召天者記念礼拝 2023年11月5日
説 明
本日は、召天者記念礼拝です。配信には映らないように、教会へ来られた方々が持ち寄った、故人の写真を飾っています。これは、先に召された方々が天において一緒に礼拝していることを覚えつつ、神の国で再会する日を待ち望み、祈りを合わせる礼拝です。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、賛美中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、日曜日の礼拝も配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)
讃美歌
マスクをお付けいただき、旧讃美歌の537番「わが主のみまえに」を歌います。諸事情でマスクを着用できない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。差し支えない方は、お立ちください。
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆世界を創造し、愛される神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。今日は、召天者記念礼拝です。先に召された方々も、天において一緒に礼拝していることを覚えつつ、神の国で再会する希望を持って、みんなで祈りを合わせます。どうか今、残された一人一人に、あなたの慰めと励ましがありますように。
◆私たちの神様。今回は、数年ぶりに、遠方から来られるご遺族の方も、礼拝へ案内することができました。どうか今、久しぶりに顔を合わせた方々や、お墓参りに来られた方々に、あなたの癒しと祝福が豊かにありますように。
◆私たちの神様。午後には、教会員の納骨式と墓前礼拝も行われます。礼拝後に、お墓へ行く人も、用事で帰られる人も、それぞれ、あなたの恵みが豊かにありますように。どうか今、ここへ来られなかったご遺族、ご友人にも、あなたの導きがありますように。
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。創世記3:1〜5、ヨハネによる福音書11:17〜27(新共同訳より抜粋)
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編51:1〜11(新共同訳交読詩編より抜粋)
『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところをお読みください。 |
讃美歌
マスクをお付けいただき、讃美歌21の319番「輝きのこの日」を歌いましょう。差し支えない方は、お立ちください。
メッセージ
キリスト教を信じていたのに、若くして亡くなった人……熱心に教会へ通っていたのに、病気が悪化し、息を引き取った人……家族も必死に祈っていたのに、回復しないまま召された人……そんな現実を目の当たりにする私たちは、聖書に出てくる、神の子、イエス・キリストの言葉に、ショックを受けてしまいます。
「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」……目の前に、亡くなった人の写真があります。信仰を告白し、洗礼を受けて、教会員として歩んだ人もそこにいます。見てのとおり、この人たちはもう死んでいます。「決して死ぬことはない」と言われたのに、イエス様を信じて、亡くなっています。
真の信仰を持っていれば、亡くなることはなかったのか? もっと長生きできたのか? 思わず詰め寄りたくなります。この人の信仰は、本物じゃなかったと言うんですか? 生きている間に、十分な信仰を持てなかったと言うんですか? それとも、体は動かないけれど、意識はあるとでも言うんですか? もう骨と灰しか残ってないのに。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」……イエス様の言葉は意味不明です。どう見ても、死んでいる人を前にして、私たちは混乱します。亡くなった兄弟ラザロが「復活する」と言われた、妹マルタも、混乱しながらこう返します。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております……」
世の終わり、終末の日に、神の国が到来するとき、古い世界にいた私たちは、新しく、完成された天の国に導かれる。その時、死んでいた者は復活し、新しい体に甦って、天の国に受け入れられる……ようするに「天国に迎えられる日に、死んだ兄とも再会できると私は承知しています」と、賢いマルタは答えます。
目の前の死は受け入れましょう。それが正しいことですよね? 妹のように、現実を受け入れられず、泣き続けても、しょうがありません。今すぐ甦らせてくれと言ったって、叶えられるわけありません。愚かで我儘な願いではなく、正しく賢い態度に切り替えて、現実を受け入れる努力をします。そうじゃないと、神様にも、周りにも、迷惑ですよね?
マルタの忖度を感じます。もしかしたら、ここに集まった人の中にも、大切な人の死を受け入れないことは、不信仰だと感じる方がいるかもしれません。神様のもとへ行ったのに、いつか天国で会えるのに、それを受け入れられず、まだ、この世で会わせてほしいと願うなんて、神様を困らせるだけだ……そんな思いをぶつけちゃダメだと。
ところが、イエス様は容赦なく、大切な人に生き返ってほしいと願う人の心を揺さぶります。「あなたの兄弟は復活する」……それって、終わりの日、天の国に入るときのことですよね? と遠慮がちに言うマルタにも、追い討ちをかけてきます。「わたしは復活であり、命である。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない……」
「このことを信じるか?」と問われるイエス様は、マルタに何を期待したんでしょう。マルタは正面から「はい、わたしの兄弟ラザロが復活することを信じます」とは言えません。「わたしの兄弟が生きていることを信じます」とも言えません。死後、4日も経っていて、もう腐敗が始まっています。「生きている」と言わせるなんて酷なことです。
マルタは「ラザロの復活を信じます」とイエス様へ答える代わりに、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と言いました。でも、おそらく、イエス様が聞きたかったのは、そんな、お行儀のいい返事ではありませんでした。イエス様はこの後、マルタの妹、マリアとも出会います。
彼女もまた、「主よ、もしここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えますが、姉と同じく、イエス様に「わたしの兄弟を生き返らせてください」とは頼めません。彼女を慰めていた周りの人も、一緒に泣きながら言いました。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか……」
けれども、その場で「ラザロを生き返らせてほしい」と言い出す者はいませんでした。みんな、「まだ生きているうちに、死なないようにしてほしかった」と言いました。しかし誰も、「ラザロを生き返らせてください」とは言えませんでした。そんなこと頼んでいいとは、願っていいとは、思えませんでした。
そもそも、ラザロとイエス様は、どんな関係だったんでしょう? イエス様も、ラザロのお墓へ案内される途中、興奮して涙を流されます。それを見て、周りの人も「ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いますが、実は、イエス様とラザロの絡みは、ほとんど聖書に記されません。
妹のマルタとマリアの話は出て来ますが、ラザロがイエス様と話すシーンやイエス様の教えを聞くシーン、イエス様を信じるシーンは出てきません。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言うものの、ラザロがイエス様を「神の子」「救い主」「メシア」と信じる様子、告白する様子は、一切描かれませんでした。
書こうにも、書けなかったのかもしれません。マルタとマリアが「イエス様なら助けてくれる」と信じていた一方で、ラザロ本人は、懐疑的だったのかもしれません。もしくは既に寝たきりで、意識がなかったり、意思疎通ができなかったり、まともな状態ではなかったのかもしれません。
マルタが「あなたの兄弟は復活する」「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とイエス様に言われても「主よ、兄の復活を信じます。ラザロを生き返らせてください」と言えなかったのは、彼女自身、自分の兄が「イエス様を信じる者」と言えるのか、自信がなかったからかもしれません。
「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると“わたしは”信じております」という言葉からも、そんな含みが感じられます。兄が、ラザロが、信じていない者だったら、信じないまま死んだ者なら、結局、生き返らせてもらえない。イエス様を信じていなかった、懐疑的だった人間を、生き返らせてほしいなんて、本当に願っていいんだろうか?
ただでさえ、小さな約束も守れない、度々嘘をついてしまう、愚かな「罪人」に過ぎない私たちが、そこまで願っていいんだろうか? マルタだけでなく、マリアも、一緒に来た人たちも、ラザロの死を悔やみながら、誰も、ラザロのために、自分のために、「彼を生き返らせてほしい」とイエス様に頼めません。
イエス様が心に憤りを覚えたのは、誰一人、彼の復活を願えなかった、この状況だったのかもしれません。みんなの中で、ラザロは死んだままでした。生き返ることのない人でした。「信仰によって生きている」と、確信を持てない人でした。けれども、イエス様は彼らの前で宣言します。ラザロが生きていることを、彼が復活することを。
「ラザロ、出て来なさい」……イエス様が大声で叫ぶと、彼はその呼びかけに答えて、墓の中から出て来ます。今まで一度も、イエス様とのやりとりが描かれなかった、イエス様の教えを聞く様子も、イエス様に従う様子も記されなかった、あのラザロが、自らイエス様に答えて出て来ました。ラザロの復活を願えなかった人たちに、光が差しました。
きっと、教会では、信仰深い人として、真面目で敬虔な人として、尊敬された人たちも家族の中では、尊敬できないこともあったでしょう。神様に、イエス様に、従っているとは思えない態度もあったでしょう。また、生きている間に、教会へ来ることも、洗礼を受けることも、信仰を告白することもなく、亡くなった身内もいるでしょう。
しかし、そんな一人一人と、イエス様は関係を結ばれます。私たちの目に、はっきりと信じた様子が見えなくても、確信を持って従ったように見えなくても、神の子、メシアは「あなたの兄弟は復活する」と宣言してくださいます。「この人を生き返らせてください」「新しい命を与えてください」と、私たちが願うことを促します。
自分自身が信じ切れてはいないから、亡くなった故人が信仰者ではなかったから、神様に、救いを求めて祈ることを、ためらっている人たちへ、今日改めて伝えます。「あなたの兄弟は復活する」……イエス様は、あなたの兄弟、姉妹を起こしに来ます。あなた自身も起こしに来ます。その日が来ることを信じなさい。希望を持ちなさい。アーメン。
讃美歌
マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌14番「奮い立て貧しい民よ」(©︎柳本和良)を歌います。差し支えない方は、お立ちください。
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。
紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。
司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。
司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。
司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。
司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。
司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。
司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。
司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。
司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。
司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。
主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。
愛 餐
本日は、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。
讃美歌
マスクをお付けいただき、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。
食卓への招き
かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」
また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」
主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。
信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。
感謝の祈り
感謝の祈りをささげます。
恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。
様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。
配 餐
共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、初めて来た方も、このパンと水は信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。
本日、礼拝に来られているお子さんも、一緒に受け取っていただけます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。係の方は、前へお越しください。(パンと水を配る)
分かち合い
ケースの蓋をお取りください。共に、神の恵みを味わいましょう。
主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。
主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。
感謝の祈り
感謝の祈りをささげましょう。
愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。
足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
マスクをお付けいただき、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」2、3節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
変化と回復をもたらす私たちの神様、あなたから受ける言葉によって私たちは新しく生かされます。今からのち、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、ここにささげた供え物を受け入れてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
マスクをお付けいただき、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。
讃美歌
(頌栄)の賛美歌25番「父・子・聖霊に」を歌いましょう。差し支えない方は、お立ちください。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネによる福音書11:25)
祝 福
主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし、あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった22名、同時に視聴された5名、計27名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。
この後、軽食を挟んで、12時半から上加納にある教会墓園で、墓前礼拝をさせていただきます。一緒に行かれる方は、車で10分ほどの所なので、軽食の後、ご同行ください。墓前礼拝の中で納骨式も行わせていただきます。礼拝は30分ほど、13時半終了予定です。
なお、来週は華陽教会の教会学校奉仕者による信徒立証礼拝です。「コバヤシマル」と題して、菊池真さんがメッセージをしてくださいます。こちらもぜひ、ご出席ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。