ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『証拠なんてあげない』 マタイによる福音書12:38〜42

日曜礼拝 2021年4月18日


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案 内

華陽教会では現在の医療提供体制を踏まえて、第一・三日曜日と第二・四日曜日に会衆が半分ずつ、数カ所に分かれて集まる小規模礼拝を行っています。共に今、教会にいる人も自宅にいる人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

招 詞

あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。(コロサイの信徒への手紙3:4)

 

讃美歌

マスクをしたままで、旧讃美歌291番「主にまかせよ」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆復活と希望の主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今日は、4回に分かれて行うイースター礼拝の3回目です。先週、先々週に引き続き、今日も来られなかった人のことを思います。どうか今、顔を合わせられない人たちを助け、豊かなつながりをもたらしてください。

◆私たちの神様。全国の感染状況が再びステージ3となり、教会に集まって礼拝を続けるか、選択が迫られています。どうか今、あなたに対し、地域に対し、会衆に対し、誠実な態度と判断ができるように、この後の私たちを導いてください。

◆私たちの神様。既に、クラスターとなった愛知や岐阜の人々を癒してください。ここに集まった人たちの健康も守ってください。どうか今、復活を記念する喜びが、怒りと悲しみで覆われないよう、私たちの間にいてください。

◆人と人とを結び合わせる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書12:38〜42(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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drippycatによるPixabayからの画像

メッセージ

「死者が生き返った話を信じなさい」と言われたら、十中八九、私たちは証拠を求めます。本当に生き返ったなら、そのシーンを見せてくれ。生き返った人と合わせてくれ。死んだふりじゃないことを、別人じゃないことを、現実に起きたことを、証明するしるしを見せてくれ。

 

間違った態度じゃありません。当然の要求です。もし、嘘をつかれていたら、正しくない情報なら、いいように踊らされるかもしれません。フェイクニュースを広めてしまうかもしれません。陰謀論を振りまいて、世間に迷惑をかけるかもしれません。被害者や加害者にならないように、狂信的な行動を取らないように、問いを持つことは必須です。

 

でも、キリスト教では「イエス様の復活を信じなさい」と言われます。神の子が十字架につけられて死に、3日目に甦ったことを信じなさい。ここ数年で、教会を超えて大きなイベントになっているイースターも、イエス様が復活した日を記念する行事です。この日あの方が生き返った。墓から出てきてみんなに会った。そのことを思い起こしなさい。

 

正直これだけが、復活だけが、どうしても分からない、信じられない、腑に落ちない、という人が、教会関係者にもいるでしょう。私が学生の頃、YMCAで知り合った人たちからも、よく言われました。「神様を信じたいと思うし、礼拝も好きだけど、キリストの復活だけは信じられない。納得できない。だから信じますと言えない」

 

なにせ、教会ではこう言われます。「見たから信じるのではなく、見ないで信じる者となりなさい」もし、イエス様がいた証拠を、復活したしるしを見せてくれ、と願おうものなら、先ほどの聖書箇所が出てきます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」……しるしなんて見ないで、証拠なんてなくても、信じなさい。

 

無茶ですよね? 突然、天から声が聞こえてきて、「信じろ」と言われたら別ですが、普通の人から、生き返ったことのない人間から「復活を信じろ」と言われても、鵜呑みにすることはできません。だってそんなの、神様が言ったことか、人間の思い込みか、分からないじゃないですか?……本当に?……しるしはないの?……何か証拠は?

 

納得しよう、受け入れようとする人ほど、誠実に信じようとする人ほど、これらの問いを避けられません。「信仰」と「思い込み」とを一緒にしたくないから。信じるものがまやかしではなく、虚構ではなく、自分も他者も、すがっていいものか確かめたい。そういう態度を「不信仰」と切り捨てることはできません。

 

でも、「本当か?」「真実か?」と疑う人に、聖書はけっこう手厳しい。「先生、しるしを見せてください」何人かの律法学者とファリサイ派の人が問うたとき、イエス様は言いました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」……グサッと来ますよね。彼らが求めたのは、病人を癒すイエス様の奇跡が、本物かどうかというしるしでした。

 

本当に神の力なら、目の前で証拠を見せてくれ。これも当然の要求でしょう。ただ、律法学者やファリサイ派の人々は、イエス様の奇跡を何度も見ているはずでした。だって、これまでも自分たちの前で、手の萎えた人や、足の不自由な人や、盲人を癒していましたから。その度に「安息日に人を癒した」と言って、突っかかっていましたから。

 

どうやら、彼らがしるしを求める態度と、信仰と思い込みを一緒にしたくない人の態度は、違うみたいです。律法学者やファリサイ派は、信じたいから証拠を求めたのではなく、信じないために、信じない理由を探して、証拠を求めたように見えてきます。神の子を受け入れたいからではなく、拒絶したいからしるしを求めた。

 

掟を守れない病人を癒したり、敵対していた異邦人を助けたり、嫌われ者の徴税人を弟子にすることが、神の業だと思いたくなかった。そんなことをする者が神の子だと言いたくなかった。律法学者もファリサイ派も、神に仕え、人々に教える立場でしたが、自分たちの常識を超えて、枠を超えて、人々に働きかける神は、受け入れたくありませんでした。

 

ちょっと、誰かに似ています。実は旧約聖書にも、神に仕える者でありながら、神の言うことを受け入れなかった人がいました。ヨナという有名な預言者です。彼は、「あと40日でニネベの街は滅びる」と訴えて、街の人々を悔い改めさせることに成功し、破滅を免れさせた人間です。しかし、ニネベの街はヨナの嫌いな、救われてほしくない街でした。

 

神様は自分をニネベの街へ行かせて、あれだけ悪いことをしてきた彼らを、異邦人を、救おうとしている。そんなの信じたくない。ヨナは神様に背いて、反対方向の船に乗ります。しかし、船は大嵐に遭い、巻き込まれた船員たちがヨナを悔い改めさせます。ヨナの嫌っていた、避けようとしていた異邦人が、自分の神へ祈るように彼へ促すんです。

 

けれども、ヨナは祈れません。自分を海に放り投げて、神の怒りを沈めたらいいと船員たちに指示します。神様に背いてきたヨナが、ようやくまともに祈るのは、海の中で大きな魚に呑み込まれ、命を救われた後でした。陸地に出るまで、三日三晩、彼は大魚の腹の中にいます。

 

イエス様は、この話を持ち出して、ファリサイ派の人たちにこう言います。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」

 

人の子というのはイエス様のことです。ヨナが海に投げ込まれ、三日三晩、魚の腹の中で過ごして、陸地へ吐き出されたように、イエス様も大地に葬られ、三日三晩、墓の中で過ごしてから、復活した姿を見せる……それが、あなたたちへの「しるし」だと語ります。他にしるしは与えられない。今すぐ証拠なんてあげない。ちょっと意地悪に感じます。

 

でも、不思議ですよね? 本来、海に投げ込まれたヨナに当たるのは、神の業を受け入れてない律法学者やファリサイ派です。大地の中へ、墓の中へ、三日間閉じ込められるべきは、イエス様ではなく、神に背いた彼らです。でも、イエス様は自分が墓の中へ入って、あなたたちの「しるし」になると言う。よこしまで神に背いた者たちのために。

 

信じたいけど信じられない人のためにも、端から信じたくない人のためにも、イエス様は自ら大地に葬られ、復活して姿を現しました。しるしを求め、証拠を求め、さまよっている人たちに、イエス様はささやきます。あなたが大地の中に、魚の腹に、閉じ込められてしまうとき、私もそこに入っている。

 

あなたと一緒に立ち上がり、あなたと一緒に出て来るために、私は大地に飲み込まれ、墓の中から起き上がった……「復活を信じる」というのは、イエス様が自分を起こしてくれる、一緒に立ち上がってくれることを信じることです。疑っていても、信じきれなくても、この方が私を起こしてくれる。私を一人にしないで、一緒に立ち上がってくれる。

 

それを信じられたなら、あなたはもうキリスト者です。信仰を告白し、共に食卓につく準備がされています。目を開き、身を起こし、キリストと共に立ちなさい。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の320番「ハレルヤ、ハレルヤ(息子よ、娘よ)」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

紹 介

本日は、あちらにいる( )人の方が初めて来てくださいました。ようこそいらっしゃいました。配信後、ご了承いただいた方のみ紹介させていただきます。ぜひ、これからも神様の平和が皆さんと共にありますように。(*拍手)

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。お手元にあるとりなしの祈りの用紙をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。 

 

食卓を囲めない日の祈り

 

本日は感染症の流行に伴い、パンとぶどう液をいただく聖餐式を休止し、「食卓を囲めない日の祈り」を行います。共に「命のパン」「命の水」である神の言葉を受け取りましょう。

 

招 き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネ6:35)」「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ6:57)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)」

 

主は、荒れ野で悪魔の誘惑を受け、空腹の中「石がパンになるよう命じたらどうだ」と言われたとき、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マタイ4:4)」と答えました。そうして悪魔は離れ去り、主はガリラヤに帰られて、人々に神の言葉を与えました。

 

今、様々な事情で食卓を囲めない私たちに、主は「命のパン」「命の水」である神の言葉を与えます。食事が喉を通らず水も飲めない人々に、みんなと一緒に食事を味わえない人々に、神様は新しい糧をもたらします。

 

共に、聖書を通して与えられた「神の恵み」「神の祝福」を分かち合う、見えない食卓を囲みましょう。

 

感謝の祈り

恵みと祝福の源である私たちの神様、あなたは私たちの欠乏を満たす「命のパン」「命の水」をお与えになります。孤独に共感を、対立に連帯を、恐怖に信頼をもたらします。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、共に渇き、共に飢え、共に痛みを負われました。

 

ご自分が渇いているときに、孤立した女性に水を求め、新しいつながりを与えました。ご自分が飢えているときに、神の言葉に信頼し、人々に希望を示しました。パンがなく、水がなく、共に食卓を囲めないとき、あなたの言葉一つ一つは、私たちに見えない糧をもたらします。

 

どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和がこの世界を満たしますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神の祝福を宣言しましょう。

皆さんの隣に、前に、後ろにいる人、あるいは離れている人へ、イエス様から与えられた良い知らせを伝えましょう。

 

司式者:主は言われます。

一 同:「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(ルカ23:43)」

司式者:私たちも知らせましょう。

一 同:「主があなたと共におられます」

 

司式者:主は言われます。

一 同:「あなたがたに平和があるように(ヨハネ20:19)」

司式者:私たちも答えましょう。

一 同:「わたしの主、わたしの神よ」

 

応答の祈り

感謝の応答として、共に祈りをささげましょう。

 

信仰と希望と愛をもたらす私たちの神様、今ここで、食卓を囲めない日に、「命のパン」「命の水」であるあなたの言葉を分かち合えたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者がもたらされます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を共に分け合う者として、送り出してください。

 

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。持ち合わせのない方は、受付でもらった献金袋をそのままお入れください。配信を見ておられる教会の方は、また後日来られたときにおささげください。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌「苦難のはざまから」(©️柳本和良)を歌いましょう。(お立ちください)

 

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祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。(コロサイの信徒への手紙3:11)

 

祝 福

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)

 

報 告

本日も、教会に集まって、配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の小規模礼拝は、教会に集まった15名、同時に視聴された9名、計24名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週は、小規模礼拝Bグループです。4回に分かれて行う最後のイースターです。「初めて礼拝に参加したい」「集会に出てみたい」という方は、三密回避の人数調整をしているので、ホームページの「問い合わせフォーム」か、電話にてご相談ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。