ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神様が苦しむ?』 ヘブライ人への手紙2:10〜18

聖書研究祈祷会 2019年3月20日

 

f:id:bokushiblog:20190320153458j:plain

【この人に助けを求める?】

 押しつぶされ、辱められ、傷つけられ、どうにも這い上がれないとき、私たちは神様に助けを求めます。自分のもとへ急いで駆けつけ、全力で脅威から守り、優しくこの身を癒してくれる誰かに来てほしいと願います。

 

 その時に、私たちが思い浮かべる救い主、自分を助ける力を持ったヒーローはどんな存在でしょう?

 

 傷ついた自分を抱き起こし、「もう大丈夫だ」と声をかけ、力強い反撃を開始する。安心してその身を預けられる丈夫で頼もしい存在。テレビや小説のヒーローなら、そういった人が出てくるでしょう。

 

 しかし、教会に来て「これがあなたのヒーローです」と見せられるのは、十字架にかかって血を流し、苦悶の表情を浮かべている誰かです。カトリック教会に行けば、分かりやすく礼拝堂の真ん前に、この人の姿が飾ってあります。

 

 その名はイエス・キリスト。身体中鞭打たれ、今にも倒れそうな人。裸で貼り付けにされ、兵士にからかわれてる人。死に際に、自分を見捨てた父なる神へ、悲痛な叫び声をあげた人。

 

 「これが私たちのヒーローです。この方があなたを救ってくれます」……司祭や牧師にこう言われ、思わず戸惑いを口にします。「いやいや、傷だらけで裸に近いこの人に、私が救えるなんてどうかしています」と。

 

 当たり前です。普通多くの人を救ったヒーローは、剣を持ち、武具をつけ、敵を討ち取るたくましい姿を記憶されます。

 

 けれども、聖書に書いてあるヒーローは、その精神的・肉体的強さより、彼が受けた苦しみの方を強調されます。救い主が、神の子が、これでもかというほど追い詰められ、ボコボコにされ、情けない姿を晒される。

 

 皆の前で殺された後、復活して大逆転が始まるのかと思いきや、彼を殺し、十字架につけた人たちを懲らしめる話は出てこない。彼の手足には傷跡が残り、見る度に痛々しい記憶がよみがえる。

 

 なぜ、救い主の痛みと苦しみが、これほどまでに強調されるんでしょう? なぜ、頭に荊を押し付けられ、顔を歪めて血を流す人が、私たちを救うなんて言うんでしょう?

 

 この奇妙な話について、ヘブライ人への手紙は3つのイメージを使って、私たちに語り始めます。

 

【神話的英雄として】

 一つ目に出てくるのは、神話的英雄としてのヒーロー像です。イエス様は、まるでギリシャ神話のヘラクレスのように、この世から死の世界へと下っていきます。

 

 死の力を打ち負かし、その世界に閉じ込められた人々を救出するためです。言わば、敵陣へ特攻する血まみれの英雄として。

 

 10節では、この救いの「創始者」が、数々の苦しみを通して完全な者とされたのは「ふさわしい」ことだったと書かれています。ちなみに「創始者」というのは幅広い翻訳ができる単語で、「英雄」や「闘士」という言葉にも訳せます。

 

 言い換えれば、「英雄が数々の苦しみを受けたのは、ふさわしいことだった!」

 

 相当皮肉な表現です。ブラック・ユーモアと言ってもいいでしょう。神の子が単身で死の世界へ特攻し、痛みの中で血まみれになって苦しんでいる。

 

 この馬鹿げた考えを指して、およそ「ふさわしい」などと言う人は、ギリシャ神話に精通するユダヤ人でも、ほとんどいなかったに違いありません。

 

 だって、神話に出てくるような英雄が、神の力を有したままで、自分を捕えて縛る相手に無抵抗……犯罪をでっち上げられ、99回も鞭打たれ、十字架を担ぐ際にはその重さに耐えきれないほど弱っている。

 

 このニュースに対して、神の子として、英雄として、ふさわしいと反応する人は、おそらくいないでしょう。

 

 人間と同じように痛み、呻き、泣いて叫ぶ。我々と同じように裏切られ、見捨てられ、孤立する。反撃も、抵抗も、逃げることもできずに息絶える。そんなのもう、英雄とは思えないじゃないですか!

 

 ところが、この手紙はそのような苦しみを受けたからこそ、彼は完全な者になったと語ります。イエス様の受けた苦しみは、その身を神に従う完全な者、人々の兄弟として完全な者とさせたからです。

 

 かつて、ヨブ記の中で神様がヨブのことを自分に忠実な僕だと紹介したとき、悪魔は挑戦するように言いました。

 

 「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」

 

 別の言い方をすればこうなります。「他人が苦しんでいるとき神に忠実であることと、自分が苦しんでいるときも信じて従い続けることは、全く別問題だ」と。

 

 ヨブの場合、命までは要求されませんでしたが、イエス様は自分の命をささげることまで、徹底的に要求されます。それでも神様を心から信じて従い続けます。苦しみの中にあって、イエス様は完全なヨブとなりました。

 

 また、苦しみ、呻き、泣いて叫び、裏切られ、見捨てられ、孤立したイエス様は、それらの痛みを通して、あらゆる人の兄弟となりました。

 

 彼は死刑囚を、ホームレスを、精神障害者を「兄弟」と呼ぶことをためらいません。余命宣告を受けた人、お腹が膨らんで餓死する子ども、子を失った母親も「私の姉妹だ」と言われます。

 

 「お前に何が分かるんだ!」そう言われるのを恐れて、私たちが近づけない相手に、イエス様は隣人として側にいます。拒絶、孤立、絶望の中にあって、イエス様は一人一人の痛みに共感し、その人のことを理解できる完全な兄弟となりました。

 

 ただ力を持っているだけでは救えない人たちをも、救える者となりました。異色のヒーローは、こうして完成されたんです。

 

【軍事的解放者として】

 二つ目に出てくるのは、軍事的解放者としてのヒーロー像です。イエス様は、まるでアウシュビッツの強制収容所を解放した連合軍のように死の世界へと忍び込みます。

 

 死の恐怖の奴隷となっている全ての人間のため、収容所の司令官である悪魔に蜂起するんです。

 

 ヘブライ人への手紙では、人間全体を奴隷として、悪魔を「死の収容所」の冷酷な主人として描いています。

 

 奴隷収容所は、そこにいる人たちが自由を手にできるよう内部から解放されなければなりません。そこでイエス様は収容所に密かに入り込めるよう、自分自身も奴隷になったと言われているんです。

 

 全ての人と同じく、血と肉を備えて死の奴隷となり、奴隷主人たる悪魔への蜂起を導く指導者となった……彼は、荒れ野の誘惑において悪魔に従うことをきっぱりと拒絶し、「わたしは神に信頼します」と答えます。

 

 自分を遣わした神様の約束を守って十字架にかかり、復活によって死の収容所を内側から破壊するんです。

 

 奴隷となったイエス様が、死の収容所を破壊して出てきたとき、同じく死の奴隷であった人々も、イエス様に続いて収容所から出ていくこと、復活の訪れが予期されます。

 

 イエス様についていけば、そこには解放が待っている。神の国に続く道のりと永遠の命が与えられる。

 

 今までは、死の収容所に入った人には絶望しか待っていませんでした。しかしもはや、死はいつまでも人々を閉じ込めておける場所ではありません。

 

 収容所の壁は破壊され、イエス様が出て行った後、他の人も通れる穴が残されたんです。イエス様が受けた苦しみは、まさにこの作戦を実行するため、特殊部隊として死の収容所へ乗り込むためでした。

 

【憐れみ深い大祭司として】

 三つ目に出てくるのは、憐れみ深い大祭司としてのヒーロー像です。ヒーロー像というにはちょっと奇妙な、始めの二つと並んでいるのが不思議に思えるイメージです。

 

 そもそも、死・病・暴力といった現実的な痛みに直面している私たちに、救いと解放をもたらすのが、武器も持たない聖職者なんて、なかなか考えられません。

 

 大祭司の仕事は、民全体の罪を償うために神様へ犠牲をささげることであり、「英雄」や「解放者」のイメージとはずいぶん離れているからです。

 

 ところが、ヘブライ人への手紙は、厳かに犠牲をささげるこの大祭司こそが、死の世界へ下った血まみれの英雄であり、悪魔に蜂起した特殊部隊の解放者であると語ります。

 

 なぜなら、人間が務める大祭司は、自分たちが犠牲になる代わりに、雄牛と山羊をささげますが、大祭司キリストはただ一度、自分自身を犠牲にしてささげたからです。

 

 イエス様は苦しむ人々を前にして、祭壇で同じことを繰り返し、講壇でも毎度同じことを語ってばかりいる聖職者ではありません。

 

 彼は、自分の体を裂いて犠牲にし、祭壇に血を注いで死の世界へ下り、血みどろの戦いを繰り広げ、収容所を内側から破壊して、奴隷になっていた人々を解放します。

 

 彼は、安全で清らかな王座から兵士を派遣するのでなく、全ての人の痛みと苦しみを負うために、自ら死の力を味わいます。

 

 兄弟姉妹、私もあなたの痛み、あなたの恐怖、あなたの苦しみを知っている。なぜなら、私自身があなたと一緒に死の奴隷として強制収容所に入ったからだ。あなたが鞭打たれたように私も鞭打たれ、あなたが身ぐるみ剥がされたように私も裸にされたのだ。

 

 収容所の隅っこで震えていた私たちは、頑強な鎧に覆われた腕ではなく、自分と同じ、誰かに傷つけられた手を伸ばされました。釘痕のついたその手首は、握り返す私の手を、決して傷つけないことを意味しました。

 

 この人は私と同じ痛み、私と同じ苦しみを味わっている。この人の後ならついていける。そうして少しずつ、少しずつイエス様に導かれ、外へ出ていくんです。

 

【傷跡を見せる救い主】

 キリスト教会で救い主の痛みと苦しみが強調されるのは、私たちがこの人の手を安心して取るためです。彼は死の力を打ち破り、三日目に復活したとき、十字架で釘打たれ、槍で突かれた傷跡を見せました。

 

 その生々しい光景は、私たちを恐れさせるためではありません。私たちに対する憐れみと優しさのしるしなんです。

 

 かつて、ジョージ・ロスという説教者が、救世軍の草創期に起きた、あるイギリスの出来事を話しました。

 

 現代でも似たようなことがありますが、当時、カリスマ的な人柄と人を惹きつける話術を持った一人の男が、自分を再来のキリストだと言って、地方を巡り歩いていました。

 

 彼は病人を癒したり、失った視力を回復したり、他にもいくつかの奇跡を起こせると豪語して、まんまと自分の信奉者を集めることに成功します。

 

 そんな中、ある晩ロンドンの大ホールで、彼が講演をしていたときです。遠くから音楽が聞こえてきて、それが次第に近づいてきました。救世軍の楽隊が、そのホールに向かって進んできたんです。

 

 チューバとトランペットをガンガンに鳴らしながら、楽隊の小さな一団は、男のいる講壇へと真っ直ぐに前進してきました。会衆は、目を丸くしてその様子を見ています。

 

 やがて、救世軍の指揮官が楽隊に合図すると、音楽はピタッと止みました。指揮官は講演者の方にクルッと向き直って、こう尋ねます。

 

 「あなたは本当にキリストですか? はっきりおっしゃってください」……講演者は答えます。「本当です。私は再来のキリストです!」

 

 その指揮官は、彼をじっと見つめて言いました。「いいでしょう。ところで手を見せてください」その瞬間、楽隊がまた演奏を始めます。「私には彼のことが分かるでしょう、私には彼のことが分かるでしょう、その手にある釘痕で!」

 

 イエス様は、人間の苦しみと死の傷跡をその身に帯びて私たちに現れます。私たちの痛みを無視するような、痛みを知らないような近づき方はされません。

 

 神様が遣わされた救い主は、あなたが裸のとき裸でおられ、あなたが鬱のとき鬱でおられ、あなたが囚人のとき囚人でおられます。あなたと関係ないかのように、綺麗な装いをする方ではありません。

 

 この方の癒しと慰め、励ましと希望が、あなたと共にありますように。

 

このメッセージは、

T.G.ロング著 笠原義久訳『現代聖書注解 ヘブライ人への手紙』日本基督教団出版局、2002年 p86〜96

に大きく寄りました。