ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『誰を信用しているか?』使徒言行録27:1〜12

聖書研究祈祷会 2024年4月10日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の454番「愛する神にのみ」を歌いしょう。最後の「アーメン」は、つけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆命の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。先週のイースターと今週の墓前礼拝を、それぞれあなたが導いてくださり、無事に執り行えたことを感謝致します。どうか今、これらの礼拝へ出られなかった人たちにも、また新しく、御言葉を受ける機会がもたらされますように。

◆私たちの神様。今月末には、華陽教会の定期教会総会と役員選挙を控えています。どうか今、今年度の教会運営と方針について、誠実に協議することができるよう、私たちを導いてください。

◆私たちの神様。だんだんと、心身が衰えたり、交通手段がなくなったり、礼拝へ参加することが困難になっている人たちがいます。どうか今、あなたの恵みと力を受けて、共に信仰生活を支え合えるよう、良い知恵と働きをもたらしてください。

◆よみがえりの主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録27:1〜12の新共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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851878によるPixabayからの画像

メッセージ

イエス・キリストの教えと業をローマでも証しするため、宣教者パウロは囚人として、皇帝のもとへ護送されていきました。普通、囚人として捕えられ、兵隊に囲まれて生活する、というのは、宣教が中断され、妨害されている状態だと感じます。しかし、パウロを捕えてローマへ連れていく人たちこそ、彼が遣わされた宣教相手でもありました。
 
そのことを象徴するかのように、自由に宣教できないはずのパウロは、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスから親切に扱われ、友人たちのところへ行って、もてなしを受けることを許してもらえます。囚人が、友人と自由に接触できるというのは、脱走や共謀の危険があり、本来、許されるはずがありません。
 
しかも、皇帝直属部隊の百人隊長が、そんなリスクを犯してパウロを親切に扱った、というのは、やはり驚きです。囚人を護送する見張り役というより、宣教師に便宜を図る有力者のようです。このように、使徒言行録に出てくる、パウロの逮捕、投獄、裁判といった出来事は、いずれも、単なる苦難や困難としては描かれません。
 
彼を捕えた人たちが、彼の宣教相手であり、彼の捕えられた場所が、彼の遣わされた場所であり、彼に裁きを下す所が、彼の証しをする家として「見えない教会」が建てられる様子を描いています。使徒言行録に記された、聖霊による導きは、分かりやすい「成功」や「解決」をもたらすものとは違います。
 
むしろ、神様に遣わされたはずの使命が中断された、妨げられた、台無しにされたというシーンで、思ってもみない形で、神の御業が進んでいる……という良い知らせを伝えています。確かに、コロナ禍で宣教が中断された、自由に集まれなくなった、と思っていた私たちにも、配信を通して新たな仲間が加えられ、転入会者や受洗希望者が出てきました。
 
もちろん、コロナ禍の間は、祈っても、祈っても、なかなか感染症が収束しない事態を前に、「私たちがここでしている礼拝は、伝道は、何か間違っているんだろうか?」「私たちがここでやっていることは、御心じゃなかったんだろうか?」と自信を失くすこともありました。
 
きっと、パウロも同じだったと思います。自分がエルサレムへ帰ってきたことは、ローマへ行こうとしたことは、御心じゃなかったんだろうか?……しかし、議会で、監獄で、護送船で、彼は日々、気づかされていきます。違う、今、私が居る所こそ、私が立ち止まらされているこの場所こそ、神様が遣わした家であり、使命を果たす場所なんだ……と。
 
そして、彼と共に、同行を許された友人たちも、パウロと同様、幾度も、苦難や困難に遭いながら、彼についていくことを「御心じゃなかった」とは言わず、彼と一緒にローマを目指し続けます。27章の2節に出てきた、テサロニケ出身のマケドニア人、アリスタルコという人は、19章の29節と20章の4節にも出てきた人物です。
 
彼は、パウロと一緒に居たことで、エフェソの町で、異なる信仰の人たちに捕えられ、野外劇場へなだれ込んでいく群衆に、連れ回された人でした。一時、アリスタルコの安否は分からないままでしたが、どうやら騒動が治まった後、何とかパウロと合流できたみたいです。
 
けれども、その後もパウロと同行する度に、パウロを殺そうとする者、貶めようとする者が現れ、しばしば危険な目に遭います。パウロと離れ離れになっては、何とか合流して世話をする……ということが続きます。今回も、ローマへ護送されるパウロにようやく合流し、出発できたところで、向かい風による立ち往生を喰らいました。
 
これも、単なる立ち往生じゃありません。幾日も船足がはかどらず、ようやく近づいた港にも、風に行く手を阻まれます。何とか遠回りして、違う港に着いたときには、そこで冬を越すことが厳しい状況になっていました。奇しくも、「断食日」を過ぎたとき、ユダヤの暦で、神様に自らの罪を悔い改める「大贖罪日」を過ぎたときです。
 
船に乗っている人たちへ、神様から、何か罪を責められているように感じたかもしれません。旧約聖書にも、神様から「ニネベの街へ行け」と命じられたヨナが、それに逆らって逆方向の船に乗り、激しい風によって、進行を妨げられた話が出てきました。その風は船を転覆させる勢いで、ヨナが海に投げ込まれるまで、止むことがありませんでした。
 
同じように、向かい風によって船が進まなくなり、ローマへ行くことが困難になった自分たちの状況は「自分が同行するパウロに、神様は何か怒っているんじゃないか?」と感じても、仕方がないかもしれません。イエス様が、弟子たちと一緒に乗った舟の上で、嵐を鎮めたのと違って、パウロは、風も波も止められません。
 
「本当に、この人は神様に守られているんだろうか?」「ここまで危険な目に遭うのは、この人と一緒に行くなというしるしじゃないか?」……そのように疑っても、不思議ではありません。そんな中、パウロは人々に、このまま次の港を目指すのは危険だと訴えます。単なる忠告ではなく、航海に出れば、危険と損失がもたらされると預言します。
 
けれども、当初、パウロに好意的だった百人隊長ユリウスは、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用し、冬を越すのに適していないこの港より、フェニクス港を目指して出発することを決めました。実際、パウロは船乗りでも、航海の専門家でもないので、このように判断するのは不自然ではありません。
 
でも、もしかしたら、それだけでなく、船に乗っている人たちの間で、パウロに対する信用が、保てなくなったのかもしれません。神様に遣わされて、ローマへ行くと言いながら、囚われの身となり、風に阻まれ、冬を越すのも危険な状況になっているのは、彼の言っていることが「御心じゃないから」「神様の意志と違うから」じゃないか?
 
一方で、これまでもパウロと一緒に居て、群衆に捕えられたり、危険な目に遭ったり、離れ離れになってきた友人たち、アリスタルコらは、そのまま船を降りることなく、パウロと一緒についていきます。なかなかローマに着かないから、何度も行く手を阻まれるから、この道は神様の意志じゃない……と安易に結論づけません。
 
彼らは単純に、パウロの言うことを信用したというよりも、困難の中、御業を進めてきた神様のことを信用して、一緒について行きました。たとえ危険な目に遭っても、船が壊れて離れ離れになったとしても、神様は私たちを引き合わせてくれる。私たちを、必要なとき、必要なところへ連れて行ってくれる。これまでのように……。
 
皆さんは、誰を信用するでしょうか? 言うことを聞かなかったら、私たちを翻弄して心を折るような方でしょうか? それとも、私たちが「失敗した」「もう駄目だ」と思っているとき、「成し遂げられた」と前を指し、御業が進んでいることを示す、希望をもたらす方でしょうか? 
 
キリストの復活を記念するイースターから一週間、新たな年度を迎えて、歩みを進める私たちに、今日も風が吹いてきます。それは、ただの向かい風ではありません。あなたに命を吹き込む神の息、聖霊が注がれる風でもあります。御心が分からなくて、立ち往生している全ての人に、神の息が、新たな力を与えてくれますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(沖縄県石垣市の平真教会)のために、幼稚園のために、学校のために、高齢者施設のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆沖縄県石垣市の平真教会のために祈ります。会衆と牧師の健康が守られ、地域とのつながりが豊かにされ、ますます、あなたの愛と平和を現す場所となりますように。特に、弱っている人が安心できる所となれますように。

◆幼稚園のために祈ります。芽含幼稚園をはじめ、新学期をスタートしたそれぞれの幼稚園、保育園に、あなたの導きが豊かにありますように。特に、お母さんやお父さんと離れて、最初は寂しくなる子どもたちに、あなたの励ましがありますように。

◆学校のために祈ります。中部学院大学や済美高校をはじめ、学校へ通い始めた生徒や学生、職員に、あなたの恵みが豊かにありますように。特に、友達ができるか不安な人や環境の変化に敏感な人へ、あなたの助けがありますように。

◆高齢者施設のために祈ります。「シルバーホームまきば」をはじめ、愛知や岐阜の高齢者施設で働く人々、入居者の上に、あなたの慈しみがありますように。特に、心身の衰えや状況の変化についていけない人たちへ、あなたの支えがありますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌11番「どうか平和の主が」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

 

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。なお、来週の水曜日は、『暴風に襲われると言えば』と題して、使徒言行録27:13〜32のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。