ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ダークヒーローなイエス様?』 ルカによる福音書11:14〜26

礼拝メッセージ 2019年3月17日

 

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【悪霊って何?】

聖書には度々「悪霊」が出て来ます。ある時は子どもに取り憑いて、高熱や痙攣を引き起こし、ある時は男性に取り憑いて、裸で墓場をうろつかせ、ある時は女性に取り憑いて、困った言動を繰り返させる。

 

それらは、かつて治療の困難だった身体的な病であったり、周りに理解されなかった精神的な疾患であったり、現代なら科学的・医学的に説明できる現象なのかもしれません。

 

どう捉えたらいいか迷う「悪霊」も、そのように理解すれば、変に怖がる必要はなくなります。突然、私たちの中に入り込んできて、恐ろしい異変や望まない行動を起こさせたりする存在なんて、ちょっと考えたくないですし。

 

でも、忘れちゃいけないのは、現代の私たちでも、自分の知識や理解を超える、正体不明の力に支配されることが、往々にしてあることです。

 

それは私が知らないだけで、心理学的に説明できることかもしれないし、将来的に解明されることかもしれないけれど、とにかく今、このちっぽけな私では、制御できない、太刀打ちできない、抵抗できない力が存在する。

 

そこからの解放を求めているけど、完全に支配されてしまっている。そんな状態に、皆さんも心当たりがあるかもしれません。

 

ある人は、毎晩悪夢にうなされている。ある人は、原因不明の痛みに苦しんでいる。ある人は、見えちゃいけないものが見えてしまう。ある人は、唐突に何らかの衝動に駆られてしまう。

 

自分じゃどうにもできないし、努力しても、調査しても、相談しても、この苦しみから逃れられない。何が理由か分からないけど、自分に非がある、自分に問題があると思わされる。

 

聖書に出てくる「悪霊」も、そのような苦しみをもたらすものでした。私たちと関係ない話じゃありません。悪霊に取り憑かれた人たちはたいてい、その人が持っているはずの問題や非を探られました。

 

どんな罪を犯したのか? どんな悪事を働いたのか? どんなところに付け込まれたのか? あるいは、家族や先祖に非がないか……それらを告白し、謝罪し、反省する姿勢を見せて、悪霊を追い出すことが要求されました。

 

まあ、分かりやすいですよね。巷で口にされる「悪魔祓い」も、原因となるその人の「非」を見つけてから、様々な儀式を行って対処する、というイメージが強いんじゃないかと思います。

 

その人が自分の非を認めなかったら……原因である罪を上手く清算できなかったら……結局はその人の問題で、悪魔祓いは失敗するというわけです。

 

【私の味方にしたくない】

けれども、聖書に出てくる悪魔祓いはちょっと違います。今回も、イエス様が悪霊を追い出す話が書かれていました。そこには、口を利けなくする悪霊に取り憑かれた人が出てきます。彼はしゃべれませんでした。

 

たぶん、多くの人が、何とかしゃべらせようとしてきたでしょう。しかし、この日に至るまで、彼の口を開ける者は一人もいませんでした。

 

色んな言葉をかけられたはずです。「あなた自身にしゃべる気はあるのか?」「悪霊にちゃんと抵抗しているのか?」「本当は祈りが足らないんじゃないか」……彼は反論できません。しゃべることができないから。

 

実際にちゃんと努力できているのか、しゃべろうとしているのか、自分でさえも分からなくなってきます。

 

そんな中、彼はイエス様と出会います。いつ、どこで、どうやって出会ったのか、ルカによる福音書はほとんど説明してくれません。ただ、イエス様が悪霊を追い出してくれたことだけが報告されています。

 

彼は悪霊を追い出されてすぐ、ものを言い始めました。あまりにあっさりした話です。

 

イエス様はこの人から悪霊を追い出すとき、「あなたはどんな悪事を犯したのか?」「こうなった理由に心当たりはないか?」なんて尋ねません。

 

本人にも、家族にも、「あなたに非がある」という態度を取りません。それは、イエス様が悪霊を追い出すとき、全てに当てはまることです。

 

悪霊に取り憑かれた個人が、イエス様から責められることは、一切ありませんでした。むしろ、イエス様が叱りつけるのは、その人に取り憑いていたもの、その人を支配し、苦しめていた状況そのものに対してでした。

 

群衆は驚嘆します。イエス様の他にも、悪霊を追い出す人たちはいましたが、イエス様のように、悪霊に憑かれた人を一切責めず、一言で追い出してしまう人は、他にいなかったからです。

 

けれども、この出来事を素直に喜びたくない人たちもいました。考えられるのは、イエス様の前に悪霊を追い出そうとして、失敗した人たちとその仲間です。彼らは彼らのやり方、「苦しみはその人の非から来る」という考えに基づいた対処を否定されます。

 

悪霊を追い出せなかったのは、自分たちではなく取り憑かれた人の問題……としてきたのに、イエス様があっさり追い出したおかげで、自分たちの対処の方が問われることになりました。

 

そこで、彼らはこう言います。「あの男は、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」……悪霊を悪霊の力で追い出す者……まるで、ゴーストライダーや他のアメコミに出てくるダークヒーローのようですね。

 

でも、彼らは冷やかしでこう言ったんじゃではありません。「ベルゼブル」という名前は「バアルの主」という意味で、イスラエルの神に敵対する存在を表しました。

 

18節に出てくるサタンも「敵対者」という意味を含んでおり、両者はここで同一視されています。ようするに、イエス様は救世主なんかじゃなくて、神に敵対する悪魔的な存在だと言われているわけです。

 

また別の人はイエス様に、神の力で悪霊を追い出しているなら、その証拠として、天からのしるしを見せてくれと要求します。

 

「天からのしるし」というのは、天体の動きや天空からの現象によって、「神の国が到来するとき」「救い主が来るとき」を察知できる、という思想で、「お前が神の味方かどうか、我々に証明してみせろ」と言ってきたわけです。

 

イエス様は彼らに対し、論理的に言い返します。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか。」

 

悪霊の頭が他の悪霊を追い出していたら、もう悪霊の頭ではいられなくなる。当たり前の話です。彼らの難癖には無理がありました。

 

また、こうも言われます。「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。」

 

そう、悪霊追放を悪霊の仕業にしてしまえば、彼らの仲間がやってきた行為も、悪霊の仕業になってしまいます。いやいや、一緒にしないでくれと、みんなから言われてしまうでしょう。

 

「だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」……イエス様の言うとおり、彼らは自ら敵を増やす発言をしてしまいました。悪霊に憑かれて苦しむ者にも、悪霊を追い出すイエス様にも、他の人たちにも、彼らは味方できませんでした。

 

他人の苦しみを、「その人の非が原因だ」として安心しようとする思い……私たちもやりがちなことですが、それは自分自身があらゆる人の味方になれなくなっていく、そんな愚かな道なんです。

 

【私の味方になりなさい】

そんな中、イエス様は「私の味方になりなさい」という呼びかけを始めます。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と……そして、こんなたとえをしていきます。

 

 「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

 

ずいぶん唐突なたとえです。いったい、武装して自分の屋敷を守っている人とは誰なんでしょう? 屋敷を襲いに来る、もっと強い人とは誰なんでしょう? このどちらかがイエス様を表しているようですが、皆さんはどちらだと思いますか?

 

普通、守る側と襲う側では、後者の方が悪者に見えるので、イエス様は前者だと思いますよね。でも実は、逆なんです。

 

文脈から考えると、屋敷を襲った側がイエス様で、武装して屋敷を守っている側がイエス様に敵対する人たちです。そう、襲いかかり、奪い取り、分捕る側がイエス様……非常にダークなたとえです。

 

まさに、メッセージのタイトルに出てきたダークヒーローですね。イエス様に敵対し、論争をふっかける人たちは、しっかり武装しているつもりでした。しかし、あっけなく論理の矛盾を突かれて、全ての武具を剥ぎ取られてしまいます。

 

彼らが守っていたのは自分の屋敷、自分の持ち物を守るためだけに武装していました。屋敷の外にいる貧しい者、家を奪われた者たちには味方せず、一人で家を守っていました。

 

ときには、助けを求めて屋敷を訪れる人たちに、「あなたがそうなったのは、あなた自身に非があるからではないか」と言い放ち、門を閉じていた。

 

本来イエス様は、襲ったり、奪ったり、分取ったりする方ではありません。しかし、苦しんでいる人の非を探し、味方になるのを拒む人には、その重い鎧を剥ぎ取りに来ます。

 

「誰の味方にもなれない孤独な者ではなく、わたしの味方になって、人々の隣人になりなさい」と。

 

【私の味方にならないなら】

じゃあ、イエス様に敵対せず、イエス様を悪く言わなければいいのかと言えば、そうでもないみたいです。今度は別のたとえが始まります。それは、ある人から追い出された悪霊が、より多くの悪霊を連れて戻ってくる話です。

 

おそらく、イエス様に悪霊を追い出してもらった人、囚われていたものから解放された人のことが言われているんでしょう。

 

思えば、イエス様は自分が癒した相手に度々、「わたしに従いなさい」と声をかけてきました。すぐに従った人もいれば、声をかける間もなく帰ってしまった人もいます。

 

たとえば、17章で重い皮膚病を癒された10人の男性たち……体が治ってから、イエス様のもとに戻ってきたのは一人だけでした。他の人たちは、イエス様と敵対はしなかったけれど、仲間にもならなかった人たち。

 

きっと同じような人がもっとたくさんいたでしょう。イエス様に助けられ、感謝を覚えながらも、その教えに従うことはなかった人たち、味方になって行動することはなかった者たち。

 

私が思い出すのは、マタイによる福音書18章でイエス様が語られる「仲間を赦さない家来」のたとえです。

 

ある王の家来が、1万タラントンの借金を帳消しにしてもらい、負債を空っぽにして出て来たのに、自分に100デナリオンの借金がある仲間を牢に入れ、返済するまで閉じ込めた。

 

これを聞いた王は怒りを抱き、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、借金をすっかり返済するまで牢に閉じ込めてしまいます。

 

彼は負債を空っぽにされた後、自分自身も隣人への憐れみで心を満たせたはずなのに、別のものに居座られてしまいました。借金の支配から解き放たれたのに、自分自身が金を惜しむ気持ちに居座られてしまいました。

 

あらゆる支配から解放するイエス様の味方にならなければ、解放された人も再び捕えられてしまうんです。

 

【私は味方になれている?】

私たちはどうでしょう? 教会に来て、イエス様を知り、その教えと業に驚嘆して帰っていく。だけど、ただそっと見ているだけ、思い出すだけで、イエス様の味方にはなっていない、イエス様に従ってはいない、そんな日々を歩んでいないでしょうか?

 

何かの論争や争いごとが起こると、なるべく自分を中立に置いて、どちらの敵にもならないようにする。変に肩を持って、矢面に立つことがないように。

 

同性愛、バイセクシュアル、性同一性障害……教会によっては未だに「悪霊」に憑かれた状態として非難される人々、問題や非を抱えていると見なされる人々。

 

イエス様ならどうしたでしょうか? 誰の味方をしたでしょうか? 私たちはイエス様の味方になれているでしょうか?

 

今日の聖書日課には、「悪と戦うキリスト」というテーマがつけられています。この悪は単に、物語に出てくる悪霊を指しているのでしょうか? それとも、イエス様の味方になれない私たちの姿を指しているのでしょうか?

 

キリストの苦しみと死を思い起こすこの期間、私たち一人一人が問われています。あなたは誰の味方なのか? あなたは自分の罪を赦され、負債を空っぽにされた後、なお、苦しむ誰かに非を負わせようとしてないか?

 

汚れた霊が、イエス様によって追い出されました。解放された私たちの心に、満たすべき愛と憐れみが教えられています。「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち返るならば、主は憐れんでくださる。」