日曜礼拝 2026年9月6日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(ガラテヤの信徒への手紙1:4)
讃美歌
旧讃美歌532番「ひとたびは死にし身も」を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆力の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。病気や怪我、障害や衰えで苦しんでいる人たちを顧み、喜びと安らぎをもたらしてください。痛み、悲しみ、疲れ、寂しさに覆われた人たちを慰めてください。どうか今、あなたの御手を差し伸べて、回復と希望をお与えください。
◆私たちの神様。私たちの隣に、前に、後ろにいる人が、口にできない不安、周りに理解されないしんどさを抱えているとき、その人の心を支えてください。どうか今、気づくべきこと、行うべきことを私たちにも示してください。
◆私たちの神様。この礼拝によって、私たちを新しくしてください。あなたから受けた恵みと慰め、希望と励ましを、他の人にも分けさせてください。どうか今、身近な人、助けが必要な人のために、私たちを派遣し、用いてください。
◆一人一人を送り出される、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。ガラテヤの信徒への手紙1:6〜10の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書342頁です。
同じく、ガラテヤの信徒への手紙1:6〜10の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書336頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編119:73〜80、新共同訳交読詩編の139頁です。
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『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。)ご着席のままで大丈夫です。 |
讃美歌
讃美歌21の513番「主は命を」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

メッセージ
キリスト教用語の一つに「福音」という言葉があります。福音とは「良い知らせ」という意味で「神の子であるイエス・キリストの教えと業」を指しています。イエス・キリストの教えとは「神の国」「救いの完成する日」が近づいていること、その神の国へ受け入れられる者として、神様を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合いなさいというものでした。
また、イエス・キリストの為さった業とは、全ての人が罪を赦され、神の国へ受け入れてもらえるように、自らの命をささげて十字架にかかったこと、死んでから3日目に復活して、「信じない者」を「信じる者」に、ご自分を「見捨てた者」を「従う者」に変化させ新しい生き方を与えてくださったことでした。
イエス様が与えた「新しい生き方」とは、自分自身も、イエス様によって罪を赦され、神の国へ受け入れられていることを信じ、他の人にも「イエス様はあなたのことを愛している」「あなたのことを救ってくださる」と告げ知らせていくことです。朽ちることのない神の国に、迎えられるその日まで、希望を分かち合い、互いに愛し合うことです。
ところが、その福音とは異なる何か……「ほかの福音」を告げ知らせている者がいるとガラテヤの信徒への手紙に出てきます。この手紙を書いたのは、復活したイエス様の幻と出会い、もともと異教の神々を拝んでいた異邦人にも「良い知らせ」「福音」を告げ知らせるようになった、宣教者パウロという人物でした。
キリスト教をユダヤ人だけでなく、諸国の民にも伝えていった世界宣教の第一人者……そのパウロが、外国の教会へ送った手紙に、衝撃的な言葉が出てきます。「わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」「あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」
なんと2回も「呪われるがよい」という言葉が繰り返されています。「隣人を自分のように愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」と、イエス様から教えられたクリスチャンが、しかも、教会指導者である使徒の一人が、そのような言葉を吐き出すなんて、幻滅されるかもしれません。
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というイエス様の教えからも、かけ離れた態度です。パウロはなぜ、こんなにも取り乱すほど怒ったんでしょう? いったい誰に対し、「呪われるべき」と言ったんでしょう? どうやら、その相手が、イエス様とその弟子たちが伝えた、良い知らせとは異なる「ほかの福音」を告げ知らせていた者のようです。
どうも、パウロの言っていることは本当の福音じゃない、あの男は『律法なんか守らなくても良い』と言って、異邦人や弱い人々に取り入ろうとしている……そうやって攻撃する者がいたようです。彼らはこう主張します。神様を信じるなら、割礼を受けなければならない。食物規定や暦の定めを守らなければならない。そうやって、律法を遵守しなければ、神の国に受け入れられることはない……と。
ある意味「ただ、信じることで救われる」というフワッとした教えよりも、納得しやすいかもしれません。神の民として選ばれた人たちが、先祖代々受け継いできたルールも守らないで、神の子として受け入れられるわけがない。もし、信じるだけで受け入れられると言うなら、なぜ守るべき掟が与えられているのか? 掟があるのに、いい加減にする方が間違っている!
言われてみればそんな気もします。パウロは「律法やユダヤ人の慣習に従わなくても、イエス様を信じる信仰によって救われる」と語りましたが、律法も神の言葉として記された旧約聖書の一部です。何をどこまでやるべきか、どこまでやってはいけないか、はっきり書いてあることを守る方が、神の僕にふさわしい気がしてきます。パウロは掟を守りたくない人たちの心を掴むため、耳触りの良い言葉を勝手に語ったんでしょうか?
しかし、混乱している信徒たちに、パウロが手紙の冒頭で書いたのは、明らかに耳触りの良くない言葉でした。通常、パウロの手紙は、最初に教会の人々への感謝の挨拶が述べられますが、この手紙では、いきなり本題に入ります。「わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」
もうこれを読んだ瞬間、誰かに取り入ろうとしている態度ではないことが分かります。むしろ、ギョッとさせ、怖がらせ、敬遠させてしまうような、非常にショッキングな言葉です。人に取り入ろうとしているのでも、気に入ってもらおうとしているのでもない。私の教えに反対する者、私の教えと異なる教えを告げる者は、呪われるがよい……けっこう強力な脅し文句ですよね?
私たちは呪われたくありません。というか、「自分は呪われてもいい」と思っている人はまず、いないと思います。それは、パウロに反対した偽教師たちもそうでした。おそらく彼らがパウロに反対したのは、律法を守らなければ、かえって神様に呪われてしまうんじゃないかと、怖かったからだと思うんです。
申命記28章には、こんな言葉が出てきます。「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう……しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」と。
そして、町にいようが野にいようが、どこにいようと神様の呪いからは逃れられないこと、生まれる子にも、所有する土地や財産にも、徹底的に災難が降りかかることが語られます。そんな恐ろしい目に遭いたくはありません。ところが厄介なことに、呪いというのは目に見えません。身に降りかかった不幸が呪いなのかそうでないのか、理由は何なのか、人間には直接知ることができません。
だからこそ、私たちは目に見える基準、自分たちの納得できる線引きで、呪われるか呪われないかを判断したくなるんです。こうすれば呪われない、ここまでしなきゃ呪われない……そんな都合の良いライン。私たちは、無意識に自分の中で引いたラインを優先し、神様が私にどうして欲しいと思ったのか、なぜその律法を与えたのか、考えなくなります。とにかくこれを守ればいい、周りがやってきたとおりにすればいいと。
そうすれば、自分は安全圏だと思いたくなります。実は、「律法を守って救われよう」というパウロに反する考えは、旧約の預言者たちが批判した、偶像礼拝や異教の習慣にとてもよく似ていました。口寄せや占い、呪術によって命じられる行為は、愛の実践に比べれば、何をどこまでやればいいのか、ずっと分かりやすいことだったからです。
今だってそうですよね? 「これを供えて先祖を供養するように」「住んでいる所を別の方角へ移すように」「今持っているこれとこれを捨てるように」あるいは、「これとこれを身につけるように」「家の玄関に置くように」……それらを実行さえすれば、自分の生き方をわざわざ問わずとも、不安が拭われ、呪いから解放されたと安心感が得られます。
どうすれば救われるかはっきりしている「良い知らせ」のように感じられます。当時、パウロの教えを邪魔した偽教師たちも、神様の怒りを恐れ、呪いから解放されたいがために、律法の遵守を勧めました。この戒めを守っていれば、神の怒りは降りかからない。この掟に従っていれば、神から呪いを受けずに済み、神の民として認められる……そうやって、分かりやすいラインを提供し、人々に取り入ろうとしていました。
しかしそれは反対に、既に与えられた呪いからの解放を受け入れない態度でした。神様は、本来なら呪われるべき存在、繰り返し良心に背いてしまう人間が、誰一人滅びることのないように、独り子であるイエス様を遣わしました。イエス様は、全ての人が受けるべき罪の罰を代わりに引き受け、十字架にかかってくださいました。私たちが受けるはずの呪いを、全て解消してくださったんです。
ヨハネによる福音書にもこう書いてあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」にもかかわらず、「律法を守らなければ、神の民にはなれません」「これをしなければ、あれをしなければ、救われない」と教えることは、神の愛、キリストの愛を受け入れないのに等しい行為でした。
イエス様が、全ての人を呪いの恐怖から解放してくださったのに、それが信じられない……自分たちはまだ、神様から呪われる存在だと思っている……実は、パウロに反対する偽教師たちこそ、呪いから解放されていませんでした。自分の中で引いたライン、「ここまでやらなければいけない」「これをやってしまえばアウト」という規範、それらに捕われたままでした。
言わば、自分が神様に何を求められているのか、考えることを放棄した状態です。そこに陥った人々へ、パウロは二度もこう言います。「呪われるがよい」……これは直訳すると「アナテマがあるように」という不思議な言葉になります。アナテマというのは、もともと「神様への供え物」「献げ物」を指す言葉でした。
それが、「神々の手に委ねられたもの」「神々の復讐に任せられたもの」という意味へ変化し、最終的に「呪い」や「呪われたもの」を意味するようになったんです。パウロは、この言葉を用いるとき、旧約聖書に出てくる「滅ぼし尽くして献げるべきもの」を意識していました。
言わば、神様に背き、神様の意志によって滅ぼされるべき人間のことです。ある意味、「呪われるがよい」という言葉は「神様に献げられてしまえ」という言葉にも聞こえてきます。パウロは、自分が一生懸命教えたことを台無しにした人々へ、怒りに任せてこう言ったのかもしれません。お前たちなんか滅びてしまえ、くらいの勢いだったと思います。
ただ、私はこの言葉を、単なる呪いの言葉で終わらせたくないんです。パウロの感情とは別のところで、滅ぶべき人間が、人生を神様に献げる者へと変えられる……そのことが表されたメッセージでもあった……そんなふうに感じるんです。というのも、パウロだって、復活したイエス様の幻と出会う前は、イエス様が教えた良い知らせとは別の「ほかの福音」を信じて守ろうとした人間でした。
神の掟である律法を守らなければ、神の民にはなり得ない……律法を遵守できない異邦人は滅ぼされる……そのように信じて、イエス様を神の子と信じる人々を捕らえ、訴え、処刑して回る迫害者でした。しかし、そんなパウロにイエス様は自ら訪れ「なぜわたしを迫害するのか」と語りかけ、信じない者ではなく信じる者となるように、新しく自分に従う者となるように、宣教の使命を与えます。
彼もまた、アナテマ(神の手に委ねられた者)でした……本来は、神の子を信じないで神様に背いた者として裁きを受け、滅ぼされるべき人間でした。しかし、神様は、パウロを呪われた者のまま、滅びていくままにさせません。新しくイエス様と出会わせ、自らの生き方を神様への供え物とする、新しい命を与えました。
そう、「ほかの福音」を告げ知らせている、偽教師たちを呪う言葉は、その者に、滅びを宣告して終わるのではなく、その者の生き方を「呪われるべきもの」から「神に喜ばれる生けるいけにえ」として献げられるものに変えていく、「新しい命」をもたらす言葉になったんです。
キリストを見捨てて、最後まで従えなかった弟子たちが、復活したキリストから「わたしに従いなさい」と新たに弟子として迎えられたように、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が救われる者に、悲しむ者が喜ぶ者に変えられるよう、今も、聖書は良い知らせを私たちに語っています。
だから、あなたも「ほかの福音」ではなく、わたしたちがあなたに告げ知らせた福音を受け取ってください。はっきりしたもの、分かりやすいものに飛びつくのではなく、あなたに救いをもたらす神の愛、キリストの愛を受け入れてください。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」……アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌24番「イェスは今日あなたを」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4A、あるいは、オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り
イエス様が教えられた、『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A、あるいは、オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖 餐[1]
御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。パンとグラスを取る際は、自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願いします。
讃美歌
最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)
主の食卓への招き
ようこそいらっしゃいました。今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」
また、食事の席で、主は約束されました。「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」
主は、弱っている者を励まし、閉じこもっている者を力づけ、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない者、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。
感謝と聖別の祈り
世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。
主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。
私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。アーメン。
陪 餐
ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。
まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)
オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、ここへ招かれた人のために、神の祝福を祈りましょう。
(パンを手に取る)
これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命をささげられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。
パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。
「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」
「アーメン」
食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。
(杯を手に取る)
これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。
杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。
「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」
「アーメン」
飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。
陪餐後の感謝
共に、感謝の祈りをささげましょう。
愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この場に連なる全ての者を結び合わせてくださいました。
あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちがキリストの体の手足であること、神の国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。
以上で、聖餐式を終わります。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌15番「わたしたちは旅人」を歌いましょう。(差し支えない方はお立ちください)

祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。一同で「アーメン」と唱和した後、私が手を合わせますので、ご着席なさる方は、そのタイミングでご着席ください……派遣の言葉。
派 遣
平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。(讃美歌21の93-6-6)
祝 福
わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(ガラテヤの信徒への手紙1:3)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった21名、同時に視聴された16名、計37名の方が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜日は、『惜しまず施せ?』と題して、コリントの信徒への手紙二9:6〜15のお話をする予定です。水曜日の聖書研究祈祷会は、『天使に渡された巻物(ヨハネの黙示録⑱)』と題して、ヨハネの黙示録10:1〜11のお話をする予定です。
次回もぜひ、祈りを合わせてご参加ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。
[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。