ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『これって脅しですよね?』 列王記上19:9〜21、ペトロの手紙一3:13〜22

礼拝メッセージ 2019年8月11日

 

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【苦しみに耐えて進みなさい】

 「苦しみに耐えて進みなさい」「苦しみを受ける覚悟をしなさい」「苦しみがあなたを成長させる」……ペトロの手紙一には、やたらと「苦しみ」「困難」「死」を覚悟しなければならない、というメッセージがあちらこちらに出てきます*1

 

 たとえ死の危険があろうと信仰を捨ててはならない! どんなに苦しくてもキリストに従って伝道せよ! 信仰者に対して、相当なプレッシャーをかけてきます。

 

 何だか炎天下の中、水も飲ませないで練習させる部活動を思い出します。あるいは、ブラック企業の新人教育、軍隊の指導・訓練が行われている風景でしょうか?

 

 苦しみに耐え、困難を乗り越え、死の危険も顧みず、命令に服従する兵士。どんな状況にあっても冷静に、言われたことを忠実に守る部下や後輩……実は、誰かをコントロールする際に、よく使われるフレーズです。

 

 14節にもこう出てきます。「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」……その苦しみには大義がある! 後で必ず報われる! あなたを咎め、悪口を言った人たちは、むしろ後悔することになるでしょう!……

 

 こう言われたら、苦しくても頑張らなきゃいけない気がしてきます。というより、苦しみに耐えなきゃ「正しくない」「不信仰」というレッテルを貼られかねません。

 

 事実、17節ではこう言われています。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」……苦しみを避けることより、甘んじて受け入れる方が、大人な対応として示されます。

 

 他のみんなが傷ついてるのに自分だけ傷つかない。周りはみんな我慢してるのに自分だけ逃げ出してしまう。まるでそれが、自分勝手に思えてくる。

 

 さらに、追い討ちをかけるように18節が続きます。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです」……巧妙に人の心をコントロールする言い方です。

 

 キリストはあなたのためにこんなにも苦しまれた! それなのにあなたは、全く苦しもうともしないんですか!? こんな状況作り出されたら、嫌でも苦しみに耐えなきゃいけません。

 

 また、19節以降では、苦しみに耐えて神様に従わない者は、いずれ滅ぼされてしまう、という出来事が紹介されています。

 

 有名なノアの箱船物語……かつて、苦しみに耐えて神様に従ったノアの家族は、洪水を生き延び、救われたけれど、他の者は皆死んでしまったという話。

 

 あなたも苦しみに耐えて信仰を保たなければ、神の国に入れないでしょう……そう暗示する言葉です。メッセージのタイトルにもつけましたが、これってある意味「脅し」ですよね?

 

 今現在、苦しんでいる人がいて、困難に押しつぶされそうで、「もう死にたい」と思っている中これを聞いたら、慰めも励ましもあったもんじゃありません。

 

 うつ病の人にペトロの手紙を読ませることも、まず勧められないでしょう。「苦しみに耐えて頑張ろう!」なんてメッセージ、骨折した人に「筋トレしなきゃ!」と言い放つようなもんですから。

 

【大げさに言ってるだけ?】

 いやいや先生、ちょっと大げさ過ぎますよ。神様はそこまで酷な方じゃありません。私たちがボロボロになって潰れそうなほど苦しいときは、きちんと配慮をなさるはずです。

 

 そう言ってくれる方がいるかもしれません。確かに、神様は慰めと希望をもたらす方……信仰者は、むしろ苦しみから守られるはずです。

 

 ところが、最初に読んだ聖書箇所、列王記上19章には、神様に従って歩み続けた預言者エリヤが、徹底的に苦しみを受ける様子が描かれています。

 

 彼は、神様に従い始めた瞬間から、身の危険に晒されます。イスラエルの王アハブに対し、偶像礼拝を犯していると批判して、干ばつや飢饉といった不吉な預言を行い、王の心証を悪くしたからです。

 

 やがてエリヤは、国家に背く敵として命を狙われるようになります。他の預言者は、アハブが妻イゼベルに従ってみんな斬り殺してしまったため、彼に仲間はできません。

 

 エリヤは「イスラエルを煩わす者」と言われながら、孤立に耐えて警告を続け、最終的にバアルとアシェラの預言者850人と対決しなければならなくなります*2

 

 この対決は、見事エリヤの勝利となりますが、かえってイゼベルの怒りを買い、ますます命の危険に晒されて、追い詰められてしまいます*3。孤独に耐え、神様に従い続けてきた彼の心は、ポキリと折れてしまいました。

 

 エリアは、ベエル・シェバへと逃れ、その地で横になって過ごします。まさに燃え尽き症候群、あるいはうつ病と言える状態だったんじゃないでしょうか?

 

 そんな中、満身創痍で命を狙われているエリヤに対し、神様は信じられないことを命じます。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ」……なんと、敵のいる地へ引き返すよう命じるんです。

 

 苦しみから守るどころか、さらに苦しむ道を用意される。横暴にも程があります。これだけ神様に従ってきたのに、まだ苦しみを重ねろと言うんでしょうか?

 

 さらに、神様はこう命じる前、エリヤを目の前に立たせて通り過ぎ、非常に激しい風を起こします。この風は山を裂き、岩を砕くほどの勢いです。

 

 その上、風の後に地震が起こり、地震の後に火が起こります……台風、地震、火事といった恐ろしい災害を次々に見せつけられたエリヤは、最後に「行け」「引き返せ」と命じられるんです。

 

 従わなかったらどうなるか……やっぱり脅しに見えますよね? 旧約に出てくる神様は相当恐ろしい存在に思えます。

 

 自分に従わない者へ、容赦なく制裁を加えてくる。苦しみを耐えて従うことを、どこまでも強要してくる。う〜ん、なかなか希望が見えません。

 

【イエス様の使徒への圧力】

 じゃあ、新約ではどうなんでしょう? 神の子であるイエス様も、弟子たちに対してかなりのプレッシャーを与えました。

 

 先ほどは読みませんでしたが、今日指定されている聖書箇所の一つに、ルカによる福音書9章57節〜62節も出てきます。イエス様が、自分に従う弟子たちへ、覚悟と服従を求めるところ。

 

 「わたしに従いなさい」ある人はイエス様からそう言われて「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と頼みます。しかし、イエス様はこう返します。

 

 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」……父親が死んだ直後の人に、この言葉は厳し過ぎないでしょうか?

 

 身内の死という苦しみがあるのに、その悲しみが癒される前から伝道しなさいと言うんです。

 

 また別の人はこう言います。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」

 

 似たようなことを、エリヤの後継者であるエリシャも言いました。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」*4

 

 エリヤは「行って来なさい」と返しますが、イエス様はこう言います。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」*5

 

 今すぐ家族と別れられるほど、悲しみや苦しみに耐える覚悟がなければ、神の国にふさわしくない……そう言っているんでしょうか? だとしたら、やっぱり脅しに近いものを感じます。

 

 でも、それにしては妙なことに、最初から覚悟があるように見える者、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った者には、「ついてきなさい」とも「従いなさい」とも言わないんです*6

 

 最初に、イエス様へ弟子になりたいと申し出たこの人こそ、苦しみを耐え、家族との別れも厭わずついてくる理想的な人間です。それなのに、イエス様はこの人ではなく、すぐに従う覚悟のなかった他の者たちへ命じます。

 

 「わたしに従いなさい」……もしかして、イエス様が求める覚悟というのは、単純に「苦しみや困難に耐えられる」覚悟ではないのでしょうか?

 

【キリストの勧める覚悟】

 そう……よくよく聖書を読んでみると、イエス様に従う弟子たちは、これだけ厳しいことを言われているにもかかわらず、家族との縁を切らされない、別れの苦しみを耐えるよう強制されてはいないんです。

 

 ペトロは姑の熱を癒され、家族のいる家でイエス様と食事をします*7。ヨハネとヤコブも、お母さんと関係が切れてるようには見えません*8

 

 彼らは最初、父親も母親も、妻さえ捨ててイエス様に従います。そうすることが、弟子として当然の覚悟と思ったんでしょう。

 

 「まず父を葬りに行かせてください」「家族にいとまごいに行かせてください」そう申し出た2人も、家族と別れてついていく、家族を捨てる覚悟こそ、イエス様の弟子として求められる覚悟だと思ったのかもしれません。

 

 だって、仕事を辞めてイエス様に従うなんて、明らかに家族に反対されます。親戚の理解も得られません。イエス様についていくなら、最初から家族と縁を切る苦しみを取る方が自然です。

 

 ところが、イエス様が求めた覚悟は、家族と別れる覚悟ではありませんでした。むしろ、家族の理解と回復を信じて、関係を切らずについてくることでした。

 

 実のところ、家族の理解なんて期待せず、縁を切ってくる方が、家族に理解を求めるよりも、よっぽど苦しまずに済むかもしれません。分かってもらう努力も、分かってもらえない悩みも置いておくことができるから……

 

 しかしイエス様は、自分に従う者たちが、家族の回復という最も困難な道のりを、信じてついてくるように求めました。

 

 「あなたの来た道を引き返せ」そう命じられた預言者エリヤも、最初はこう願っていました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」*9

 

 彼は、民の反抗と死の危険から何度も立ち上がったモーセやヨシュアを思い出し、自分は彼らのようにはなれないと、打ちひしがれていたのかもしれません。

 

 もうこれ以上孤立することも、狙われることも耐えられない。自分の話が受け入れられ、仲間ができると期待するのはもうしんどい。いっそ命を散らせてくれ……

 

 そう願ったエリヤに対し、神様は水とパン菓子を与えます*10。そして、休息をとった彼に向かって、新たな仲間を作りに行くよう、自分の後継者と出会うように命じます。

 

 そう、「わたしに従いなさい」と言う神様が求めるのは「命を諦め」「孤立する」ことの覚悟ではなく、「命を求め」「回復を願い続ける」覚悟なんです。

 

 苦しみを耐えるということは、決してお行儀よく「我慢する」「平気でいる」ことではありません。諦めた方がずっと楽な状況でも、なお、神様に叫んで、嘆いて、頼り続けることなんです。

 

 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」そう叫ばれたイエス様が、3日目に復活し、私たちにも永遠の命をもたらされた。そのことを信じて告白する洗礼式は、まさに「孤立に耐える自分の力」ではなく「回復をもたらす神様の力」に信頼を現す行為です。

 

 水に沈んでも起こされる、死んでも神様が起こされる。その、ありえない回復がもたらされると告白し、目の前の人たちに証言します。

 

 地面に横たわっていた私が、すぐに従えなかった私が、今、神様に起こされ、期待できなかったことを信じて歩き始めている。

 

 もしも今、奮い立つ力が起きなくても、困難に打ち勝つ力が出なくても、「神様助けて」「もうしんどいです」と叫ぶなら、あなたは神の国へと招かれています。

 

 もしも今、あの人やこの人のように、義のために行動できなくても、「神に正しい良心を願い求める」*11なら、あなたは洗礼へと招かれています。

 

 覚悟も準備も心構えもない者に、イエス様は呼びかけ、ついてくるよう命じました。「わたしに従いなさい」……キリストの招きに、あなたも答えられますように。

*1:日本聖書協会編『はじめて読む人のための聖書ガイド 聖書 新共同訳 準拠』一般財団法人日本聖書協会、2014年、145頁16〜17行参照。

*2:列王記上18:19参照。

*3:列王記上19:1〜2参照。

*4:列王記上19:20参照。

*5:ルカ9:62参照。

*6:ルカ9:57〜58参照。

*7:ルカ4:38〜39さ参照。

*8:マタイ20:20〜28参照。

*9:列王記上19:4参照。

*10:列王記上19:5〜9参照。

*11:ペトロ一3:21参照。