礼拝メッセージ 2018年7月15日
【手紙が連想させるもの】
先ほどのパウロの手紙の終わりには、印象に残る言葉が書かれていました。「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」……
読み方によっては、次のように受け取ることができます。すなわち、パウロは誠実であっても欺いていると見られ、喜んでいても悲しんでいると見られ、神様から与えられる真の力、真の強さは必ずしも外面へ表れず、「あれが神の協力者のはずがない」と、みんなから誤解を受けていた……ようするに、世間からは怪しくて意味不明なグループとして相手にされず、ユダヤ教の正統教団からも迫害されていたということです。
けれども、パウロは大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、鞭打ち、監禁など、様々な逆境においても、神の協力者として、神に仕える者として、自分たちは歩んでいると語ります。この言葉を聞いて、ある人は先日、世界文化遺産への登録が決まった「潜伏キリシタン」の姿を思い浮かべたかもしれません。また別の人は、様々な迫害を耐え忍び、殉教していった「聖人」と呼ばれる人たちをイメージしたかもしれません。
しかし私は、全く別の人たちを思い浮かべてしまいました。しかも、パウロの手紙からは、キリスト教の聖典からは、なるべく連想したくない人たちのことを思い浮かべてしまいました。それは、7月6日に7人の死刑が執行された、オウム真理教の人たちです。彼らをはじめとする破壊的カルトに属する人たちの主張を連想してしまったのです。
「世間は我々が人を騙していると言うが、本当は世間の方が、我々を悪者に仕立てているのだ」「我々は誠実だ」「我々が逮捕され、投獄され、訴えられるのは、むしろ正しさに生きているからこそ、迫害されているという証拠なのだ」……破壊的カルトの多くに見られる共通の主張、それに似た言葉を、私たちは今日、パウロの手紙から聞いてしまいました。穏やかじゃありません……
【カルトと紙一重】
アメリカの著名な神学者スタンリー・ハワーワスは、ある講義の中で、一人の父親が政府関係者に宛てた手紙を読み上げます。先生がこの手紙を読み上げた意図は、私と少し違いますが、その内容をちょっと紹介させていただきます。
この父親の息子は、最高の教育を受け、良い学校を卒業して、法律家として働き始めたばかりでした。その子が、妙な宗教のセクトに巻き込まれたというのです。このセクトの会員たちが、いまや息子の行動をすべて管理しています。誰とデートすべきか、誰とつきあってはいけないかまで指示しています。持っているお金はすべてとりあげられてしまっています。何とか、政府がこのあやしい宗教グループに手を打ってほしい……そのように父親が嘆願する手紙です。
ハワーワス先生は、講義に集まった学生たちに、この手紙に書かれているのは、いったい何のグループだと思うか聞きました。ほとんどの学生が、有名な事件を起こした幾つかの破壊的カルトを挙げました。私も、真っ先にオウム真理教を思い浮かべました。ところが、この文章は3世紀のローマで書かれた手紙を組み合わせたもので、問題にされたグループとは、キリスト教会のことだったのです。*1
真理を求めて集まってくる人たち、真理が得られると人々を招く者たち……その集団が、家族を引き裂き、財産を取り上げ、破壊的な様相を帯びていく……キリスト教も例外なくその危険に陥ります。初代教会……おそらく最も理想的な教会の姿として、これまでの聖書学者や神学者たちが称えてきた時代のキリスト教でさえ、その要素がありました。
「周りはそのように見たのかもしれないが、彼らは進んで自分たちの財産を献げたのだ、自ら奉仕していったのだ」……そんなふうに世間の「誤解」と受け取ってしまうのは簡単です。けれども、破壊的カルトの場合も、たいてい信者が進んで財産を寄付します。進んで学業や仕事を放棄し、教団のために仕えます。そうすることが、本当の幸せを得られる道、本当の救いに与る道だと信じているからです。
先日、仏教系カルトの脱会支援をしている方が書かれた記事を読みました。「人を救いたい」という思いで「人を救うために」カルトへ入っていった人たちの証言が紹介されていました。「先生は、私の教団を誤解している。私は今まで本当に人を救うにはどうしたらいいのか、ずっと悩んできた。それがやっと分かったのです。だから今は幸せで充実しています」……それが、オウム真理教の後継団体に入った人の言葉でした。
彼らの主張と、パウロが書いた幾つかの文章を並べて読むと、ドキリとさせられます。なんて似ている言葉でしょう……私の知る限り、仏教系でも神道系でもキリスト教系でも、破壊的カルトに入っていく人たちは、みんな誠実な人たちです。心優しく、社会のために役立ちたいと考えています。末端の人たちのほとんどは、あらゆることを犠牲にして質素に暮らし、人々の救いを願っています。
その人々が、無差別テロや集団自殺という行動へ陥っていきます。あれは、私たちキリスト者から遠く離れた出来事ではなく、一歩間違えれば自分たちも陥るかもしれない……そんな出来事なのです。
【教会の過ち】
今日礼拝で読み上げられた2つの聖書箇所は、どちらも日本基督教団の聖書日課で選ばれているものでした。『神による完全な武器』というのが、この箇所を選んでいるテーマだそうです。
最初に読まれたサムエル記では、少年ダビデと巨人ゴリアトの戦闘シーン、そして、今読んでいるコリントの信徒への手紙では、「左右の手に義の武器を持ち」という言葉が出てきます。平和や平安からはほど遠い、戦争や戦いのイメージ……キリスト者は、そのような「信仰の戦い」の場面にしばしば立たされる……やっぱり、穏やかじゃありません。
私自身も、これまでの礼拝メッセージで、何度も「穏やかじゃない話」をしてきました。キリスト教は、神様の教えは、時に受け入れがたいことを私たちに命じてくる……世間の動きや考えに反対すること、対抗するような行動を促すときがある……ある日曜日の礼拝では、パウロがローマの行政機関に捕えられ、投獄された話をしました。神様は、私たちが政府関係者に目をつけられ、捕えられかねない行動を命じることがあると話しました。
そう……私の言葉でさえ、いつ皆さんを、反社会的な行動へ促してしまうか、分からない……ですよね。決して、人々を傷つけるような、テロや殺人、金銭を騙し取るようなことをしてほしいとは、もちろん願っておりません。パウロだって願っていなかったでしょう。彼自身、手紙の中で何度も熱狂的になりすぎないよう、人々に警告しています。しかし、それでも、3世紀の教会が非常に強い破壊的要素を持ってしまったように、思ってもみなかった方向へ、傾いていくことがあるのです。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」……ローマの信徒への手紙12章2節でパウロが語っている言葉。「世間に媚びない」「この世に流されない」という教え。私たちキリスト教会は、今でもこれを大事にしていますし、これからも大事にすべきだと思います。しかしともすれば、「私たち教会こそが正しさを理解している」「正しさを教えることができる」と主張し、教会そのものが間違える可能性を無視してしまうことも出てきます。
実際、もう何度も間違えてきました。教会が献金を集めて戦争に使う戦闘機を提供したことも、教会が部落差別やハンセン病差別を助長したことも、教会が女性や子どもたちへの虐待を隠したこともありました。私たちの教団にも破壊的要素が強くなり、カルト化していく教会があります。牧師の言葉が、神の言葉として絶対視され、反対する者がいれば、「あなたは信仰心が足りない」と切り捨ててしまう教会……ここだって、注意していなければ、そうならないという保証はないのです。
【正しさと力を持つところ】
私たち教会は「正しさ」を知っているのか? 聖書の教えと世間の考えが対立するとき、「誠実に戦う力」を持っているのか? このことを考えるとき、巨人ゴリアトと戦った少年ダビデの話が、非常に示唆を与えます。
イスラエルに攻撃をしかけ、軍隊を招集したペリシテ人……その内の一人であるゴリアトは、サウル王の家臣との一騎打ちを申し出ます。自分が勝てば、イスラエルはペリシテ人の奴隷に、そちらが勝てば、自分たちが奴隷になると宣言したのです。
しかし、彼は身長3メートル近い大男……青銅の武具で完全武装しており、鎧の重さは約60キロ、槍は鉄製で穂先が7キロ近くありました。ようするに、この男はとてつもなく巨大で、怪力の持ち主だったのです。そんな相手に挑もうとする兵士はまずいません。そんな中、兵士をしている兄たちに弁当を届けるため、少年ダビデがやって来ます。
ダビデは、ゴリアトが叫んでいるのを見て、「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」と憤慨します。そして、自分が一騎打ちに挑むと申し出るのです。サウル王は彼にこう諭します。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ」……
事実、ダビデは鍛錬を積んだ兵士ではなく、羊を世話する美少年でした。怪力も技術もありませんでした。サウルが与えた鎧や兜、剣でさえ、重くて、慣れなくて、扱えませんでした。ダビデ自身も、「いえいえ、私はこう見えてすごい力なのです。実は手練れなのです」なんて言いません。自分に敵を倒す力があるとは言えません。
しかし、彼はこう言いました。「わたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません」……そして、敵のゴリアトに向かって叫びます。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう」「この戦いは主のものだ」と……
ダビデの言葉は、かつてエジプトから脱出したばかりのイスラエル人が、無防備で弱い民族であったにもかかわらず、神ご自身が戦ってくださることで、何度も敵から救われた歴史を思い起こさせます。自分たちに敵を倒す力はない、上手に戦う強さもない、ただ、神様には「真の力」も「真の強さ」もある。
剣さえ持てなかったダビデは、小石一つで鎧に身を固めた怪力の大男を仕留めました。神様に守られ、神様に助けられ、彼は敵うはずのない敵に勝ったのです。しかし、物語は単純にこれで終わりません。その後、ダビデは幾つもの困難を乗り越えて、イスラエルの王となっていきますが、繰り返し神様から離れ、正しさから離れ、失敗してしまいます。
何度も神様に叱られ、怒られ、反省しながら、イスラエルの歴史を歩んでいきます。「正しさ」を持っているのは、決して選ばれた人間ではないこと。「真の力」を保有するのは、神様だけであること。「正しさと力は私にある」「私たちが持っている」と言うときほど、人々が正しさから、神様から離れていくこと……それらを聖書は容赦無く暴露します。
【パウロの警告】
それは決して、既に滅んでしまったイスラエル王国だけの話ではありません。私たちが今読んでいるコリントの信徒への手紙も、パウロが「正しさ」から離れている教会に書き送った手紙です。自分が建てた教会を、批判する言葉で溢れた手紙……教会に不品行な信者がいること、仲違いや分裂があること、社会的な弱者や、身分の低い者が軽んじられていること、会員同士の訴訟問題があること……
「正しさ」を教える、「真理」を語るものからは、ほど遠い姿になった教会の様子が、こんなにもはっきりと告白されているのです。そして繰り返し、罪から離れ、互いに罪の機会を与えないよう、注意して過ごすことが命じられています。
色んなキリスト教関係者から怒られるかもしれませんが、教会は決して「正しさ」を保持し続けられる場所ではありません。私たち人間が「正しさ」から離れやすいこと、「正しさ」を見失いやすいことを示し、神様に立ち返るよう促される場所です。教会という組織も間違える……罪を告白し悔い改めるべき時がある……そんな共同体の一つです。
ここにいれば大丈夫、ここに従っていれば大丈夫……残念ながら、そうとは言えない共同体です。神様から左右の手に握らされた「義の武器」は、私たち自身をも正すために、この身を刺してくる時があります。しかし、神様は、どんなに私たちが愚かでも、間違えても、正しい関係を回復する努力を惜しみません。もはや正常な状態に立ち返ることが期待できない共同体をも、神様は回復するまで導かれます。そこに、あなたが用いられる時もあるでしょう。大いなる忍耐をもって、組織と向き合うよう呼びかけられる時が来るでしょう。
穏やかじゃありません……しかし、いただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、神様は、あなたの願いを必ず聞き入れ、あなたを助け出すからです。期待さえできなかったことを実現させてしまうからです。さあ、神様から与えられた義の武器を、左右の手に握りなおしましょう。ちょっと、痛むかもしれませんが……
*1:W.H・ウィリモン著 上田好春訳『異質な言葉の世界 洗礼を受けた人にとっての説教』日本基督教団出版局、2014年、217頁参照