ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『監禁されている』フィリピの信徒への手紙1:12〜30

日曜礼拝 2024年10月6日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。(ヨブ記42:3)

 

讃美歌

讃美歌二編の150番「あめなるよろこび」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆愛と平和の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。先週は、午前中にオープン礼拝を行い、午後から礼拝研修会を開くことができました。どうか今、これらの学びが活かされて、会衆一人一人の喜びが増し、華陽教会の礼拝が、より豊かにされますように。

◆私たちの神様。新しくなった教会の設備に嬉しさが募る一方で、修理や修繕が必要なところも出てきました。どうか今、会衆に大きな負担がかからないように、会堂の設備を整えられるよう、私たちに知恵と力をもたらしてください。

◆私たちの神様。今日はこの後、午後2時半から在日大韓基督教会で、宣教協約40周年を記念して、岐阜地区の合同礼拝が開かれます。どうか今、在日大韓基督教会と日本基督教団の諸教会との交流が、より豊かにされますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。フィリピの信徒への手紙1:12〜30(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編73:21~28(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の355番「主をほめよ わが心」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

Free Fun ArtによるPixabayからの画像

メッセージ

 監禁されている……穏やかじゃないタイトルですが、実際に、フィリピの信徒への手紙を書いた宣教者パウロは、キリスト教を述べ伝えていたゆえに、何度か投獄されました。使徒言行録では、パウロがカイサリアで投獄され、ローマで自宅に軟禁された出来事が記されています。もしかしたら、他にも監禁された時期や場所があったかもしれません。

 フィリピの信徒への手紙が、いつ、どこの国で書かれたのかははっきりしませんが、パウロが牢屋に囚われていたとき、獄中から書き送られた手紙として残されています。普通は、無実の罪で犯罪者として捕まったら、自分がどんな目に遭っているか、どんな助けを必要としているか、外の人たちへ必死に訴える文書になるでしょう。

 ところが、この手紙の冒頭に出て来るのは、神への感謝と、フィリピの信徒のための執り成しです。今回、皆さんと読んだ12節以下も、助けてほしいこと、困っていることの訴えではなく、むしろ、牢獄の外へいる人たちを励ます言葉が語られていました。本来、逆ですよね? 外にいる人間が、監禁されている人間を励まそうとするのが自然です。

 しかし、パウロが告げるのは、自分の状況を嘆く言葉でも、同情を引く言葉でもなく、何が希望かを説明している言葉です。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」

 これも不思議な話ですよね。福音の前進、イエス様の教えと業、キリスト教の良い知らせを伝えようとする働きは、伝道者が監禁されたら、普通はストップするはずです。牧師が投獄されて、教会の礼拝に出られない。宣教師が捕まって、宣教旅行が中止になる……当然、信徒や他の伝道師も、途方に暮れてしまいます。

 どうやって、礼拝を続けたらいいだろう? どうやって、教会を回したらいいだろう? 新しい人への伝道なんて、考えていられないでしょう。さらに、監禁されてしまったのがキリストのためであるならば、自分たちもキリスト教を広めようとしていたら、同じように捕まってしまうのでないか? そんな恐れも出てきます。

 そう、パウロが監禁されているのは「キリストのため」「伝道のため」と知られたら、かえって、パウロと同じ使命を担う人が減っていくように思えます。「見てください、私はこういうことをして捕まりました!」って言われたら「じゃあ、同じことをして捕まらないようにしよう」って考えるのが普通ですから。

 イエス様を信じて伝道したら、ああいうふうに捕まってしまう。神様に守ってもらえるどころか、自由を奪われ、監禁されてしまう。そんなものを信じて何になるのか? そんなことをして何になるのか? どんどん不審に思われるでしょう。ところが、パウロが捕まったのを見て、しかも、キリストのために捕えられているのを見て、キリスト教から離れるどころか、確信を得た人たちが出てきます。

 しかも、逮捕を恐れて隠れるどころか、恐れることなく、ますます勇敢に、御言葉を、神様の教えと業を語るようになっていく……にわかに信じがたいことです。信じがたいことですが、私はフィリピの人たちがパウロから受けたのと似たような励ましを、この華陽教会で受けたことがあります。

 ちょうど昨日、夜中に電話がありました。急遽、病気のために、入院することになり、またしばらく、外へ出ることが、教会へ行くことが、できなくなるという知らせでした。その方は、長年、華陽教会の信徒をしておられる方で、何度も怪我をしたり、病気になったり、入退院を繰り返してきた信徒の方です。

 首と頭を固定されて、寝たきりになっていた時期も、神経の痛みでほとんど寝られず、礼拝中に倒れてしまったこともありました。転んで腰の骨を折り、もう歩けなくなったかと思ったら、車椅子から歩行器になって、教会へ出てきたこともありました。もう、何度もそういう光景を見ているので、皆さんも誰のことか何となく分かると思います。

 入院して、日曜日に教会へ行けなくなるとき、その人から電話がかかります。その知らせは、どう考えても、悲惨な報告です。また、自由がなくなります。また、外へ出られなくなります。しばらく教会のみんなと会えません。それなのに、この人が、電話で自分の状況を伝えるとき、励ましの言葉を探している私の方が、いつも励まされているんです。

 何で、辛い状況のはずなのに、こんなに希望を持って話せるんだろう? 何で、自由が奪われた状況なのに、悲しく聞こえないんだろう? 何で、繰り返し酷い目に遭っているこの人が、神様と共に歩んでいると、神様に守られていると、確信できてしまうんだろう?華陽教会に長いこといる方は、たぶん同じ励ましをこの人から受け取ってきたと思います。

 本人は、自分が入院するとき、動けなくなったとき、外へ出られなくなったときの報告を聞いて、私たちが、神様の力と励ましを感じているなんて、思っていないかもしれません。実際、何で確信を得られるのか、よく分からないんです。酷い目に遭っているのに、神様がこの人を守っている、この人と私たちを結んでいる。なぜかそう思わされてしまう。

 病院から出られないにもかかわらず、自由に出られないにもかかわらず、この人の祈りは自由に神様を証ししてきました。誰が見ても、不自由な体でありながら、その体を、神様が支え、導き、用いてきたことを証しします。体の中に、建物の中に、閉じ込められないキリストの業が、私たちの間に広がっていきます。

 しかも、一人じゃないんです。そういう人が、天に召された人も含めて、すぐ何人も頭に浮かんできます。不思議じゃないですか? 監禁されたり、病気になったり、怪我を負ったり、幾度も苦しみを受けてきた人たちが、その苦しみによって、私たちをキリストから遠ざけるどころか、キリストが共にいてくださる確信と救いを得させてきた。

 30節でパウロはこういう言葉を残しています。「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」私も知っています。パウロと同じ戦いを戦っている人たちを。自由を奪われながらも、自由に戦っている人たちを。教会へ出てこられない人たちが、むしろ教会へ来ている人を励ましていることを。

 だから、私もいつか、自分の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってもらえるように、皆さんのことを繰り返し思い出したいと思います。信じて、苦しみに遭っていることが恥ではなく、むしろ喜びであることを気づかせてくれた方々に、神様の癒しと、恵みと、励ましが、これからもありますように。

 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌9番「たくさん悩んでみたけれど」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖 餐[1]

御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。パンとグラスを取る際は、必ず自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願い致します。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)

 

主の食卓への招き

兄弟姉妹、今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」

 

また、食事の席で、主は約束されました。「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」

 

主は、弱っている者を励まし、閉じこもっている者を力づけ、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない者、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)

 

オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、この場にいる人のために、神の祝福を祈りましょう。

 

(パンを手に取る)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を手に取る)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この食事を見ている全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちが御子の体の手足であること、御国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

憐れみ深い神様。私たちの生活の一部をおささげします。どうか、これらの献金を困っている人のため、信仰生活を支えるため、教会の働きを続けるために用いてください。人と人との間におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。(フィリピの信徒への手紙1:30)

 

祝 福

主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。(詩編121:7~8)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった17名、同時に視聴された14名、計31名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

また、午後から行われた礼拝研修会も10名の方がご参加くださいました。ありがとうございます。本日も、昼食を挟んで、午後から在日大韓基督教会岐阜教会で、岐阜地区合同礼拝が開かれるので、お時間のある方はぜひ、一緒に伺いたいと思います。

 

なお、今週の水曜日の聖書研究祈祷会は、諸事情のため、いつもより30分早く、午後1時半から行い、1時半に終了して、分かち合いはお休みします。突然のご迷惑かけますが、どうぞよろしくお願いします。来週からは、またいつもどおりの時間です。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。

 

[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。