ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信仰以外は捨てなさい?』 ルカによる福音書14:25〜33、ガラテヤの信徒への手紙6:14〜18

日曜礼拝 2023年9月10日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、賛美中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、日曜日の礼拝も配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマの信徒への手紙12:1)

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌Ⅱ編の26番「ちいさなかごに」を歌います。諸事情でマスクを着用できない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。差し支えない方は、お立ちください。

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて礼拝に集まることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。先週は、1月から延期していたオープン礼拝と礼拝研修会を無事に開くことができ、感謝致します。どうか今、お互いに共有したことを受け、これからの礼拝も豊かにささげられるよう、導いてください。

◆私たちの神様。昨日の土曜日には、日本基督教団とフィリピン合同教会との教師懇談会が開かれ、近況や課題について分かち合うことができました。どうか今、UCCPの人たちが来年度以降も礼拝の会場を確保できるよう、助けと解決をもたらしてください。

◆私たちの神様。今週の月曜日、火曜日には、岐阜地区の一泊教師研修会が開かれます。どうか今、田瀬、付知、坂下、蘇原、中濃、各務原の教会と、より連携を深めていくことができますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書14:25〜33、ガラテヤの信徒への手紙6:14〜18(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編142:1〜8(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の432番「重荷を負う者」を歌いましょう。差し支えない方は、お立ちください。

 

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メッセージ 

「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」……こう聞くと、信仰者は自分の努力、才能、築き上げてきた信頼を、一切誇ってはならず、全てを神様のおかげ、イエス様のおかげとして、感謝しなければならないんだと、釘を刺された気分になるかもしれません。
 
もちろん、自分が努力できたのも、才能が与えられたのも、色んな人との信頼関係が築けてきたのも、神様の恵みと導きのおかげですが、自分で自分のことを一切誇れない生き方は、なかなか窮屈に感じます。テストで良い点を取っても、大会で賞を取っても、大きな目標を達成しても、自分で自分を褒めようとしたら止められる。
 
自分ではなく、神様に感謝しなさい。あなたの努力ではなく、神様のおかげと思いなさい。自分で自分のことを誇ったら、信仰者としてふさわしくない……もしかしたら、教会で、家庭で、そのように教えられてきた人が、いるかもしれません。でも、神様って、自分の成果は、自分の努力は、褒めさせてくれないんだろうか?

確かに、宣教者パウロは、自分の行いによってではなく、イエス様への信仰によって、神の子とされ、救いにあずかることができると教えました。何かの掟を守ったから、何かの条件を満たしたから、神の国へ受け入れられるのではなく、イエス様が自分を神の国へ招いていると信じることで、神の国へ受け入れられると語りました。
 
ですがそれは、自分の努力、自分が積み上げてきたものに、価値を見出してはならないという教えではありません。神様は、「がんばったよ」「ここまできたよ」という我が子の声に「よくやったね」「ずっと見てたよ」と応えさせない方ではありません。むしろ、誰よりも、私たちの隠れた行い、見てほしい姿を、目に留め続けてきたお方です。
 
パウロが「誇ってはならない」と言ったのは、割礼を受けた人たちが、割礼を受けてない人たちに対し、自分を誇り、同じ信仰者として相手を認めようとしなかったからです。割礼とは、男性の包皮の一部を切り取る儀式で、伝統的なユダヤ人、神の民として選ばれた者の証でした。
 
ユダヤ人であれば、幼少期に親や教師から施されますが、割礼の風習がない異邦人にとって、成人してから受けるのは大きなハードルがありました。大の大人が、誰かに自分の包皮を晒し、一部を切り取ってもらわなければならない。現代であれば、それを強いることは、性的虐待、性暴力の一つです。
 
また、傷が癒えるには時間がかかり、当然、しばらくの間、痛みに悩まされます。まともに仕事もできません。その間に収入が入ってこなくなったり、仕事を失ってしまったりすれば、家族を養うのが困難になります。たとえ、羞恥や痛みを受け入れるだけの覚悟があっても、妻や子どもの生活を案じて、割礼に踏み切れない人たちも居たでしょう。
 
そんな中、「割礼を受けた私はあなたと違う」「私は割礼を受けたから救われるが、あなたは救われない」と言い放つ人々、偽教師や偽使徒と呼ばれる人が、あちこちの教会に訪れていました。聖書に書かれていることを実行できたか、守れているかで、神の子として認められるか、神の国に受け入れられるかが決まるんだ、と教えてしまう教師がいました。
 
そこで、パウロは一生懸命、行いによってではなく、信仰によって救われることを訴えます。神様は、私たち一人一人の努力や行いを見ているし、善い行いを喜んでくださるけれど、一定の努力や条件を満たさなければ、救ってくれない方じゃない。どの掟を守ったか、どの水準に達したかで、人の間に線を引くのは、神様が喜ぶことじゃない。
 
そして、割礼を受けている人も、割礼を受けてない人も、共に誇ることのできる一つの出来事を示します。それが、わたしたちの主イエス・キリストの十字架です。本来、イエス様がはりつけにされた十字架は、誇ることができるものではありません。それは、自分が拒絶していた、迫害していた、罪を被せて見捨ててしまった、救い主の姿だからです。
 
しかし、その十字架にかかったイエス様が、私たちのために罪をとりなし、復活し、新しく出会って、和解をもたらしてくださった、私たちを新たに弟子として、友として、兄弟として呼んでくださった……この方に呼ばれたことが、招かれたことが、信仰者としての誇りです。イエス様に新しく出会って、ここに集まっていることが、私たちの誇りです。
 
パウロは力強く言います。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです」……信仰者として大事なのは、どの掟を守ったかではなく、これからどのように生きていくかです。それは、キリストの弟子になる生き方です。イエス様は、弟子たちに対し、かつて、このようにおっしゃっていました。
 
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」……たいへん厳しい言葉です。直前には、こんな言葉もあります。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」

新たな問題が発生します。信仰者として、新しく創造される、新しい生き方を与えられるとは、全てを捨てて、イエス様だけについていくということなのか? 家族への愛も、自分への愛も切り捨てて、イエス様だけを愛しなさいということのなか? 信仰以外は捨てなさいと……でも、これってむしろ、私たちがイメージする「信仰」とは逆のことです。
 
「父と母を敬いなさい」と十戒にも書いてあるのに、父と母どころか、妻や子ども、姉妹までをも憎むなんて、「信仰的」な姿に見えません。イエス様は、新しい掟として「互いに愛し合いなさい」と言ってきたのに、家族を憎まなければ、自分の命まで憎まなければ、わたしの弟子ではありえない……なんて、明らかにおかしい言い分です。
 
実際、イエス様が自分の母を、弟子たちの家族を、憎む様子はありません。むしろ、ペトロの姑の熱を癒し、ヤコブとヨハネに捨てられたはずの親と対話し、自分の母マリアのことを使徒ヨハネに託します。家族を捨てて、ついてきたように見える弟子たちのその後は、決して家族と関係を切ったままではありません。
 
一方で、イエス様が家族と、兄弟と、上手くいかなかったシーンも出てきます。理解されず、皮肉を言われ、責められたシーンも出てきます。信仰があれば、家族を憎むことなんてない。信仰があれば、自分が消えたくなることもない。常に平安で、立派な人格者でいられる……そんなイメージを打ち砕きます。
 
現実に、私たちが信仰生活を続ける中で、家族や兄弟と上手くいかないシーンは何度もあります。日曜日に家を空けること、葬儀をキリスト教式でやりたいこと、いくらか献金をささげること……上手く説明できなかったり、理解してもらえなかったり、熱くなって相手を傷つけてしまったり、信仰を持ったゆえに出てくる悩みが発生します。
 
そんな中、ある人たちは、さりげなく自分のことを誇ります。「家族と上手くいっている私はあなたと違う」「私は家族を憎まず過ごせているから、神の子として認められるが、家族を憎んでしまうあなたは神の子として認められず、救われない」……割礼を受けてない異邦人に対し、割礼を受けている人たちが自分を誇って責めたのと、実は似ています。
 
「互いに愛し合いなさい」「敵を愛しなさい」……イエス様は困難な教えを語りつつ、自分の弟子になる人が、自分を信じる人たちが、家族を憎んでしまう、自ら消えたくなってしまうことを「不信仰」だと言いませんでした。むしろ、自分の十字架を背負うということは、イエス様についていくことは、上手くいかないことの連続なんだと語りました。
 
愛しているのに家族を憎んでしまう人、兄弟と上手くいかない人、それによって、自分の十字架、自分の重荷を背負っている人……神の子として、信仰者として、ふさわしくないと思っているなら、あなたは気づかなければなりません。あなたはイエス・キリストの弟子であり、新しく創造されている者であると。
 
あなたはキリストの焼き印を受け、神の国に迎えられる者として、イエス様と一緒に、軛を負った人間です。新しく変えられ続ける人間です。この方に出会えたことを、誇りに思いなさい。この方に選ばれたことを思い出しなさい。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。アーメン」

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌1番「枯れた谷に鹿が」(©︎柳本和良)を歌います。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

聖句と主題

御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

イザヤ書43:18〜19a「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」

 

年間主題

華陽教会では、今年度「新しいことを行おう」というテーマで、イザヤ書43:18〜19aを年間聖句にしています。

 

今週は、先週の礼拝研修会を振り返りながら、これからの礼拝を豊かに持つための取り組みをしていきましょう。特に、オルガンが長く使えるように祈りを合わせましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である私たちの神様。今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

「派遣」の賛美歌92番「主よ、わたしたちの主よ」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(ルカによる福音書9:23)

 

祝 福

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。(ガラテヤの信徒への手紙6:18)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった21名、同時に視聴された4名、計25名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

また、軽食を挟んでの礼拝研修会には19名の方が参加されました。奏楽の準備をはじめとして、礼拝を豊かに持つための取り組みについて、みんなで共有くださりありがとうございます。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。