ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『期待通りの神じゃない』 マタイによる福音書20:20〜28

在宅礼拝 2021年3月21日


『期待通りの神じゃない』小規模礼拝Aグループ 2021年3月21日

 

 

案 内

華陽教会では現在の医療提供体制を踏まえて、第一・三日曜日と第二・四日曜日に会衆が半分ずつ、数カ所に分かれて集まる小規模礼拝を再開しています。共に今、教会にいる人も、自宅にいる人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

消 灯

本日は、受難節第5週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を5本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。

 

招 詞

肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマの信徒への手紙8:3)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、旧讃美歌291番「主にまかせよ」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。(小窓を閉めて)共に祈りを合わせましょう。

 

◆人と人とをつなげてくださる私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まれたことを感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆人と人とをとりなされる私たちの神様。この一週間も、思いと言葉と行いによって罪を犯し、あなたを悲しませてしまいました。どうか今、私が傷つけてしまった人、怒りをぶつけた人を癒し、回復させてください。

◆人と人とをとりもたれる私たちの神様。この一週間も、地震や津波の心配をしながら、不安の中で過ごしてきた方々を思います。どうか今、助けを必要としている人に、あなたの救いがありますように。あなたの業に、私自身も送り出してください。

◆人と人とを成長させる私たちの神様。この一週間も、色んな人とぶつかったり、和解したり、離れたりしたことを思い出します。どうか今、一つ一つの痛みや発見が、あなたの愛と平和の道につながりますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書20:20〜28(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

交読文

(会堂の窓を開放して)詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編118:1〜9(新共同訳交読詩編より抜粋)

交読詩編付きの『讃美歌21』をお持ちの方は、後ろの方に載っています。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(お立ちください)

 

f:id:bokushiblog:20210321082437j:plain

Aline PonceによるPixabayからの画像

メッセージ

「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」……イエス様が、ヤコブとヨハネに問いかけられた言葉。なかなかドキッとする問いかけですよね? 教会に来ている多くの方は、この言葉が文字通り、「俺の酒が飲めるか?」という話ではなく、「私と同じように苦しめられ、辱めを受けられるか?」という問いであることを知っています。

 

簡単に頷いちゃいけない話、覚悟を持って、慎重に答えるべき話。けれども、ヤコブとヨハネは間髪入れずに「できます」と答えてしまう。これらのやり取りは、2人の母親がイエス様のところに来て、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願ったことがきっかけでした。

 

非常に大胆な要求です。これを聞いた他の弟子たちが腹を立てるのも無理ありません。兄弟の母親が「私の息子をあなたの側近に取り立てて欲しい」とみんながいる前でお願いする。めちゃくちゃリスキーですよね? 本当に、息子たちを側近にしてほしいなら、もっとこっそり、あるいは控えめに、イエス様へお願いするべきです。

 

「出世したい」「地位を得たい」という願望見え見えの要求なんて、失礼に思われるか、身勝手に思われるか、読者の大半が感じたように、愚かだと思われるかのどれかです。何だって、母親はこんなこと言い出したんでしょう? 何を思って、ヤコブとヨハネは母親について来たんでしょう?

 

そう、いよいよイエス様が十字架にかけられようとしているとき、刻一刻と、イエス様の最期の日が近づいているとき、このエピソードは、勘違いも甚だしい兄弟と母親の愚かな姿を描いた話と受け取る人が多いでしょう。実際、私もそのように思っていました。でも、よく考えてみると、本当に言うほど、彼らは「分かっていなかった」のか?

 

そもそも、なぜヤコブとヨハネの母親が、イエス様にこんなお願いをし始めたのか、改めて考えてみましょう。彼女の息子たちは、父親を手伝って漁師をしていましたが、ある日突然、イエス様に声をかけられて、網を捨て、舟を捨て、父を残して、この方についていきました。いきなりの出家、どう考えても異常です。

 

当然、家族はこの2人の息子を連れ戻そうとしたでしょう。イエス様のもとへやって来て、「うちの子どもたちをどうするつもりだ?」と問いかけたでしょう。ヤコブとヨハネ本人にも、「何を考えているの?」「どうして仕事を捨ててまで、この人についていくの?」と訴えたでしょう。

 

幸い、息子たちが信奉する謎の男は、家族関係を切らせることはしませんでした。むしろ、弟子たちの家族ともよく話し、家に行ったり、食事に来たり、病を癒したりすることもありました。ヤコブとヨハネの母親も、イエス様と初対面ではなさそうです。息子たちが突然出ていったと聞いたときは何事かと思いましたが、強引な出家ではなさそうでした。

 

けれども、少し前からイエス様は、自分の死について度々口にするようになりました。いくつかの破壊的カルトが集団自殺を起こしているのを考えると、両親にとって、これは不安以外何ものでもありません。息子たちも、イエス様が死の危険を犯そうと、どこまでもついていく勢いです。

 

「お母さん、あの方こそ新しい王なんだ」「イスラエルをローマ帝国から解放して、新しい国を立てあげる方なんだ」……2人に説得され、しぶしぶイエス様との付き合いを認めてきた母親は、せめて、息子たちの将来に責任を持ってくれるのか、イエス様に確かめたくなったでしょう。

 

主よ、あなたのために命をかけようとしている息子たちを、ちゃんと面倒見てくれますか? 私の大事な息子たちを利用だけして捨てませんか? 家族として当然の心配です。失礼な物言いに聞こえたとしても、それでイエス様が怒り出せば、息子たちを突き放せば、2人を家に連れ戻し、守ることができる。

 

一方、ヤコブとヨハネも本気です。良い歳をした男2人が自分の従っているリーダーのもとへ、お母さんを連れていく。他の仲間たちが見ている前で、自分たちのために、お母さんがお願いを始める。これ、めちゃくちゃ恥ずかしいし、やめてくれと叫びたくなります。イエス様が何て言うかも不安です。

 

でも、彼らは何とかお母さんに安心してほしかった。イエス様についていくことが間違ってないと、分かってほしかった。イエス様もお母さんを説得してくれると信じていた。すると、イエス様からこんな問いかけが返ってきます。「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」

 

よっぽどのことがない限り、この問いかけを単純に「俺の酒が飲めるか?」という意味に捉える人はいないでしょう。兄弟が杯を交わす際、そこに「苦難や困難を共にする」「危険な道を一緒に歩む」という意味があることは、古今東西そう変わりません。しかも、イエス様は直前に、自分の死について三度目となる話もしていました。

 

これはもう「私と一緒に死ぬ覚悟があるか?」くらいの意味で、2人が捉えていたことは間違いないでしょう。母親を連れてきた時点で、覚悟を決めていた息子たちは、もう用意ができていました。間髪入れずに「できます」と答えた返事は、決して考えなしに言ったものではありません。イエス様と一緒に英雄として死ぬなら後悔はない。

 

そう、大胆な要求をした母親と息子たちは、たぶん、ある程度「分かって」いました。イエス様の側にいることが、危険で、大変で、困難が伴う道であると。何らかの苦しみを受けることになると。最悪の場合、死に至ると。「分かって」いました。簡単に、すぐ手に入る地位を求めたわけではありません。

 

理不尽な支配から解放される、新しい国が建て上がることを心から望んでいたんです。ただし、それはヤコブとヨハネが期待したとおり、母親が期待したとおりの形ではありませんでした。イエス様が迎える「死」は英雄の死ではありません。イエス様の「戦い」は敵との衝突ではありません。

 

イエス様が王座に着くとき、支配国の宮殿を占領したり、権力者から神殿を奪還したりして、その席に着くことはありませんでした。むしろ、イエス様が王座として着いたのは「されこうべの場所」と呼ばれる丘に立てられた十字架の上、処刑場でした。

 

さらに、その王座には、イエス様と一緒に2人の強盗が「一人は右に、一人は左に」つけられました。最後まで従ってきた英雄ではなく、罪を犯した犯罪者が、イエス様の右と左に着くよう選ばれたんです。初めから願いも覚悟もなかった存在が、王座の隣に座ることを許された。

 

期待通りとは言えません。神様に従う者は、立派でかっこいい死を与えられるわけじゃありません。みんなから褒め称えられる席も用意されません。罵られ、嘲りを受け、唾を吐きかけられる。新しい王は、その人たちを庇い、とりなし、自ら仕え、自分の隣に罪を犯した人を座らせる。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と呼びかける。

 

ヤコブとヨハネは、結局イエス様に最後までついていくことができず、敵に捕らえられたとき、見捨てて逃げてしまいました。自分たちも、仲間を捨てた罪人となってしまいました。しかし、「できます」と言いながらできなかった、イエス様の杯を飲む日がやって来ます。イエス様が復活し、2人の前にも姿を現し、一緒に食卓へついたとき。

 

それは、2人が恐怖に負けず、誘惑に負けず、獲得した席ではありませんでした。もはや、イエス様の右と左に座らせてほしいと願うこともできないでいる、一番落ち込んでいるときに与えられた席でした。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」そう言われたイエス様の言葉は本当で、2人はその後、各地で苦しみを受けながら、イエス様のことを伝えていくようになりました。

 

本来座れない席に、あなたを招いている方がいる。私がそこへ招かれたように、あなたもこの方に招かれている。苦難のはざまから答えてくださる方が、解放してくださる方がおられるんだ……来週は、いよいよシュロの主日、イエス様がエルサレムへ入城された日曜日です。私たちもこの方を精一杯呼び求め、一緒に杯を受けましょう。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、讃美歌21の296番「いのちのいのちよ」1〜3節を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

紹 介

本日は、あちらにいる( )人の方が初めて来てくださいました。ようこそいらっしゃいました。配信後、ご了承いただいた方のみ紹介させていただきます。ぜひ、これからも神様の平和が皆さんと共にありますように。(*拍手)

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。使徒信条(讃美歌21の93-4Aです)。

 

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。お手元にあるとりなしの祈りの用紙をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。持ち合わせのない方は、受付でもらった献金袋をそのままお入れください。配信を見ておられる教会の方は、また後日来られたときにおささげください。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、オンライン賛美歌「苦難のはざまから」(©️柳本和良)を3回繰り返して歌います。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。(マタイによる福音書20:23b)

 

祝 福

父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。(テモテへの手紙二1:2)

 

報 告

本日も、教会に集まって、配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の小規模礼拝は、教会に集まった14名、同時に視聴された17名、計31名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週は、小規模礼拝Bグループの礼拝です。私が弟の結婚式で休暇を取らせていただくので、隠退教師の鈴木重正先生がメッセージをしてくださいます。前々日から私のいない初めての配信となるので、奉仕者、役員、牧師のためにお祈りいただけると幸いです。

 

また、イエス様が十字架につけられる前、弟子たちとされた最後の晩餐を記念して、みんなでパンを分け合っていた「最後の晩餐記念礼拝」は、感染症対策のため休止し、代わりに4月2日の金曜日19時から、イエス様が十字架にかけられた日を思い起こす「受難日礼拝」を2階集会室で行おうと思います。

 

3月31日の聖書研究祈祷会は、金曜日の受難日礼拝に合流するのでお休みです。「初めて礼拝に参加したい」「集会に出てみたい」という方は、三密回避の人数調整をしているので、ホームページの「問い合わせフォーム」か、電話にてご相談ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。