ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

神様に呪われる? 申命記30:1〜10

聖書研究祈祷会 2018年7月11日

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 【これは罰ですか?】

 以前、私が伝道師をしていた東京の教会で、私が赴任する前に起こった騒動について、何度か聞く機会がありました。それは、東日本大震災直後の話でした。ある日、ドイツから来られたキリスト教会の一団が、日曜日に突然、説教壇に立たせてほしいと訴えてきました。彼らは主任の先生にこう言ったそうです。

 

 「この大きな地震は、自分の罪を悔い改めない日本の人々に、神様が怒ったために起きたのです。どうか、人々に悔い改めのメッセージをさせてください」……主任の先生は、「そんなメッセージはさせられない」と彼らの要求を断りました。しかし、礼拝の途中で、彼らは勝手に講壇に登って話し始めたので、慌ててみんなで引き下ろしたというエピソードがあったそうです。

 

 震災直後、このように「神様が怒りを下された」「悔い改めなければもっと恐ろしいことが起きる」という主張を行ったのは、何も怪しい団体や新宗教だけではありませんでした。私たちキリスト教会の中からも、似たようなことが訴えられました。それらの主張は、おそらく旧約の預言者に倣うつもりでされたのでしょう。

 

 ホセアやアモスをはじめとして、神様から言葉を授けられた預言者たちは、確かに人々の罪と悪を告発し、直ちに悔い改めるべきことを訴えました。今起きている災い、これから起きる困難は、人々が神様に背くゆえの罰であると警告しました。けれども、今現在、何か大きな災害や事件が起きたとき、私たちはそれを神様の怒りと受けとめるべきなのでしょうか? 神様から下された罰や呪いと捉えるべきなのでしょうか?

 

 先日も、広範囲にわたって激しい豪雨が振りました。岐阜でも皆さん不安な夜を過ごされたと思います。岡山や広島でもたいへんな被害が出ました。この前は関西で地震が起き、関東でも震度5の地震が起きました。次々と起きてくる災害は、みんな神様の怒りや呪いなのでしょうか? 私たちを滅ぼそうとする災いなのでしょうか? 

 

 きっと再び、神様の裁きや審判を強調する団体がポツリポツリと増えてくるでしょう。私たちの中にも、そのように捉える気持ちが強くなってくるでしょう。事実、世の中で行われている悪いこと、正義に反することなんて、いくらでも数え上げられるのですから……みんな不安です。この災いは神様からのものなのか? 私たちが悪いことをしたから、バチが当たったのか……?

 

【バチが当たる?】

 「バチが当たる」という言葉、日本ではよく使われます。もともとは悪事を犯した人間に下される、神仏の祟りや報いを意味するため、クリスチャンが使うとちょっとおかしな表現です。ただ、キリスト教でも「バチが当たる」という感覚は全くないわけではありません。神様は正しい人に祝福を与え、悪人には呪いを下される……そのような言葉を繰り返し語ってくるのが、この申命記という書物です。

 

 申命記は、イスラエルがカナンの地に入る直前に、モーセが語った「告別説教」の形をとっています。しかし、この書物自体が書かれたのは、それからずっと後のイスラエルがバビロニアに滅ぼされた、捕囚以後のことだと考えられています。

 

 神様が人々を救われた歴史の回顧、神様が人々に与えた律法についての解説、神様が勧める律法に適った生活などが、主な内容となっています。モーセはイスラエルの民に向かって、神様がいかに人々を愛されているか強調しました。そして人々にも「神様への愛」と「隣人への愛」を要求します。

 

 それが、十戒をはじめとする「神様の掟を守りなさい」という律法遵守の要求となっていきました。すなわち、「神様に従って律法を守るならば祝福を受け、神様に背いて律法を守らなければ呪いを受ける」という教えです。言い換えれば、「善人は栄え、悪人は滅びる」という理解であり、応報思想とも呼ばれます。

 

 この考え方にしたがって、イスラエルは、紀元前587年に起きたバビロニアによるエルサレム破壊を、自分たちが契約を無視した結果、神様から制裁が下されたと理解しました。神様に宝の民として選ばれたはずの自分たちが、なぜ敵の国に滅ぼされ、捕囚の民とならなければいけないのか……その疑問に対する答えとして、人々は自分たちの罪に焦点を当てたのです。

 

 この流れに従うならば、私たちも今直面している災いを「自分たちの罪ゆえに神様から制裁が下された」と理解すべきなのでしょうか? 申命記は繰り返し、人々に歴史を思い起こさせます。そうすることで、過去の危機は全て神様の計画であり、自分たちを訓練する機会であったと捉えさせ、現在の危機は神様に従う決断と服従の機会である……そう理解するよう、促してきました。

 

 では、私たちもこの機会に、悔い改めを要求されるのでしょうか? 建物が崩れ、子どもが下敷きになり、家が流され、親がいなくなる……これらは私たちの信仰を訓練するために神様が与えられた機会である、そう捉えるべきなのでしょうか? はっきり言って、私には無理です。被害を受け、友人や家族を失い、自分が生きていることにさえ罪悪感を抱いている人たちに「あなたの罪を悔い改めよ」なんて言えません。

 

 もし、自分が被害を受けてそう言われても傷つくだけです。そうか、私が悪いのか、なんなら死のう……そう考えてしまうかもしれません。怒ることができるならまだマシでしょう。悔い改めの要求は、希望が枯渇している人たちにとって、暴力でしかないのです。ただの死をもたらす言葉です。キリスト教は、そんなやり方を選択するべきなのでしょうか? それが正しい姿勢なのでしょうか?

 

【呪いを受けた方】

 いいえ、違います。イエス様は人々に悔い改めるよう求めたとき、まず希望から語りました。「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」……悔い改めれば、神の国に近づけると言ったのではありません。神の国が近づいたから、あなたも悔い改めなさいと言ったのです。それどころか、イエス様は私たちが受けるべき神様の呪いを、全て引き受けてくださいました。ガラテヤの信徒への手紙3章13節に、こんな言葉が出てきます。

 

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」……何一つ罪を犯さなかったのに、罪人として十字架にかけられたイエス・キリスト……このように、人が木にかけられる、木の上に吊るされるというのは、その人が呪いを受けたことを象徴する出来事でした。

 

 まさに、イエス様は十字架という木の柱に吊るされて、全ての人の代わりに、神様からの呪いを、罰を受けます。自分たちが「守る」と約束した契約を破ってしまった人間が、神様との正しい関係を回復できるように、イエス様は全ての罪を贖ってくださいました。そして、回復するはずのなかった関係が元に戻ることを、ご自分の復活によって示してくださったのです。

 

 申命記30章3節には「あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」と語られています。「あなたの運命を回復し」という言葉は、厳密には「あなたの捕囚を元に戻し」と訳されるところです。

 

 罪に囚われ、神様から離れ、壊されていた関係が元に戻る……そのために、神様は独り子であるイエス様をこの世に送ってくださいました。私たちを滅ぼすためではなく、回復するために!

 

 もはや、私たちの身に起きるのは、罪に対する罰や呪いではありません。神様は人々の悪を、洪水や地震や戦争で裁こうとはされません。神様が悪事を働く人々に行うのは、自分に立ち返るよう、呼びかけることです。あなたのために呪いを受けた、十字架にかかった、私の子であるイエスを信じなさい。あなたのことも回復しようとしていることを知りなさい。あなたも私に立ち返り、回復の道を歩みなさい……と。

 

 それでも、私たちが何か大きな災害を、恐ろしい事件を、神様からの罰や呪いとして受けとめるなら……私たちのために十字架にかかってくださったイエス様を、全否定することになるでしょう。

 

【心に割礼を施す】

 パウロは、神様が全てを益としてくださることを手紙に書き残しています。大きな災いや事件は私たちを傷つけます。しかし、それすら神様は新しい命、新しい生き方をもたらすために用います。キリスト者にとって、災いはただの苦しみではありません。罰や呪いでもありません。絶望が希望に変えられる、ありえない回復と変化が起きる、私たちの心に「割礼」が施されるときなのです。

 

 割礼……それは男性の生殖器から包皮を切り取る行為でした。たいへんな痛みを伴う儀式でした。律法を遵守する民であることを示す代表的な行為でした。しかし、それは形式的なものになりがちでした。見た目は神様を礼拝していても、心は偶像や他のものに向いてしまう。けれども、神様は自ら、人々の心に割礼を施し、あなたは神の民であると示します。

 

 私たちが心に強い痛みを覚えるとき、それはただの痛みではなく、私たちが神様の民とされる痛みでもあります。心を尽くし、魂を尽くして、主を愛することができるように、主から命を得ることができるようにされる……そんな痛みです。痛みは神様から罰を受けている、呪いを受けている証拠ではありません。その痛みは、あなたが神の民とされ、神様もあなたと共に感じている……そんな痛みなのです。

 

 先月、私の就任式がこの教会で行われたとき、名古屋からお世話になった先輩の牧師が来てくださいました。私が高校生だった頃、神学部の主催する献身キャンプで講師をしてくれた先生でもあります。実はこの先生は、阪神淡路大震災をはじめとして、自分が行く所行く所で何度も、震災に遭ってきた人でした。

 

 最初は学生のとき、地震で住んでいる家が壊れました。次は自分が牧師としてやってきた教会で被害に遭いました。その次も転任した教会でまた地震が起きました。まるで自分が疫病神のような気分になったそうです。さすがに、3回目に震災があった時は、思わず友人の牧師に弱音を吐きました。何で自分は地震を引き寄せてしまうのか? 何で神様は自分の行く所に地震を起こすのか? 自分は呪われているのだろうか?

 

 すると、電話で先生の話を聞いていた相手は、ポツリとこう呟いたそうです。「そうか、君は震災が起きる所に、いつも必要とされているんだね……」心に痛みを覚えていたその先生はハッとしました。神様は私を呪っているから地震を起こしてきたわけじゃない。地震の起こる所に「あなたが必要だ」と言って、私を遣わしていきのだと。

 

 「あなたは立ち返って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる」……人間が、自分からはできないことを、神様はその人の心に働きかけて、実現させてしまいます。痛みや苦しみをそのままにはされず、私たちを新しく生かす命に変えてしまいます。恵みに変えてしまいます。それは私たちががんばって起きることではありません。神様の方からしてくださることなのです。

 

 受け入れがたい、辛い出来事を前にしたとき、この言葉を繰り返し思い出したいと思います。神様は、あなたを回復し、あなたを憐れみ、追い散らされたすべての人を再び集めてくださいます。