ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『イエスが心を騒がせる』 ヨハネによる福音書12:20〜36

日曜礼拝 2024年3月17日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

消 灯

本日は、受難節第5週目の礼拝なので、光や命の象徴として立てられた蝋燭を5本倒し、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こします。共に今、あなたの労苦と痛みに寄り添う、イエス様の歩みを覚えましょう。

 

案 内

華陽教会では、賛美中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、日曜日の礼拝も配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。(イザヤ書55:6〜7b)

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌二編の130番「ひつじをまもる」を歌います。諸事情でマスクを着用できない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。差し支えない方は、お立ちください。

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆憐れみ深い神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす受難節第5週目を迎えました。どうか今、思い悩んでいる人、傷つき倒れている人、自分を恥じている人に、あなたの癒しと励ましが豊かにありますように。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念するイースターまで、残り2週間となりました。どうか今、岐阜地区の教会で洗礼を受ける予定の人、華陽教会へ転入される予定の人と、共に喜びを分かち合う準備をしていけますように。

◆私たちの神様。家族や友人、大切な知り合いが苦しんでいて、心配している人たちに、あなたの助けがありますように。どうか今、絶望している人に希望が、孤立している人に連帯が、潰れそうな人に変化と気づきがもたらされますように。

◆全ての者を助け起こす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書12:20〜36(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編22:23〜32(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の502番「光のある間に」を歌いましょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

Markus SpiskeによるPixabayからの画像

メッセージ

イエス様が十字架につけられる一週間前、大勢の群衆が、エルサレムにやって来たイエス様を迎え、ナツメヤシの枝を振って歓迎しました。イエス様が、マルタとマリアの兄弟ラザロを死者の中から甦らせ、一緒に食事をしたのを見て、「この方こそ救い主だ」と多くの人が信じたからです。

 

そんな中、五日後に行われる過越祭に合わせて、エルサレムで礼拝するためにやって来たギリシア人が、何人かイエス様を訪ねて来ました。この祭りは、エジプト人の奴隷だったイスラエル人を、神様が助けてくださったことを記念する祭りでしたが、イスラエル人でない異邦人の中にも、神様を信じて、礼拝しに来る人がいたようです。

 

けれども、ギリシア人は直接イエス様を訪ねることなく、弟子のフィリポに取り次ぎを頼みます。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」……どうも、自分たちだけでは、簡単にイエス様へ会うことができなかったようです。さらに、お願いされたフィリポの方も、すぐにはイエス様のもとへ案内せず、同じ弟子であるアンデレに相談します。

 

アンデレもまた、直接、ギリシア人をイエス様のもとまで連れて行こうとはしませんでした。先に、フィリポと2人で、イエス様へ話しに行きます。「あなたにお目にかかりたいと何人かのギリシア人が訪ねてきました。どうしましょうか? お会いになりますか?」そのように聞きに行ったんでしょうか?

 

さっさとイエス様に会わせればいいのに、何だか、会わせるのを渋っているように感じます。ギリシア人のことが嫌いだったんでしょうか? しかし、フィリポもアンデレも、異邦人と交流の多かったガリラヤ出身の人間です。2人とも、異邦人に馴染みのあるギリシア語の名前で呼ばれています。ギリシア人を毛嫌いしている描写もありません。

 

前日には、大勢の群衆がイエス様を出迎えて、「主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に」と歓迎していました。「イエスにお目にかかりたいのです」と言ったギリシア人も、亡くなった人を甦らせたイエス様に、ひと目でいいからお会いしたい……自分たちも出迎えたい……そう願ったのかもしれません。

 

けれども、フィリポとアンデレは、この日出会ったギリシア人の出迎えに、すぐに答えることができず、よそよそしい態度を見せました。一方、2人から話を聞いたイエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言いながら「今、わたしは心騒ぐ」と口にして、自分にとって、辛い出来事が待っていると語ります。

 

異邦人の出迎えを喜んでいるのか、心を騒がされたと嘆いているのか、よく分かりませんよね? 実は、弟子たちがギリシア人の訪問を警戒するのも、無理のないことではありました。なぜなら、イエス様がラザロを生き返らせたあと、人々の支持が集まっていることに危機感を覚えたファリサイ派が、イエス様を殺そうと企んでいたからです。

 

そのため、イエス様は公然とユダヤ人たちの間を歩かなくなり、荒れ野に近いエフライムという町で、人目を避けて滞在していました。その間、祭司長たちとファリサイ派の人々は、「イエスの居どころが分かれば届け出よ」と命令を出し、見つけ出して殺せる機会を伺っていました。

 

彼らは、イエス様の暗殺に留まらず、イエス様が生き返らせたラザロのことまで殺そうとするほど、多くのユダヤ人がイエス様を信じていくことに焦りと嫉妬を抱いていました。そんな中、イエス様は身を潜めていた荒れ野を後にし、弟子たちと一緒に、エルサレムへやって来ます。

 

案の定、イエス様の居どころは一瞬でばれ、たちまち拡散され、大勢の人々が集まってきました。イエス様の身を案じていた弟子たちは、気が気でなかったことでしょう。祭司長やファリサイ派が、いつ襲って来るか分かりません。そのため、翌日には、イエス様がどこにいるか分からないように、弟子たちは必死に人目から隠したのかもしれません。

 

ところが、これまた目立つギリシア人の訪問で、彼らの気配りは台無しです。この異邦人が、イエス様の居どころを見つけ出し、届け出ようとするファリサイ派たちの手先なのか、本当に、イエス様へ会いたくてやって来た人たちなのか、フィリポにも、アンデレにも、判断することができません。

 

どちらにしても、あまり多くの人たちに、イエス様の居どころを知られたくなかった弟子たちは、すぐには異邦人を案内せず、イエス様へ「どうしましょう……?」と相談します。このタイミングは嫌ですよね? 厄介な時に来ましたよね? そんな表情を浮かべながら、イエス様に話したんじゃないかと思います。

 

けれども、イエス様は「嫌なタイミング」とも「厄介な時に」とも言わず、意外な言葉を口にします。「人の子が栄光を受ける時が来た」……その後に続く言葉は、確かにイエス様自身の死を暗示し、十字架への道が一気に近づいたことを印象づけます。しかし、イエス様はこの出迎えを、自分にとって、迷惑でも、困るものでもなく、「栄光を受ける時の訪れ」だと言うんです。

 

ヨハネによる福音書には、結局、このギリシア人たちが、イエス様に会わせてもらうことができたのか、結果がはっきり書かれていません。しかし、29節で、イエス様の「そばにいた」群衆が出てくるので、おそらく、ギリシア人と会うために、イエス様自ら外へ出て、再び群衆に囲まれたんでしょう。

 

危険を顧みず、最悪のタイミングで訪れた人たちに、その姿を現したイエス様は、同時に、何が起きても平気だから、姿を晒したわけではないことを示します。「今、わたしは心騒ぐ」と口にして、十字架につけられることの、恐れを告白するんです。神の子なのに、救い主なのに、イエス様も心を騒がせるのか?……と驚く方もいるかもしれません。

 

なんなら、このあと14章で2回にわたって「心を騒がせるな」とイエス様自身が教えているのに「今、わたしは心騒ぐ」と言ってしまう姿に、矛盾を感じるかもしれません。けれども、「まことの人」であり「まことの神」であるイエス様は、私たちと同じ、心騒がせる身となりながら、私たちと一緒に、神の栄光を現していく方なんです。

 

「できることなら、牧師以外の道を与えてください」……そう祈ったことは山ほどありました。「できることなら、重い責任を負わせないでください」……そのように祈ることは今でも頻繁に出て来ます。「神様、私があの役目につかなくていいよう救ってください」……そのように祈ることは、これからもたくさんあるでしょう。

 

本当は「引き受けるべきこの役目を、私に引き受けさせてください」と祈るべきなのかもしれない……でも、「できることならこの杯を、この十字架を、私から取り除けてください」と祈ってしまう自分がいる。与えられた使命を果たすように、立ち向かわせてくださいと祈れず、「わたしをこの時から救ってください」と逃れる道を求めてしまう。

 

イエス様は、そんな私に、そんなあなたに、自分も心騒がせて苦しんだ姿を晒します。あなたが平気でなかったように、イエス様も平気ではありませんでした。痛みや不安を感じない方ではありませんでした。むしろ、揺れ動くあなたがいるところに、この方はいつもおられたんです。今も、あなたと一緒にいるんです。

 

心を騒がせちゃいけないのに……立ち向かわなきゃいけないのに……信じなきゃいけないのに……もうやめさせてくださいと、逃れさせてくださいと、そう言いたくなる私たちに、イエス様は臆せず、「わたしもそうだ」「わたしもあなたと同じところにいるんだ」と隣に座ってくださいます。

 

そして、一緒に立ち上がるまで、身体の震えが止まるまで、一緒に使命を果たすまで、付き合い続けてくださいます。すべての人を自分のもとへ引き寄せて、神の栄光を一緒に現してくださいます。だから、この方の言葉を受けとめなさい。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌16番「苦難のはざまから」(©️柳本和良)を歌います。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

 

 

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

聖句と主題

御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」

 

年間主題

華陽教会では、今年度「新しいことを行おう」というテーマで、イザヤ書43:18〜19aを年間聖句にしています。

 

今週は、みんなが出入りしやすい受付のレイアウトや、来年度に予定している、オルガンのミニコンサートなど、新しい試みに向けて、一緒に試行錯誤していきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の28番「み栄えあれや」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(ヨハネによる福音書12:27)

 

祝 福

主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし、あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった16名、同時に視聴された7名、計23名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の日曜日は、キリストが十字架にかけられるまでの最後の一週間が始まる棕櫚の主日です。『だれを捜しているのか?』と題して、ヨハネによる福音書18:1〜40のお話をします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。