ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『引き止められたのに』 使徒言行録18:18〜23

聖書研究祈祷会 2023年9月27日


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案 内

華陽教会では、賛美中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の1番「主イェスよ、われらに」を歌います。諸事情でマスクの着用ができない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆信仰と希望と愛をもたらす私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様、今年度に入って半年が経ちました。今日まで一日一日、あなたが導いてくださったことを感謝致します。どうか今、折り返し地点に立つ私たちに、続けるべきことと、新しいことを誠実に行う力をもたらしてください。

◆私たちの神様、今度の日曜日には、信仰者が信仰者であり続けるための式「聖餐式」を通常の形に戻して行われます。どうか今、コロナ禍で制限を受けていた一つ一つの事柄を新たに回復していくことができますように。

◆私たちの神様、来週には、いよいよ芽含幼稚園の運動会が開かれます。どうか今、一生懸命準備して、練習している子どもたちに、あなたの恵みがありますように。楽しみにしている保護者や先生たちにも、喜びが豊かにありますように。

◆私たちを新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録18:18〜23の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Eak K.によるPixabayからの画像

メッセージ

キリスト教初のヨーロッパ宣教を開始したパウロは、行く先々の町で、一部のユダヤ人と多くの異邦人に受け入れられ、教会を作ってきましたが、たいてい、ユダヤ人の多数に反発を受け、迫害され、捕まったり、追い出されたりしてきました。自分を庇った仲間が捕えられたり、殺されかけたりしたこともありました。
 
そのため、コリントではついに「今後、わたしは異邦人の方へ行く」と行って、ユダヤ人に見切りをつけるような反応も見せました。しかし、こう言った後も、彼はユダヤ人の集まる会堂へ行くのを止めず、安息日毎に、イエス様の教えと業を、ユダヤ人へ語り続けました。
 
結局、コリントでも、ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立ててしまいますが、彼はなおも、しばらくの間滞在します。神様が、自分に背いたイスラエル人へ、裁きを宣告しながらも、悔い改めて滅びを免れるよう、どこまでも導いてきたように、パウロも、ユダヤ人に裁きを宣告しながら、彼らを離れていきません。
 
信じなければ見捨ててしまう……という態度を恐れる私たちは、聖霊を受けた宣教者のこのような姿を確認すると、いくらか心がホッとします。厳しく見える神様も、イエス様も、聖霊を受けた弟子たちも、信じない者が、信じる者となる日まで、付き合い続けてくださることを思い出すからです。
 
ところが、ついにパウロがコリントを発ち、エフェソの町へ到着すると、ちょっと様子が違います。この町では珍しく、パウロがユダヤ人と論じ合っても反発を受けず、むしろ「もうしばらく滞在してほしい」と歓迎されます。他の町の会堂のように、神を崇める異邦人や、貴婦人たちには言及されず、ユダヤ人だけが出てきます。
 
実は、エフェソの町は、パウロが以前にも来ようとし、この後も再び訪れて、長期間滞在する町です。ユダヤ人が襲ってきた、テサロニケやコリントと違い、友好的なユダヤ人が迎えてくれた町でした。同じく、友好的なユダヤ人がいたベレアでは、他の町から、敵対的なユダヤ人が追いかけてきてしまいますが、エフェソではそんなこともありません。
 
ところが、急ぐべき理由も見当たらないのに、パウロは人々の頼みを断って、すぐに別れを告げてしまいます。ユダヤ人から反抗され、口汚く罵られたコリントでは、一年半も滞在したのに、歓迎を受けたエフェソでは、一刻も早く出発しようとしています。今までと違って、身の危険もないのに、何だか奇妙に思えます。
 
パウロの中で、ユダヤ人に対する人間不信が、限界を超えてしまったんでしょうか?  確かに、彼はエフェソに到着したとき、同行するプリスキラとアキラを残して、自分だけで会堂に入り、ユダヤ人と論じ合いました。自分がユダヤ人に襲われても、2人は逃げられるように、警戒していたのかもしれません。
 
また、コリントからエフェソに向かう船に乗る前、パウロは港町のケンクレアイで、自分の髪を切っています。その理由は「請願を立てていた」から、と書かれていました。今までのように、ユダヤ人に迫害されることを恐れ、これから始まるエフェソ、エルサレム、アンティオキアへの旅が守られるよう、神様に求めて、請願を立てたのかもしれません。
 
「請願を立てて髪を切る」という行為は、民数記6章以下に示される「ナジル人の請願」にならったものと考えられます。これは、神様に仕えている間、危険から守られるよう求め、一定期間、酒を断ち、頭の髪を剃らない、という誓いです。長く伸ばした髪の毛は、その期間を終え、エルサレム神殿で献げ物をしてから、初めて剃ることができました。
 
律法に囚われないように、掟で支配されないように、人々へ語ってきたパウロが、ここでは随分前の掟にならって、身の安全を求めています。それだけ、度重なる迫害を受け、ユダヤ人からの攻撃を受け、不安になっていたのでしょうか? だからこそ、エフェソでユダヤ人の歓迎を受けても、安心できず、すぐに発とうとしたのでしょうか?
 
もし、パウロが自分を迎えたユダヤ人たちを信用できず、「早くここから出ていきたい」と思っていたなら、エフェソの人たちが可哀想です。引き止めたみんなに対し、パウロは「神の御心ならば、また戻って来ます」と告げましたが、聞きようによっては「戻ってこなかったら御心じゃない」「神様が望んでないと思え」という冷たい態度に感じます。
 
でも、よく考えるとおかしいですよね? 先ほども言ったように、ナジル人の請願は、神に仕える期間を終えてから、身を守られて、使命を果たし終わってから、伸ばし続けた髪の毛を剃ることになっています。旅の間の安全を求めて請願を立てるなら、髪を剃るのは、その旅が終わったタイミングです。
 
また、本来、請願の期間を終えて髪を剃るのは、エルサレムの神殿で献げ物をしてからです。もちろん、コリントの港町であるケンクレアイは異邦人の町で、ユダヤ人が献げ物をする神殿はありません。請願を立てて髪を切るタイミングも、その場所も、おかしなことになっています。
 
そう、パウロが髪を切るべきタイミングは、コリントを出発するときではなく、エルサレムに到着してからだったはずです。ところが、パウロはエルサレムで挨拶だけ済ませ、すぐにアンティオキアへ向かいます。彼が2回目の宣教旅行を終えて帰ってきたのは、エルサレムではなく、アンティオキアの町でした。
 
どうやら、パウロが請願のために髪を切ったのは、単に、エルサレムへ帰るまで、身を守って欲しかったからじゃなさそうです。むしろ、長く伸ばした髪を切る、タイミングと場所を、コリントから出発する港町にしたことは、何か別の意味がありそうです。彼は、何を狙って髪を切ったんでしょうか? 単に間違った請願の立て方をしたんでしょうか?
 
これまで、パウロが一年半以上居たコリントは、彼にとって、様々な困難が積み重なった町でした。会堂では、ユダヤ人に激しく罵られ、法廷にも引き出され、教会内でも様々な問題が生じていたと、後の手紙からも分かります。一刻も早く、そこを発ち、エフェソを通り過ぎて、エルサレムへ帰りたいと思っても不思議ではありません。
 
しかし、彼はコリントを発つとき、本来、エルサレムの神殿でなければ意味がないことを行います。請願のために髪を剃る……それは、自分が出ていこうとするこの町が、多くの苦難に遭ったこの町が、それでも神の家である、新しいエルサレムだと、みんなに証しする行為です。
 
見てください。ここでは確かに、色んな目に遭いましたが、神様に守られて、今日まで歩むことができました。私はここを発ちますが、この町から神様が、イエス様が、聖霊が離れていくわけじゃありません。ここは新たなエルサレムで、新たな神の都です。私が戻ってくるところです。
 
そうして、多くの問題があった町で、髪の毛を剃ったパウロたちは、エフェソを発つときも語ります。「神の御心ならば、また戻って来ます」それは「戻って来なかったら、神様が望んでないと思え」という乱暴な返事じゃありません。「できれば二度と来たくない」という拒絶の言葉じゃありません。
 
コリントの港で髪を剃り、そこを新たな神の家、新たなエルサレムと示した彼は、エフェソとコリントの家にも、必ず戻ってくるつもりだと、みんなに告げて出発します。実際パウロは約束どおり、19章で、再びエフェソの町を訪れ、自分を引き止めたみんなのもとへ、長期間滞在することになりました。
 
パウロを見送った人々は、自分たちの町から出ていく宣教者の姿を見て、心細くなったかもしれません。ここでの宣教は終わったのかと、思いかけたかもしれません。しかし、そうじゃありません。神に仕える宣教者が、牧師が、司祭が出ていった……そんな町にも、教会にも、神の家、神の都は立っています。見えない神殿が立っています。
 
岐阜地区でも、全ての教会に教師がいるわけじゃありません。長く居て欲しいと引き止めても、牧師が違うところへ出ていくことも多々あります。しかし、皆さんは神の家です。私たちが、互いに帰ってくる場所です。ここは呪われた、見放された家ではなく、神の家として、これからも建て上げられていく場所です。
 
引き止められた者が、再び訪れる場所となるように、また帰って来られる場所であるように、私たちの教会も、隣の教会も、地区の教会も、励まし合いながら、立ち続けていきましょう。世界に広がる、全ての教会に、伝道所に、これからも、神様の導きがありますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(岩手県一関市の一関教会)のために、職場で悩んでいる人、家庭で悩んでいる人、学校で悩んでいる人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆岩手県一関市の一関教会のために祈ります。4月から牧師が辞められた教会に、あなたの支えがありますように。代務の先生をはじめ、奉仕をしてくださる教師と会衆に、あなたの助けがありますように。そして、来年度、牧師を迎えることができますように。

◆職場で悩んでいる人のために祈ります。上司や部下との関係や、同僚との関係、取引先との関係で、板挟みになったり、ストレスが溜まっている人たちに、あなたの支えがありますように。十分な休息と自由が与えられますように。

◆家庭で悩んでいる人のために祈ります。親子関係や夫婦関係、親戚や近所との付き合いに悩んでいる人や、介護や看病で余裕がない人たちに、あなたの慈しみがありますように。家族にも、周りの人にも、助けを求め合い、支え合うことができますように。

◆学校で悩んでいる人のために祈ります。学級崩壊やいじめ、進学の悩み、経済的な問題などに苦しんでいる人たちに、あなたの導きがありますように。勉強についていけない子どもたちや、教え方に悩む先生にも、あなたの助けがありますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌3番「閉じこもる私たちに」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

 

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。先週の聖書研究祈祷会は、教会に集まった4名、同時に視聴された8名、計12名が参加されました。後から動画や原稿を見て祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。人前でお祈りするのを遠慮したい方は、飛ばしてもらうこともできます。よかったらぜひご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。