」にたとえられたとき、実を結ぶかどうかは、信仰者一人の問題ではなく、信仰者を取り巻く共同体の課題になります。
もし、自分が「種」にたとえられているなら、実を結ばない「悪い土地」ではなく、御言葉を受け入れられる「良い土地」へ落ちることが求められるでしょう。でも、自分がどの土地に蒔かれるかは、普通選ぶことができません。住んでいる場所、生まれた時代、周りの環境は、こっちでコントロールできるものじゃないからです。
神の言葉が実らない、迫害や、困難や、思い煩いの多い「悪い土地」へ蒔かれてしまったのは、「種」である自分の責任というより、自分をそんな土地へ落とす「種を蒔く人」の責任にも思えてきます。逆に、たくさん実を結ぶ「良い土地」へ蒔かれた信仰者は、その人が何か頑張ったからというより、運良く、そういう環境へ落とされたからとも思えます。
私たちが「種」にたとえられたとき、実を結ぶかどうかは、信仰者一人の責任ではなく信仰者が選べない環境の問題にもなってきます。どうやら、このたとえは「実を結ばない悪い土地ではなく、実を結ぶ良い土地になれ」とか「悪い土地へ蒔かれる種ではなく、良い土地に蒔かれる種になれ」といった、単純な教訓ではないようです。
むしろ、重要なのは、そのままだったら実を結ばない土地に、種が蒔かれていることです。種を蒔かれた4分の3が実らない土地です。本当に、実を結ぶことを願っているなら、こんな蒔き方ありえません。あり得るとしたら、それらの土地を放置しておくつもりがないときです。
イエス様はこのたとえ話を「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉で締めくくっています。蒔かれただけ、聞くだけだったら、食べられ、芽が出ず、枯れていくと言っているのに、相変わらず、神の言葉を聞かせます。どうも、聞かせるだけで、終わらせる気はないようです。
そういえば、イエス様の言葉を最も近くで聞きながら、イエス様から「退け、サタン」と言われた、御言葉を理解できない弟子がいました。イエス様の言葉を喜んで受け入れながら、嵐に巻き込まれると、すぐに揺らいでしまう弟子がいました。イエス様の教えを聞きながらも、誰が一番偉いかで、喧嘩してしまう弟子がいました。
踏み固められ、石だらけで、茨の伸びている土地を……無防備で、芯のない、誘惑に弱い弟子たちを、イエス様は根気よく耕し、御言葉の種を蒔き続けてきました。そして、彼らもまた、反対者のいる、迫害の多い、欲望に支配された土地へ、遣わされていきました。その土地の名は、コリントであり、ガリラヤであり、ローマであり、ギリシャでした。
実を結ぶはずのない土地へ遣わされた人々は、やっぱりなかなか実を結べずに、食べられ、芽が出ず、枯れていく経験をしました。ところが、そこで死んでしまったと思った種が、何十倍、何百倍にも実を結び、私たちの住む日本にまで至るほど、広がっていきました。実を結べない土地も、実を結ばない種も、神様は放置しておく方じゃないんです。
このたとえ話は、あなたが「良い土地か悪い土地か」「実を結ぶ種か実を結ばない種か」追求して終わるものではありません。誰かに「ダメだ」と言うための話ではありません。むしろ、全ての土地が、全ての人が、放置されないように、神様が種を蒔き続けていることを告げ、イエス様と一緒に、互いを耕すよう、私たちへ促しているんです。
イエス様は、「聞いても無駄だ」とは言いません。「聞いて分からないなら救われない」とも言いません。聞くだけで終わらせる気もありません。イエス様は何度も語ります。「聞く耳のある者は聞きなさい」……私たちに種を蒔き続け、私たちが実を結ぶまで耕しに来る、イエス様の言葉を受け入れましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌23番「わたしの口は絶えず歌う」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の裏面をご覧ください)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)
紹 介
本日も、初めて配信を見に来た方、久しぶりに配信を見られた方と、一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。互いに顔を合わせることはできませんが、礼拝を通してつながっている一人一人に、神様の祝福がありますように。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろから2ページ目をご覧ください。
司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。
司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。
司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。
司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。
司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。
司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。
司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。
司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。
司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。
主の祈り
共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の裏面をご覧ください)
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。
献金の祈り(例)
全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の4節を歌いましょう。
讃美歌
頌栄29番「天のみ民も」を歌いましょう。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。(マルコによる福音書4:22〜23)
祝 福
父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。(テモテへの手紙二1:2より)
報 告
本日も、配信を通して日曜礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅礼拝は、ライブ配信の奉仕者4名、同時に視聴された27名、計31名が参加されました。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。
来週も、配信等による在宅礼拝を行います。教会に集まる礼拝の再開は2週間ごとに検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページ、各SNSの公式アカウントでお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。