ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『会見を開くパウロ』 使徒言行録24:10〜21

日曜礼拝 2020年7月19日


『会見を開くパウロ』日曜礼拝 2020年7月19日

 

 

招 詞

あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれるゆえに。(ミカ書7:18)

 

讃美歌

讃美歌21の419番を歌いましょう。前後左右の人と十分に距離を取って、マスクをしたまま歌います。マスクをしておられない方は、受付で使い捨てマスクをお受け取りください。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、職場で、施設で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様、岐阜県内で、再び新型コロナウイルスのクラスター感染が起きました。どうか今、治療している本人やご家族、対応している病院や学校のみんなを助け、回復へと導いてください。

◆私たちの神様、人種、性別、出身、容姿、職業などを理由に差別・抑圧を受けている人たちが、生きやすさを取り戻せるように導いてください。生きにくさを生み出す力に加担するとき、私たちの心に呼びかけ、変わらせてください。

◆私たちの神様、誰かに期待し、自分の思いをぶつけるとき、その人の意志と人格を尊重できるよう、一人一人を導いてください。健全で、対等な関係が築けるように、私たちの間に想像力をもたらしてください。

◆私たちに現れたイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録24:10〜21(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Hans BraxmeierによるPixabayからの画像

メッセージ

会見を開く

初代教会の宣教者、パウロがどんなふうにイエス様のことを伝えていったか、改めて聖書を見直してみると、およそまともな伝道とは言えません。何かを布教する際、多くの人はなるべく警戒されないように、別に怪しい者ではないですよと言うように、ジワジワと相手に興味を持たせていきます。

 

ところが、パウロの場合は思いっきり警戒される場所、議会や裁判所、取り調べを受けている状況で、人々にイエス様のことを伝えていきます。それも一度や二度ではありません。路傍や街中でメッセージを語るならまだしも、逮捕され訴えられている現場を宣教の舞台にするなんて、正気の沙汰じゃありません。

 

たとえるなら、犯罪の容疑をかけられている聖職者が、弁明のために開かれた会見で、イエス様との出会いを語り始めるような状況です。これってなかなかヤバい奴ですよね? いくら無実だったとしても、これ以上目をつけられないよう、普通は怪しまれる言動を控えます。

 

けれども彼は、群衆を扇動してローマを混乱させようとし、ユダヤ人の聖域である神殿に異邦人を連れこんだとして、虚偽の訴えを起こされた中、キッパリと容疑を否認しつつも、めちゃくちゃ怪しい話を始めるんです。「私は死んだはずのイエス様と出会い、自分が迫害していたキリスト教を広める者となりました……」

 

事件の真相

そう、パウロは度々犯罪者として捕らえられ、公の場で弁明するよう求められ、自分に対する訴えが事実でないと説明しながら、喜んでイエス様の話を始めます。そのパターンの多いこと……「路傍伝道」ならぬ「会見伝道」です。普通は懲りて、「もう捕まりたくない」「もう訴えられたくない」と口を閉ざしそうですが、彼は語るのを止めません。

 

もともとパウロは、ユダヤ教の異端、「分派」と見られていたキリスト教を迫害し、取り締まる側の人間でした。ところが、その彼がキリスト教に寝返ったと聞いて、多くのユダヤ人、特にファリサイ派の人々は、裏切られた気持ちになりました。そして彼を殺そうと様々な試みがなされ、虚偽の訴えが起こされました。

 

そんな中、パウロは水を得た魚のように、議会で、法廷で、裁判所で、繰り返し弁明していきます。もし、身の安全を確保するだけなら、「自分に対する訴えは反感を持つ人たちによる事実誤認と曲解に基づくもので、私は何の罪も犯していない」と言うだけでよかったんです。

 

ところが、彼は聞かれてもいない過去の話、無実のキリスト者を殺すために捕らえて回っていたことを話し、自分の過ちを告白します。そして、なぜそれが間違いだったと気づいたのか、なぜイエス様を信じるようになったのか、元々仲間であったユダヤ人に、傍聴しているローマ人に、説明していくんです。

 

過ちと弁明

私たちは、政治家や企業や芸能人がニュースで会見を開く度に、そこで説明責任を果たしているか、都合の悪いことを伏せていないか気にします。中には、自分を正当化しようとして、言い訳に終始していたり、会見そのものを避けようとする人もいます。けれども、パウロの場合、進んで弁明の場を求め、赤裸々な過去も語ります。

 

無実を勝ち取るためには一言多い、裁判が長引くような話も厭わず、正直に、イエス様と出会う前、出会った後の自分の歩みを語ります。不思議なことに、怪しまれ、警戒され、受け入れられないはずの彼の言葉は、多くの人に伝播していきます。

 

正しくなかった自分自身に新しい生き方が与えられたように、「正しい者も正しくない者もやがて復活する」……イエス様が永遠の命を与えられる。どうかそのことを信じてほしい。私を訴えるあなたも、私を取り調べるあなたも、私を否定するあなたにも、この方はやって来るのだから。

 

伝道にならないはずの状況で、宣教にならないはずの環境で、捕らえられ、監禁され、どこにも出ていけない場所で、パウロはイエス様を広く伝えていきました。奇しくも、今年度私たちは、新型コロナによる影響で、まさに家から出られない中、こんな年題聖句を掲げています。

 

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」……マルコによる福音書1:38に記されたイエス様の言葉、今の私たちにギャップと皮肉を突きつける言葉です。しかし、パウロも同じギャップを抱えていました。イエス様のように町や村へ出ていけない。ここで足止めされている。

 

にもかかわらず、彼の言葉は法廷から、議会から、牢獄から広がって、多くの人へ、イエス様との出会いをもたらします。キリスト者のくせに捕まり、訴えられ、海や湖で事故に遭い、蛇に噛まれ、石を投げられ、病気にかかる……弱く、不自由で、不完全な者の言葉なのに、町から町へ、村から村へ広がって、人々に救いをもたらしていく。

 

広がる福音

宣教とは、そういう業なんです。立派で綺麗なところから、みんなが憧れるところから語られるものじゃないんです。むしろ、行きたいところへ行けないにもかかわらず、完全な者から程遠いにもかかわらず、「今、私のもとに来ているイエス様」を証しするのが宣教なんです。

 

私たちがイエス様を伝えるとき、そこは褒められた場所じゃないかもしれません。散らかった部屋の隅っこか、窓際に追いやられた仕事場か、後片付けの残った部室かもしれません。誰かに責められ、弁明を求められている最悪な現場かもしれません。こんなところで、新しい生き方が生まれるなんて思いもしない。

 

けれどそこにイエス様はやって来て、あなたと出会い、あなたを仲介人にするんです。私と彼らを出会わせてほしいと頼むんです。時には自分を訴えている相手にまで……厄介な方に捕まりました。イエス様は役に立ちそうにない、不自由で不完全な私にも本気で言ってくるんです。さあ、一緒にほかの町や村へ行こう……私たちも行きましょう。

 

紹 介

本日、初めて教会に来られた方、久しぶりに来られた方で、紹介をご了承いただいた方のみ、受付の方と一緒にお立ちください。今日は( )名の方が来てくださいました。配信に乗らないようにお名前は後ほど紹介させていただきます。神様の平和が皆さんと共にありますように。

 

とりなし

共に、礼拝につながった者として、とりなしの務めを果たしましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス・キリストが私たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。

主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

(*新来者が来られたとき)献金は神様の恵みに対する感謝の応答です。教会の維持や運営、地区や教区の働き、福祉や慈善活動への寄付に使われます。金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、受付で配られた袋をそのままお入れください。

 

讃美歌

オンライン讃美歌『恐れ惑うこの身に』(©柳本和良)を歌いましょう。先ほどと同じく、前後左右の人と十分に距離を取って、マスクをしたまま歌います。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。

あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。アーメン。(詩篇67:2-3)