ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『眠いし、怖いし、近づけない』 出エジプト記34:29〜35、ルカによる福音書9:28〜36

交換講壇 2023年3月19日

JoeによるPixabayからの画像

 

消 灯

本日は、受難節第4週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を4本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。

 

案 内

華陽教会では、賛美歌中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、日曜日の礼拝も配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。(イザヤ書63:9)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、旧讃美歌52番「主のさかえに」を歌います。諸事情でマスクを付けられない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(差し支えない方は、お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

◆赦しと和解をもたらす神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす、受難節第4週目を迎えました。この一週間も、誰かに頼ること、一緒に悩むことが、上手くできなかったことを悔い改めます。どうか今、私たちに、人と関わる勇気を与えてください。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまで、残り3週間となりました。怪我や病気の治療をされている方も、希望と喜びを分かち合うため、病院から、自宅から祈りを合わせて準備しています。どうか今、一人一人の癒しと回復を導いてください。

◆私たちの神様。今日は名古屋の小牧教会と岐阜の華陽教会で交換講壇を行っています。どうか今、華陽教会でメッセージをしてくださる田中郷史先生と、柳本伸良牧師を迎えてくださる小牧教会の会衆に、豊かな恵みと交流の時がもたらされますように。

◆全ての人をつなげてくださる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。出エジプト記34:29〜35、ルカによる福音書9:28〜36(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

www.bible.or.jp

交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編29:1〜11(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。また、Aのところはピアノ側の会衆で、Bのところはオルガン側の会衆でお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、讃美歌21の285番「高き山の上」を歌います。(お立ちください)

 

メッセージ 

キリストの受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こす「受難節」に入って、4週目を迎えました。残り3週間で、十字架にかかったイエス様が、3日目に復活したことを記念する「イースター」を迎えます。つまり、神の子が捕まって、鞭打たれ、殺されてしまった日を思い出す、受難週の金曜日まで、あと20日を切っています。

 

私たちが日曜日、礼拝で読む聖書の箇所も、だんだんと救い主の死に近づいています。今日読んだ記事の直前には、イエス様が弟子たちに、初めて、自分の死と復活を予告した話が出てきました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 

不思議なことに、これを聞いた弟子たちの反応は、全くと言っていいほど描かれません。他の福音書では「とんでもない」「そんなことがあってはなりません」というふうに、弟子たちの慌てる様子が出てきます。ところが、ルカによる福音書では、イエス様から死と復活を予告されても、弟子たちは一切反応を見せません。

 

「もうじき私は死ぬだろう」と言われたのに、「苦しみを受けて殺される」とまで聞いたのに、弟子たちはイエス様の話を完全にスルーしています。ちょっと冷たく感じますが、仕方ないかもしれません。正面から否定はしないけど「なぜ、そんなこと言うんですか?」と聞くのも怖くてギクシャクしている……そんな葛藤が見えてきます。

 

実際、弟子たちは二度目に、イエス様から死と復活を予告されたとき、その言葉の意味を怖くて尋ねられなかったと9章の後半に出てきます。一回目に、イエス様から死と復活を予告されたときも、ただ聞き流したわけではなく、どういう意味か聞き返すのが、怖くて誰もできなかったんでしょう。

 

八日ほど経ってから、イエス様と一緒に山へ登った、ペトロとヨハネとヤコブの様子からも、弟子たちが、しばらくまともに眠れていなかったことが伝わってきます。なにせ、目の前でイエス様の様子が変わり、真っ白に輝き始め、モーセとエリヤまで現れたにもかかわらず、ペトロたちの方は「ひどく眠かった」と書かれているんです。

 

一瞬で、眠気が吹っ飛びそうな光景を目にしているにもかかわらず、眠らないように、じっとこらえる必要があった……相当眠かったんでしょう。イエス様に死と復活を予告されてから「どういうことだろう?」「先生はいなくなってしまうのか?」と気になって、八日間、ほとんど寝れていなかったのかもしれません。

 

イエス様が、自分たちを置いて、離れ去る未来が告げられたように思われて、これからのことを聞くのも、まともに顔も見ることも、できなくなっていたのかもしれません。まるで、自分の死期を悟った人が、何か話しかけてこようとする度に、その人を避けてしまうようになった、私たちみたいな姿です。

 

気になって夜もちゃんと眠れないのに、話を聞くのが怖い、顔を見るのが怖い、近づくのが怖い……弟子たちは、祈るために山へ連れていかれたときも、まともにやりとりすることができません。「イエス様、山で何を祈るんですか?」「私たちに、何を祈ってほしいんですか?」「この前、あなたが言ったことと関係していますか?」でも、聞いたら、「間もなく私は死ぬことになる」と言われそうで、何も聞けない。気まずい沈黙が続きます。

 

けれども突如、イエス様の顔に異変が起こります。その場で白く輝き始め、今まで、まともに顔を見れなかった弟子たちは、否応なしにイエス様の顔を目にします。そこへ、モーセとエリヤが現れます。今まで会話を避けていた弟子たちは、否応なしに彼らのやりとりを聞くことになります。イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期について。

 

その会話は、決して絶望的な未来の話ではなかったはずです。最初にイエス様が予告したように、これから神様は、イエス様が十字架につけられたあと、三日目に復活させて、みんなと再会させてくださること。死という絶対的な隔たりを壊し、神と人、人と人との和解をもたしてくださること。キリストは、弟子たちのもとから離れ去るのではなく、これからも、世の終わりまで、いつも一緒に居てくださること。

 

けれども、眠くて、怖くて、近づけかった弟子たちは、その話をちゃんと聞けなかったみたいです。ペトロは、自分でも何を言っているのか分からないまま口走ります。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

 

無意識に、イエス様がここからいなくならないように、つなぎとめるものを作ろうとしたのかもしれません。モーセとエリヤが離れていくとき、イエス様もついていって、自分たちから離れ去ってしまうんじゃないかと、怖くなったのかもしれません。

 

イエス様、そのまま行かないでください。どうかここに残ってください。3人の仮小屋を作りますから、私のもとから去らないでください……弟子たちの耳には、「死」という絶望ばかりが大きく聞こえ、「復活」という希望を受けとることが、まだできません。聞く耳があるのに、聞けません。

 

ところが、そのとき、弟子たち自身も大きな雲に覆われて、神様から直接大声で語られます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」……耳を開いて、私の子であるイエスの話を聞きなさい。このあと続くのは、苦しみで終わる結末じゃない。絶望で終わる最後じゃない。神の子が、あなたから離れ去るような未来じゃない。これに聞きなさい。

 

かつて、シナイ山で、神の言葉を受け取ったモーセの顔が輝いたときも、人々は恐れ、近づくことができませんでした。ちょうど、神様との約束を破り、偶像を拝んで怒られた直後、人々は、まともに神様とやりとりすることができませんでした。しかし、神の言葉を受け取ったモーセは、自らみんなへ近づいて、言われたことを伝えます。

 

その言葉は、罪を犯した人たちに対する、絶望的な裁きではありませんでした。もう、神は一緒に居てくれない、あなたたちから離れ去る、という悪い知らせではありません。むしろ、これからも、イスラエルの人々を自分の民として守ること、約束の地へ一緒に入ってくださること、新しく関係を築いていくことが、希望の言葉が、語られました。

 

弟子たちの前で、白く輝いたイエス様も、彼らに絶望ではなく、希望を持たせようとします。聞きなさい。あなたに訪れるのは、私との別れではない。これからも一緒にいるという、新しい契約である。死を超えて、和解をもたらし、関係を癒し、新しい命を与えにくる。だから、私に聞きなさい。私はあなたを見捨てない。

 

教会に居ても、色んな別れを経験します。せっかく教会で育った青年が、新しいところへ出て行ってしまう。洗礼を受けた人たちが、聖書研究に出ていた人が、仕事や、進学や、引っ越しによって、違うところへ行ってしまう。最も辛いのは、愛する人たちが、天へ召されてしまうとき、私たちは、まともに向き合うことが難しくなります。

 

まさに受難です。「そんなことあってはなりません」「行かないで……」と言いたくなります。しかし、教会から誰かが出ていくということは、単なる別れじゃありません。つながりが消えるわけではありません。かつて送り出した青年が、この夏に、小牧教会へ帰ってきて、神の言葉を分かち合ってくれたように、キリストによって結び合わされた私たちは、互いに消えないつながりをもたらされています。

 

別れで、悲しみで、終わらない関係を与えられています。今このとき、誰かとの別れを予感して、誰かとの距離に苦しんで、辛い結末しか想像できない人たちにも、イエス様は訪れます。悲しい知らせを怖がって、顔を背けている人に、耳を傾けられない人に、希望と励ましを受け取れるよう、これまでの出会いを思い出させます。

 

さあ、目を上げて、あの日栄光に包まれた、イエス様の顔を仰ぎ見ましょう。「恐れるな、わたしは必ずあなたと共にいる」と語られた、イエス様の声を聞きましょう。キリストの復活を記念するイースターまで、残り3週間……今日、新たに結ばれた出会いを感謝しつつ、共に祈りを合わせましょう。

 

キリストの復活を記念するイースターまで、残り3週間。今日、新たに結ばれた関係に感謝しつつ、共に祈りを合わせましょう。

 

日々、歩みを共にしてくださいます、私たちの神様。

あなたは今日、私たちが、

御顔を仰ぎ見るように、御声に耳をすますように、御元へ近づくように、

働きかけてくださいます。あなたとまともにやりとりできない私たちを、

新たな関係へと導いてくださいます。

どうか今、全ての人に、あなたの栄光が現されますように。

恐怖ではなく、希望によって、あなたに立ち返ることができますように。

愛と平和の源である、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌17番「祈れない時に」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。(お立ちください)

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください)(お立ちください)

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください)(お立ちください)

 

 

聖句と主題

今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。使徒言行録26:16。

 

年間聖句

起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。

 

年間主題

華陽教会では、今年度「これからの教会を考える」というテーマで、使徒言行録26:16を年間聖句にしています。

 

今週は、岐阜地区の諸教会ために華陽教会ができること、中部教区の中高生・青年・婦人会活動のために華陽教会ができることを考えつつ、来年度の目標を立てていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。(初めての方は、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください)

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の2節を歌いましょう。

 

讃美歌

頌栄の讃美歌26番「グロリア、グロリア、グロリア」を歌いましょう。(お立ちください)

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

今、行きなさい。わたしはあなたを遣わす。(『讃美歌21』93-6-1 出エジプト記3:10より)

 

祝 福

主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし、あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26より)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった 名、同時に視聴された19名、計 名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

本日は交換講壇として、小牧教会で牧師をしている田中郷史先生が華陽教会でメッセージをしてくださいました。名古屋からお越しいただき、本当に感謝致します。柳本牧師は小牧教会でメッセージをしています。

 

去年、夏期派遣神学生を小牧教会、名古屋中央教会、華陽教会の3教会で受け入れたことをきっかけに、こうして新たな交わりが生まれたことを嬉しく思います。これからも、小牧教会の会衆一同と田中郷史先生の上に、神様の祝福が豊かにあるようお祈りしています。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。