礼拝メッセージ 2019年12月1日
【助けはどこから?】
自分の困難を取り除いてくれる助けって、どこから来ると思います? 家族がギスギスしているとき、誰かがいじめられているとき、重い病にかかったとき、その問題を解決し、苦しみから解放する人は、どこから現れるでしょう?
たぶん、既に多くの信頼が得られているところ、実績と経験を持ったところから、何らかのスペシャリストがやって来るのを期待する人が多いと思います。有名なカウンセラー、ネットで上位に出てくる専門家、その道の権威と言われている人物。
あるいは、もっと身近な所で力がありそうな人たち……家族の中で一番しっかりした大人、教室のムードメーカー的存在、病院で紹介された大先生……
この人なら、私を助けてくれるかも、どうしたらいいか分かるかも、解決へ導いてくれるかも……立派で、かっこよくて、みんなの憧れる存在。
普通はそういった人気者、人格者、権威ある人物に、救いを求めると思います。若者離れ、信徒数の減少が騒がれている教会でも、たくさんの信者がいるところや、受洗者を増やしているところから、何とか伝道のヒントを得たいと牧師や講師を招きます。
過疎化や高齢化で苦しむ教会から誰かを呼ぼう……なんて発想は、たぶんなかなかありません。
他の問題だって、家で一番弱々しい子や、クラスでパッとしない生徒、今にも潰れそうな診療所へ行って、助けを求めようとは思いません。そんな所から自分を救ってくれる人なんて現れない。
厄介な問題を解決してくれる人は、私を苦しみから解放する人は、私と同じような泥沼の中からじゃなくて、乾いた地上から手を差し伸べてくれるはず。そうじゃなきゃ、一緒にアップアップと溺れてしまうだけでしょう。
皆さんは、自分と同じように苦しんでいる人、もがいている人に救いを求めたことがあるでしょうか? 余命いくばくの者、借金を返せない者、窓際に追いやられた者に、「私を助けて」と言うでしょうか?
私を救うヒーローがそんな所にいるわけない! もっと豊かで安定した、安心して頼れる場所から来るはずだ……そう感じるかもしれません。
今日は見てのとおり、アドヴェント第一週目を示すろうそくが立てられています。救い主の誕生を祝う準備をし、その再臨を願い求める日曜日。
不当な暴力から守ってくれる、残酷な現実を壊してくれる、傷ついた関係を癒してくれる、そんな救いが訪れることを期待して、この時期、私たちは祈りをささげます。どうか主よ、救い主、救世主を送ってください、私のヒーローに会わせてください、と。
【そこじゃないはず】
おそらく、私たちのうちほとんどは「神の国」「神の支配」が完成する日を願う以上に、目の前の問題が解決されることを願うでしょう。色々な仕方で、自分にとってのヒーローが現れるのを期待します。
それは、家族の誰かが帰って来ることかもしれないし、新しい友達ができることかもしれないし、探し求めた先生に出会えることかもしれません。
クラスでいじめに遭遇している子どもなら、転校生や新しい先生がやって来て、問題の解決に向かうことを夢見ているかもしれません。政治に失望している大人なら、新しい政党を打ち立てるすごい奴が現れるのを期待しているかもしれません。
でも、もしかしたら私たちは、自分を救ってくれる、助けてくれる誰かと出会っても、それに気づかないかもしれない……神様は、「そんな所にいるわけない!」と思うところから、度々、強力な助けをもたらしました。
数千年前、イスラエルを外国の脅威から救ったダビデ王は、王の血筋から生まれた者ではありませんでした。田舎で羊を飼って暮らす、つまらない出自の男でした*1。
しかも、彼は8人いる兄弟の末っ子で、父親が息子を紹介するとき、数にも入れてもらえなかった子どもでした*2。
最初、ダビデが現れたとき、王をはじめ、どの兵士も彼に頼ろうとは思いませんでした。この子が自分たちを救うなんて考えてもいませんでした。しかし、誰一人倒せなかった2メートル以上の大男を、この少年は一人で倒してしまいます*3。
こんなところから、そんな場所から、新しい王なんて出るわけない! 誰もがそう考えているところから、神様は最も偉大な王を出しました。
クリスマスの夜、この世に遣わされた神の御子イエス様も、立派な王宮や神殿ではなく、動物の匂いがこもった家畜小屋の中で生まれました。しかも、御子の両親となったのは、貧しい大工の夫婦です*4。
妊娠しているのに、医者一人呼ぶこともできない、宿屋に泊まる余裕さえない。野宿している羊飼い*5とそう変わらない環境の中で、救い主は誕生しました。できないことだらけの人たちと同じ場所、保証も尊敬もないところ。
教室の隅っこで、落書きされた机に座る目立たない生徒。他の子と同じように、クラスの暴君に虐げられ、だいたい俯いて過ごしている。
「この子が私を救えるわけがない」「あいつを止められるはずがない」……誰もがそう思っていたのに、その子は周りに働きかけます。
蔑まれている子に声をかけ、自分もみんなからシカトされる。友達になった子からは見捨てられ、仲の良かった人に裏切られる。それなのに、いじめっ子にさえ「一緒に飯を食わないか」と声をかける。
勇気と根性のある人が、問題児を抑えて勝利するのを期待していた生徒たちは、彼が蔑まれても、殴られても、一切抵抗しないため、だんだん腹を立てていきます。
やっぱり、こいつは私たちを助けられない。こんな軟弱者が、教室を平和にできるわけがない。
しかし、誰にも声をかけてもらえなかった、周りが嫌っていた人たちの中には、「彼こそが私のヒーローだ」と思う人も出てきました。このクラスを変えてくれるのは、突然やって来た転校生か、他の教室から様子を見に来た陽キャの誰かと思っていた。
でも、私と同じ、目立たない教室の隅っこにいた人間が、虐げられている人間が、私に声をかけてくれた。私を友達と呼んで、見捨てられても、裏切られても、赦してくれた。この教室を平和にするのは、きっと彼のような人間だ。
そう気づかされたのは、決して、最初から彼を応援していた人たちではありませんでした。良い子に、正直に過ごしてきた者ではありませんでした。むしろ、臆病で、嘘つきで、同情されることも少ない、隅っこにいた人たちでした。
【準備してない所へ】
救い主が助けた人たちは、決して、彼を迎える準備ができていた者ではありません。初めから喜んで迎えた人たちじゃありません。
むしろ、戸惑い、疑い、混乱している人たちです。先ほど読んだ、ヨハネによる福音書7章25節から31節の記事にも、イエス様を救い主メシアと信じられない人たちの戸惑いが記されています。
「わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」
そう、イエス様が生まれたのはガリラヤにあるナザレの村。「ナザレから何か良いものが出るだろうか?*6」と言われるくらい、何の変哲もない田舎でした。
救い主は、そんなつまらない所から来るわけない。私たちの知らない高尚な場所から来るはずだ。そう考えていた人が多かったようです。しかし、戸惑いながらも、群衆の中にはイエス様を信じる者が大勢いました。
病気が移ると恐れられ、近づくことを嫌がられている人たちに、ためらうことなく手を触れて、町や村、自分の家へ帰るよう促してくれたイエス様……この方の奇跡が救いでなくて何だろう? 神からのものでなくて何だろう?
イエス様がメシアと確信できない中、心が揺れ動いていた人たちにも、キリストは変化と回復をもたらしました。「救い主がそんな所に行くわけない!」と思われていた罪人の溜まり場や、信仰の異なる地域へも行きました。
山々を行き巡り、色んな人を訪ねた足は、埃をかぶり泥にまみれて、あまり綺麗とは言えなかったでしょう。
病人を訪ねれば病気がうつる、罪人を訪ねれば汚れに染まる……一般的にはそう見られても、訪ねられた人たちの目には、その足が美しく見えました。
イエス様は、ユダヤ人から不当に金を巻き上げていた徴税人ザアカイの元にもやって来て、「今夜、あなたの家に泊まりたい」と呼びかけました*7。
ザアカイは何も準備ができていませんでしたが、この呼びかけを聞いてすぐ自分の家に案内し、イエス様を迎え入れます。
準備ができていなかった者へ、準備をさせてしまうイエス様。自分が来ると分かっていなかった者たちに、癒しと回復をもたらす救い主……その方の再臨を、今私たちも待っています。たぶん、期待した形で現れるわけではありません。
私たちが思ってもみないところから、思いもしないところへと、神様は救いをもたらします。何が救いをもたらすのか、理解もできていないのに……この方は、当然迎えられるはずのない者たちを、迎える者へと変えるんです。
宿屋に泊まれなかった夫婦、野宿していた羊飼い、信仰の異なる地域の学者……何の準備もなかった人々が、救い主を最初に迎えて礼拝した。「そんな所にいるわけない」「そんな所へ行くわけない」と思われた神の御子イエス様と出会っていった。
誰かを裏切り、誰かを見捨て、誰かを失望させた自分。変わりたくても変われない、罪を犯したままの自分……神様に救ってもらうには、全然準備ができてない。そんな私のところへ、あなたのところへ、イエス様はやって来ます。
散らかっている家の前で戸を叩き、「今夜あなたのところに泊まりたい」と呼びかけます。私たちに求められていることはただ一つ、急いで掃除することでも、取り繕うことでもありません。
今、扉を開いて迎えることです。必要な準備はそれだけです。ドアノブに手をかけ、回すこと。クリスマスまでの4週間、救い主の到来に備えて祈りましょう。