ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『だれを捜しているのか?』 ヨハネによる福音書18:1〜9、18: 33〜40

日曜礼拝 2024年3月24日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

消 灯

本日は、受難節第6週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を6本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。

 

案 内

華陽教会では、賛美中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、日曜日の礼拝も配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。(ヘブライ人への手紙10:20)

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌二編の130番「ひつじをまもる」を歌います。諸事情でマスクを着用できない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。差し支えない方は、お立ちください。

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆私たちと共に歩んでくださる神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす受難節第6週目を迎えました。どうか今、私の罪も、私の恥も、一緒に負ってくださる主に、栄光が世々限りなくありますように。

◆私たちの神様。今日は、キリストが十字架につけられる一週間前、エルサレムに入城し人々から歓迎されたことを記念する棕櫚の主日です。どうか今、裏切った者も見捨てた者も神の国で共に食卓へつくために、新しく出会ってくださる主が褒め称えられますように。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまで、残り1週間となりました。どうか今、新しく迎えられる人、共に歩んでいく人たちに、あなたの慈しみが豊かに注がれますように。

◆私たちの贖い主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書18:1〜9、33〜40(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編64:1〜11(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の308 番「栄光と賛美と誉れ」を歌いましょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

Rupert Kittinger-SereinigによるPixabayからの画像

メッセージ

キリストの復活を記念するイースターまで残り一週間となりました。イエス様は十字架につけられる一週間前、エルサレムに入城し、自分を殺そうと企んでいるファリサイ派や祭司長たちの前に姿を現しました。けれども、多くの人がイエス様を取り囲んで「イスラエルの王」と讃えて出迎えたため、彼らは簡単に手を出すことができませんでした。

 

イエス様が多くの病人を癒し、死んだ人まで生き返らせたので、それを目撃した人が、口々に知らせて回り、「この方こそメシア(救い主)ではないか」と考える人が、一気に増えていたんです。群衆は、ロバに乗ったイエス様を迎え、棕櫚の葉を振りながら、自分の上着や葉っぱを敷いて、王が通られる道を作りました。

 

「ユダヤ人の王」「イスラエルの王」がやってきた。自分たちの国を占領するローマ帝国の傀儡のような王ではなく、神様によって立てられた本当の王が、今こそ、私たちを解放してくださる……そんな期待に溢れて、「主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に」と叫んでいたんです。

 

けれども、このとき、イエス様に向かって「ホサナ」(ばんざい)と叫んでいた群衆は、その一週間後、「十字架につけろ」と叫ぶようになりました。イエス様を指して「見よ、あなたたちの王だ」と言われても「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と訴え、メシアを待ち望むよう、教えていたはずの宗教指導者は「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言い出します。

 

異邦人の支配から解放されることを願い、約束された救い主、新しい王を待望していた人たちが、異邦人の役人に向かって「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言ってしまう……救い主メシアの待望をなかったことにしてしまう……今まで何を待っていたのか、誰を捜していたのか、分からなくなる言葉です。

 

ちょうど、イエス様が、祭司長たちやファリサイ派から遣わされた人々に、逮捕されようとしていたとき、尋ねた言葉が思い出されます。「だれを捜しているのか?」……それは単に、自分を捕まえに来たことを確かめるための問いではなく、あなたたちは救い主を、新しい王を捜していたのではなかったか? と問われる言葉でもありました。

 

イエス様を捕まえようとした人々は、この問いに対し、「(捜しに来たのは)ナザレのイエスだ」と答えますが、イエス様が「わたしである」と答えると、後ずさりして、地面に倒れてしまいます。不思議ですよね? イエス様の方は、武器も持っていないし、脅しもしていません。押したり、殴ったりもしていません。

 

恐れる理由はないはずなのに、何もされていないのに、兵士と下役たちは、武器を持ったまま、後ずさりして倒れます。そのまま何もできない彼らに、イエス様は、もう一度、「だれを捜しているのか」と問いかけました。彼らは再び、「ナザレのイエスだ」と答えますが、やはり、動けませんでした。

 

「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているなら、この人々は去らせなさい」そう言って、イエス様は自らその身を差し出します。人々に「わたしである」「わたしである」と繰り返し語るイエス様の返事は、かつて、モーセにその名を問われた神様が「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えた返事を思い出させます。

 

イエス様を捕まえにきた人々は、「だれを捜しているのか」という質問を「私を捕まえるために捜しにきたのか?」という意味にしか受け取りませんでした。しかし、この質問には「あなたたちが捜している、新しい王は誰なのか?」という意味もありました。彼らはその答えを「ナザレのイエスだ」と返します。

 

面白いことに、質問の真意が分かっていなかったのに、彼らは正しい答えを返します。ナザレのイエスこそ、彼らの待ち望んでいたはずの救い主メシアであり、新しい王として遣わされた方でした。その方を死刑にするため、捕まえるため、捜しにやってきた彼らは殺そうとしている相手に意図せずひれ伏し、メシアを拝んだときのような姿を見せます。

 

同様に、イエス様へ死刑の判決を下したローマの総督ポンテオ・ピラトも、イエス様を「ユダヤ人の王」として、イスラエルの人々が待ち望む救い主の王として、認めるような発言を、意図せず口にしています。「お前がユダヤ人の王なのか」……イエス様の取り調べで、最初にピラトが聞いたのはこの質問です。

 

その後も、イエス様が「王なのかどうか」執拗に答えを聞き続けます。しかし、本来、ローマの総督が問うべきことは、ローマの法律で死刑に値する罪を犯したかどうかです。「いったい何をしたのか」という質問こそ、繰り返すべき問いかけです。しかし、ピラトの関心は、なぜか「イエスが、王なのかどうか」に向けられます。

 

もちろん、ピラトはユダヤ人ではなかったので、イスラエルの人々のように救い主を、新しい王を、待ち望む信仰はありません。イエス様が、ユダヤ人の待ち望んでいるメシアかどうか、自分には関係ないと思っていたはずです。実際、彼は、イエス様とのやりとりで「わたしはユダヤ人なのか」と苛立ち、自分の問題ではないと答えています。

 

それなのに、ピラトはイエス様を「ユダヤ人の王」として、人々に認めさせようと、繰り返し群衆の前に出ていきます。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と言うばかりでなく、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」「見よ、あなたたちの王だ」「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と3回にわたって繰り返します。

 

彼自身にそのつもりがなくとも、もはや、イエス様を王と認める信仰告白に見えてきます。イエス様はピラトに対し、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と問いかけました。ピラトはそれに対し、「わたしはあなたを王だと思います」とは答えられません。

 

けれども、「あなたはわたしの王じゃない」「わたしにとってはただの人だ」とも答えられませんでした。さらに、ユダヤ人から「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と言われてからも、ピラトはイエス様を「ユダヤ人の王」「あなたたちの王」と言い続けました。

 

本当はダメなはずです。イスラエルには、ヘロデのように、ローマ皇帝から選ばれた、傀儡の王がいたはずです。それ以外の王を、「ユダヤ人の王」とローマの総督が認めたら、皇帝に対する無礼として、告発されても仕方ありません。単なる意地で、「ユダヤ人の王」と言い続けるには、リスクが高い行動です。

 

にもかかわらず、ピラトはイエス様を「ユダヤ人の王」と言い続け、十字架の罪状書きにも「ユダヤ人の王」と書かせました。祭司長たちから「『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言われても、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と言って、最後まで貫き通します。

 

だれを捜しているのか? 救い主メシアは誰なのか? イエス様を捕まえにきた人々もイエス様に死刑の判決を下した総督も、分かってはいませんでした。分かってはいなかったのに、彼らは「ナザレのイエスを捜している」と答え、その方にひれ伏し、イエス様を王と呼びました。自分が殺そうとしている、死に定めようとしている人を。

 

ヨハネによる福音書には、キリストの復活を信じなかったトマスに対し、イエス様自身が、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語る言葉が出てきます。自分が復活したことに気づかず、泣き続けるマリアに対し、「だれを捜しているのか」と振り向かせるイエス様の言葉が出てきます。

 

みんな、出会ったときは、分かっていませんでした……自分に問われた方が誰なのか、誰が自分へ会いに来たのか、分かっていませんでした。しかし、それが誰なのか分かるまで、「わたしの主、わたしの神よ」と自ら告白できるまで、イエス様は、私たちに出会い続け、呼びかけ続けてくださいます。

 

「だれを捜しているの?」……イエス様を「救い主メシア」と告白できない人たちも、信じ切れない人たちも、否定している人たちさえも、この方は、神の国の食卓へ、共に招いてくださいます。信じない者から信じる者へ、悲しむ者から喜ぶ者へ、争う者からとりなす者へ変えられます。

 

キリストの復活を記念するイースターまで、あと一週間……この方を前にして、問われた言葉を思い出しなさい。あなたを自分の子として、兄弟として、「ここにいる」「わたしである」と示し続けた方を思い出しなさい。父である神と、わたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌16番「苦難のはざまから」(©️柳本和良)を歌います。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

 

 

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

聖句と主題

御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」

 

年間主題

華陽教会では、今年度「新しいことを行おう」というテーマで、イザヤ書43:18〜19aを年間聖句にしています。

 

今週は、イースターに転入される人、岐阜地区で洗礼を受ける人を覚え、共に迎えて一緒に歩んでいくための準備をしていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

憐れみ深い神様。私たちの生活の一部をおささげします。どうか、これらの献金を困っている人のため、信仰生活を支えるため、教会の働きを続けるために用いてください。人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の28番「み栄えあれや」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。(ヨハネによる福音書18:37c-d)

 

祝 福

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。(ヘブライ人への手紙13:20〜21)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった20名、同時に視聴された4名、計24名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の日曜日はキリストの復活を記念するイースターの礼拝です。『ゆるされないまま?』と題して、ヨハネによる福音書20:19〜31のお話をします。礼拝の中で、転入会式を行い、礼拝後に、歓迎の愛餐会を行います。

 

なお、例年、イースター礼拝の後に行っている、上加納墓地での墓前礼拝は、翌週の4月7日の日曜日、礼拝後に行います。こちらもぜひ、ご参加いただけると嬉しいです。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。