日曜礼拝 2025年9月7日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。(ハバクク書3:18)
讃美歌
旧讃美歌503番「はるのあした」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆憐れみ深い神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。夏休みが終わって、新学期が始まった子どもたちに、あなたの祝福が豊かにありますように。どうか今、幼稚園や学校へ行けなくなっている子どもたちにも、安心できる居場所と、信頼できる人との関係がもたらされますように。
◆私たちの神様。今日は、隠退教師の鈴木重正先生が各務原教会のメッセージ奉仕へ伺っています。どうか今、先生の働きが導かれ、各務原教会の会衆が守られ、川上侑先生もしっかりと休みを取ることができますように。
◆私たちの神様。心身の調子を崩している人、治療中の人、療養している人に、あなたの癒しと回復が豊かにもたらされますように。特に、教会へ行けないこと、奉仕に参加できないことで自信を失っている人に、あなたの助けと励ましが豊かにありますように。
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。ローマの信徒への手紙8:18〜25の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書284頁です。
同じく、ローマの信徒への手紙8:18〜25の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書279頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながら、お聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編90:1〜12、新共同訳交読詩編の104頁です。
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『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の527番「み神のみわざは」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

メッセージ
「見えるものに対する希望は希望ではありません」……不思議な言葉が、ローマの信徒への手紙8章24節に出てきました。新しい翻訳の聖書協会共同訳では、同じところを、「現に見ている希望は希望ではありません」と訳しています。こう言われると、苦しい現実の中で「現に」「今」希望を見出している人たちを、否定する言葉にも聞こえてきます。
皆さんは、どういうときに希望を持てるでしょう? 絶体絶命のピンチで、助けに来てくれる人が「見えた」とき……辛く苦しかった日々に、終わりが「見えた」とき……変わらないと思っていた状況に、変化の兆しが「見えた」とき……私たちは見えるものに希望を抱きます。
もうすぐ助けがやって来る、苦しみに終わりがやって来る、新しい変化が訪れる!……そのように信じることができるのは、「現に」「今」見ているものがあるからです。今まで見えなかったもの、「誰かの応援」や「解決策」「共に闘う仲間」が見えて、絶望の淵から這い上がれたという人は、きっと少なくないでしょう。
けれども、「現に」「今」見えないもの、見ていないものへの希望こそ、本当の希望だと手紙の著者は語ります。助けが見えず、終わりが見えず、変化が見えない状況で、目に見えない助けを、終わりを、変化を忍耐して待ち望む……それこそが、本当の希望になると言われます。
まさに、見えない神様への希望です。いつ成就するのか分からない「救いの約束」への信頼です。しかも、聖書では、「わたしたちはこのような希望によって救われている」と語られます。「将来」救われるだけでなく、「今」「既に」救われていると言われます。それだけ、神様が私たちを救うという約束は、確実なことなんだと……。
けれども、神様を信じることで、自分は救われたと、すぐに実感できる人は、そんなにいないと思います。「すぐに」どころか何年経っても、本当に救われるか不安になってしまう……救いから漏れるんじゃないかと恐ろしくなってしまう……そういう人たちの方が、信徒の中でも圧倒的に多いと思います。
だって、洗礼を受けていても、教会へ行かなくなったり、聖書を読まなくなったり、神様のことを考えないで過ごす時間が、長くなっていくこともあります。習慣として、毎週聖書を読んでいるけど、礼拝の配信を見ているけど、自分の中で、神様を信じる気持ちが薄くなったり、信じられなくなったりする瞬間が、一つ、また一つと出てきます。
これで本当に救われるんだろうか? 信じる前の自分と、そんなに変わらなくなっていないか? むしろ、信じる前より悪くなってないか? こういう不安って、正直、牧師にもあります。信じている人間同士で起こる争い、牧師の間で起きる対立、自分自身がやるとは思えなかった過ち……そういうものを経験する中で、救いが信じられなくなる。
キリスト教の救いって、永遠の命とか、神の国に入るとか、丁寧に話すと長くなりますが、いずれも「神の赦し」とつながっています。自分がやってしまったこと、やらないでしまったこと、壊してしまったもの、回復できなかったもの、そういった、自分の力じゃどうにもできないものを暴かれたとき、果たして赦されるのか? 救ってもらえるのか?
まさに今、自分の過ちを顧みて、神様を信じているものの、やっぱり、救われていると思えない、救いを得られたと思えない人たちがいるでしょう。だって、病気が治らない、家族の仲が良くならない、生活は苦しくなっていて、助けてくれる人も現れない……信じたけれど、信じているけど、自分は救われる人間ではないのかもしれない。
実はまだ、神様に赦されてないのかもしれない。反省が、悔い改めが、足りないと言われているんじゃないか? 信仰が、優しさが、誠実さが足りないから、救われていい者に含まれてないんじゃないか? 救われている人は、何かしらの自覚があるに違いない。何かしらの「見えるしるし」が与えられるに違いない。きっと、そういう人たちは、奇跡を体験し、自信に満ち溢れ、心に余裕ができている……そんなイメージかもしれません。
ある人は、苦しい状況でも耐えられる、平気で居られるように映ります。環境としては非常に困難な状況にいるのに、それでも平安で、何とかなっているように思えます。あの人は救われているんだろう。そういう強さが与えられているんだろう。でも自分は、耐えることも、平気でいることもできないから、救われていないんだろう。
神の国に入ることも、永遠の命を受けることも、まだ難しいのかもしれない。既にそれらを与えられているとは言えないかもしれない。私には、確信も実感も希薄だから、救われている信仰者という自信が持てない……実際、私たちの現状は、パウロの言うことともギャップがあります。彼はこう言いました。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」
いやいやパウロさん、信仰者が激しい迫害を受けていた時代に比べて、私たちのいる世界はずっと優しい方かもしれませんが、それでも私は、自分の受けている苦しみが「取るに足らない」とは思えません。自分が神の子とされる、救ってもらえるという確信も揺らいでいます。あなたの言う「滅びへの隷属」状態に、私はまだ、いるような気がします。
教会で、「あなたはもう救われています」「既に救いにあずかっています」と言われて、「確かにそうです」と頷ける人が、どのくらいいるでしょう? とりあえず、信仰を告白したら、「自分は救われている」と言わなきゃおかしいし、そう言わなきゃいけないと思って、ちょっと自信はないけれど、「私は救われています」と口にする人もいるでしょう。
だけど、誰かが救いの確信を口にするのを見ていると、羨ましくなってしまう。本当はあそこまで確信がない。本当は今も信じきれない。自分が「赦された人間」と言っていいのか、「わたしは救われる」と思っていいのか、ずっと自信が持てないでいる……そんな人たちに思い出してほしいんです。
パウロから繰り返し、救いについて語られた初代教会の人たちも、やっぱり不安だったんだと……ローマでも、コリントでも、ガリラヤでも、本当に救われていると言っていいのか、神様に赦されていると言っていいのか、不安になるような人たちがたくさんいて、パウロから、このように言われてきたんだと。
貧しい人をかえりみない、未亡人や孤児を大事にし切れない、生活スタイルの違いで口汚く罵り合い、簡単に分裂へと発展する……どう見ても微妙な、未熟な人たちに、パウロは赦しと栄光を語りました。神様はあなたを自分の子とし、あなたを滅びから救われる。だから、互いに愛し合いなさい。
おそらく、信仰を告白した時点で、救いの確信をはっきりと持っていた人間は、私たちがイメージするほど、昔もいなかったんじゃないかと思います。聖書に出てくる初代教会の人たちの姿は、まさに揺れ動く民です。どんな困難にも耐えられる、平気で居られる人たちだったとは言えません。彼らも揺れながら、問いかけながら歩んできました。
希望に満ちた、喜びに満ちた会衆というより、心の中でうめきながら、救いを待ち望んでいる人たちでした。救いの確信が、実感が持てなければ……はっきりした希望が見えてなければ……救われないんじゃないか? という不安に襲われている人は、安心してください。神様が助けた人たちは、そんな確信持てなかった人の方が多かったんです。
はっきりと確信を持てなくても、奇跡を実感できなくても、神様を見ることができなくても、神様があなたにもたらす救いは、決して揺らぐことはありません。それは、旧約に記された時代から、何人もの人が、疑い、迷い、平気で居られない人生を送りながらも、神様に迎えられ、受け入れられたことを証している、この聖書が示しています。
自分に自信を持てなくても、神様はあなたを離しません。救われていると思えない一人一人が、心から信じることができるその日まで、神様は付き合い続けます。あなたに必要な変化をもたらし、あなたが期待さえできなかった、新しい道を歩ませます。今、私たちの目に見えない希望を、確かなものとして受け取ることができますように。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌5番「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖 餐[1]
御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。パンとグラスを取る際は、自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願いします。
讃美歌
最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)
主の食卓への招き
ようこそいらっしゃいました。今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」
また、食事の席で、主は約束されました。「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」
主は、弱っている者を励まし、閉じこもっている者を力づけ、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない者、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。
感謝と聖別の祈り
世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。
主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。
私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。アーメン。
陪 餐
ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。
まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)
オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、ここへ招かれた人のために、神の祝福を祈りましょう。
(パンを手に取る)
これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命をささげられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。
パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。
「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」
「アーメン」
食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。
(杯を手に取る)
これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。
杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。
「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」
「アーメン」
飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。
陪餐後の感謝
共に、感謝の祈りをささげましょう。
愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この場に連なる全ての者を結び合わせてくださいました。
あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちがキリストの体の手足であること、神の国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。
以上で、聖餐式を終わります。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
主なる神様、今日の礼拝で受けた恵みに感謝します。今、一人一人がささげてくれた献金を誠実に用いることができますように。あなたの平和が実現し、あなたの栄光が現され、あなたの御名が、ますます豊かにほめたたえられますように。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。
讃美歌
讃美歌21の24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。(差し支えない方は、お立ちください)
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ローマの信徒への手紙8:25)
祝 福
平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。(ローマの信徒への手紙15:33)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった21名、同時に視聴された14名、計35名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜礼拝は『死者の復活』と題して、コリントの信徒への手紙一15:35〜52のお話をする予定です。水曜日の聖書研究祈祷会では『復活とは何なのか?』と題して、ルカによる福音書15:11〜24のお話をします。
次回もぜひ、祈りを合わせてご参加ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。
[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。