ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『私も冒涜していました』 使徒言行録26:1〜18

聖書研究祈祷会 2024年3月20日


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案 内

華陽教会では、賛美中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の)306番「あなたもそこにいたのか」を歌います。最後の「アーメン」は、つけずに歌います。諸事情でマスクの着用ができない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆共に悲しみ、共に喜ぶ神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改めつつ、イースターの準備をする、受難節第5週目を迎えました。どうか今、受難週に備えて、もう一度自分を振り返り、あなたの慈しみを覚えさせてください。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念する日曜日まで、あと2週間となりました。どうか今、華陽教会で転入される予定の人、岐阜地区で洗礼を受ける予定の人、新たに教会へ来ようとしている人たちと、豊かに喜びを分かち合う準備ができますように。

◆私たちの神様。身内が病気で苦しんでいる人や、これから見送ろうとしている人、自分自身を労る時間のない人たちに、あなたの労いがありますように。どうか今、癒しと、復活と、未来の希望が、それぞれにもたらされますように。

◆私たちの間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録26:1〜18の新共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

メッセージ

キリストの復活を記念するイースターまで、残り2週間となりました。いよいよ、来週には、イエス様が十字架につけられるまでの最後の一週間を思い起こす「受難週」に入ります。一部の教会では、礼拝堂から全ての飾りが取り払われ、イエス様の受けた苦しみと十字架の死を思い起こすため、静かに祈って過ごします。

 

一方で、静かに過ごせない人たちもいます。まさに今、自分自身が痛めつけられ、苦しめられ、叫び声を挙げている人……身内を支えるため、助けるために奔走している人……大きな事件に巻き込まれ、解決のために足掻いている人……とてもじゃないけど、目の前のことを置いておいて、神の子が受けた苦しみを、静かに思い起こす余裕はない。

 

イエス様は逮捕され、訴えられ、鞭打たれて傷つきながらも、十字架につけられるまで、静かに、大人しくしていました。訴えに反論することも、暴力に抵抗することも、侮辱に抗うこともありませんでした。そんなイエス様の最期の姿を、静かに思い起こすというのは、今まさに、事件の渦中に身を置くときに、なかなかできることではありません。

 

あっちで抵抗し、こっちで反論し、必死になって叫んでいるけど、周りはなかなか聞いてくれない。全然理解してくれない。ますます声を荒げながら、「これじゃあ、黙って静かに十字架へかかったイエス様から、どんどん離れてしまうだろうか」……と自嘲気味に自分を振り返る人も、いるかもしれません。

 

大切なことのため、正しいことのため、闘っているつもりだけど、ときどき、自分が愚かに思えてくる。口をつぐんで、抵抗せずに、流れに委ねてしまった方が、大人なようにも思えてくる。今の自分を神様が見たら、バタバタと足掻いている姿を見たら、やっぱりイエス様から程遠いと言われるだろうか? 誰か、お手本にできる人はいないだろうか?

 

実は、イエス様と同じように逮捕され、暴行を受け、裁判に引き出されていった人が、使徒言行録に出てきました。事件に巻き込まれたとき、どのようにキリストへならったのか見せてくれる人がいました。それが、ユダヤ人に訴えられ、ローマ人に捕まって、何度も法廷に引き出された宣教者パウロです。

 

彼が、群衆に捕えられ、「その男を殺してしまえ」と罵られ、無実の罪で訴えられて、ローマ兵に引かれていく様子は、イエス様が十字架につけられるときの様子を彷彿とさせるものでした。まさに、キリストにならって、キリストのように、引かれていく姿でした。けれども、決定的に違ったことが一つ、ありました。

 

それは、裁判に引き出されたイエス様が、ほとんど何も、弁明しなかったのに対し、パウロはどの裁判でも、しっかり弁明を続けたことです。イエス様は取り調べに対し、ほぼ沈黙を貫いて、静かにしていましたが、パウロは雄弁に自分の半生を語ります。それこそ「パウロ、お前は頭がおかしい」と言われるほど。

 

全然、大人しくありません。スマートでもありません。何せ、彼の弁明を聞いたユダヤ人たちは怒り出し、砂埃を空中にまき散らすほど喚き立てます。ローマ人のフェストゥスからは「頭がおかしい」と呟かれ、パレスチナ全域を支配するアグリッパ王からは「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と呆れられます。

 

公衆の面前で、恥をかかされたシーンです。キリスト教徒が、それも世界宣教を精力的に行った宣教者が、馬鹿にされたシーンです。しかも、彼は、ローマ人への宣教を命じられて、ここに立っています。彼らに証しをして、神の子イエス・キリストを信じてもらうために立っています。つまり、宣教相手から失敗を突きつけられるんです。

 

「あなたの話を聞いても、私は信じられない」と……お手本にするべきじゃないかもしれません。パウロもイエス様のように、黙っているべきだったのかもしれません。静かに抵抗せず、大人しくしていれば、皇帝に上訴なんてしなければ、彼はそのまま、釈放してもらえたでしょう。外へ出て、まともに宣教を再開できたでしょう。

 

けれども、彼は愚かに見られる法廷での宣教を続けます。自分の頭を「おかしい」と言われ、「わたしを説き伏せるつもりか?」と呆れられる中、言葉を紡いで足掻き続けます。彼の語った内容も、決して、かっこいいものではありません。簡単に信用してもらえる、説得力のある言葉ではありません。

 

十字架にかかって死んだはずのイエス様が、光の中で自分に現れた……異邦人を神に立ち帰らせるため、自分が新たな証人として遣わされた……けれど、もともと自分はイエスに反対し、冒涜していた……もう、めちゃくちゃです。普通、そんな奴を神様は仲間にしないだろう? 幻覚でも見たんじゃないか? 誰もが突っ込みたくなります。

 

そう、パウロの弁明は、あまり弁明になりません。「自分を監獄から出してくれ」と主張するなら、「私は罪を犯していません」とだけ言えばいいのに、「頭がおかしい」「この人の証言は信頼できるのか?」と思われかねない、信仰の話をすることは、ただただリスクを高めます。

 

さらに、町の主だった人が集まる法廷の中に、イエス様を信じており、擁護してくれる人がいるかもしれないのに、自分がもともとイエスに反対していたこと、イエスを冒涜していたこと、多くのキリスト者を牢に入れ、死刑になるよう働きかけていたことを告白するのは、余計にリスクです。そんな過去があるなら擁護できないかもしれません。

 

加えて、ローマ総督の許可なく、死刑を執行することは許されなかったはずのユダヤ人が、祭司長たちと手を組んで、死刑の執行に手を貸した……という過去は、下手すれば、そっちの罪が取り沙汰されかねない話です。何せ、ローマの法律では、ユダヤ人たちが、キリスト者の死刑を要求しても、本来、許可されるはずがなかったからです。

 

つまり、パウロがキリスト者として、過去の罪を告白することは、ローマ市民として、法を犯した過去にも触れてしまう……ということになり得ました。幸い、この件でパウロは追及を受けませんが、「私もイエスを冒涜していた」「彼らの仲間を死刑にしていた」と告白するのは、本当に、この場で罰を負いかねない、危険な行為だったんです。

 

けれども、パウロは語るのをやめられません。アグリッパ王以上に、ユダヤ人の慣習や論争点を熟知し、ローマの市民権も所有していた彼自身が、そのリスクを知らないはずはありませんが、愚かに思われても、擁護してもらえなくても、イエス様を信じた経緯を語らずにはいられません。

 

なぜなら、イエス様がそこに居たからです。鎖につながれた彼と共に軛を負い、力強く証しをするよう、語らせ続ける方がいたからです。パウロはイエス様と違って、法廷で静かにしていませんでしたが、それは決して、イエス様から離れた姿ではありませんでした。イエス様と「同じ」ではないけれど、イエス様と「一緒に」歩む姿でした。

 

受難節に、イエス様の受けた苦しみを覚えて、イースターの準備をする歩みも、自分が思い描く、理想通りには進まないかもしれません。静かに、スマートに、祈ったり、心を落ち着かせることはできないかもしれません。しかし、心騒ぐあなたと共に、静かにできないあなたと共に、イエス様はこの道を歩まれているんです。

 

情けない、愚かな、恥ずかしい姿を晒してしまう、自分自身を振り返るなら、あなたの隣も見ましょう。そこには、裸に剥かれ、辱められ、頭を垂れたイエス様が、あなたと共におられます。罪人の自分と横に並んで、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、宣言される方がいます。共に、恵みの分け前にあずかりなさい。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている、千葉県八千代市の勝田台教会のために、性的少数者のために、障がい者のために、少数民族のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆千葉県八千代市の勝田台教会のために祈ります。この教会の一人一人が、神様の示された新しい道を歩み、祈りのうちに、与えられた賜物を生かして進んでいくことができますように。日曜の礼拝、教会学校、聖書研究祈祷会が守られますように。

◆性的少数者のために祈ります。性的指向や性自認が、多数派と異なる方々に、あなたの恵みが変わらずありますように。教会でも、社会でも、家庭でも、尊厳が回復され、人格を否定されずに生きていくことができますように。

◆障がい者のために祈ります。発達障害、精神障害、身体障害がある方々に、あなたの慈しみがありますように。心無い言葉や態度から守られ、二次障害が改善し、一人一人が、少しでも生きやすい世の中になりますように。

◆少数民族のために祈ります。各地で、弾圧や迫害を受けている少数民族や、自らのルーツ、信仰、言葉の違いで抑圧を受けている人たちに、あなたの憐れみがありますように。現状が見直され、互いを理解する土台が造られていきますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌19番「悲しみながら立ち去るとき」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

 

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

また、イースターを迎えるまで、聖書研究祈祷会後の14:30から15:00ごろまで、受洗勉強会も開いています。洗礼を希望する方、まだ予定はないけど学びに興味のある方、洗礼を受けているけど、もう一度学んで見たい方など、気軽にご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。