礼拝メッセージ 2018年10月7日
【世界宣教の日】
先週の月曜日、私の見ているTwitterのタイムラインが、眼鏡の写真やイラストで埋め尽くされてしまう事件がありました。いったい何事だろう? と思ったら、どうも10月1日は「眼鏡の日」だったらしく、それに乗じて色んな人が、自慢の眼鏡をUPしていたようなのです。
その3日後、今度は天使のイラストや漫画が、Twitterの画面を埋め尽くしていました。ははーん、たぶん今度は「天使の日」だな……と思ったら、案の定そうでした。ちなみに昨日は「アウトドアスポーツの日」、私に一番馴染みのない、似合っていない日だったかもしれません。そして今日、皆さんは何の日を迎えたか分かるでしょうか?
いつもみたいに週報を見れば書いてある、と思ったかもしれませんが、残念ながら載せていません。ここで皆さんに聞くために、と言いたいところですが、単に私が載せ忘れただけです。さあ、分かる方はいらっしゃるでしょうか? 何人か小さく口を動かしているのが見えました。そうです、今日はキリスト教会にとって大切な日「世界宣教の日」です。
世界宣教、易しい言葉で言えば、世界中に神様やイエス様のことを宣べ伝える働き、つまりは伝道です。「ああ、だから今日は使徒言行録の箇所が読まれたのか」……勘の良い方は、すぐそう思われたかもしれません。そのとおりです。使徒言行録は、イエス様が天に昇られた後、弟子たちが世界中を回って、神様のことを伝えた世界宣教の記録だからです。
問題は、その道がかなり険しい道だったということです。先ほど読まれた5章27節の直前では、弟子たちが激しい迫害に遭って、大祭司やサドカイ派の人々に捕まってしまったことが書かれていました。逮捕され、投獄されたのです。ところが夜中になると、主の天使が牢の中に現れ、戸を開けてこっそりと弟子たちを連れ出します。
「ああ、よかった。これで無事に逃げられる」と思いきや、彼らは天使にこう言われました。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」……神殿の境内は、まさに自分たちを捕まえた祭司長やサドカイ派がウロウロしている敵の本拠地です。 せっかく牢屋から解放されたのに、「また捕まれ」と言われているようなものです。
にもかかわらず、弟子たちは素直に天使の言葉に従って、夜明けごろ、境内に入ってイエス様の復活について語り始めます。案の定、それを見つけた人の一人が、祭司長たちのところへ行って告げ口します。「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています!」
祭司長たちも面食らったでしょう。空っぽになった牢を見て、逃げられたと慌てていたのに、愚かにも自分たちの目と鼻の先でキリストのことを語っている。いったい何を考えているのか謎だったに違いありません。下手をすれば、今度は逃げられないよう迅速に裁かれ、処刑されてしまうかもしれない。イエス様のように十字架にかけられてしまうかもしれない。それでも天使の言うことに従った弟子たち……正気の沙汰とは思えません。
【神に従うって?】
もちろん、この後に待っているのは、穏やかな風景ではありませんでした。再び捕えられた弟子たちは、最高法院に連れて行かれ、大祭司に尋問を受けます。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている!」
あの名によって教えてはならない……何とも怪しい響きです。イギリスのベストセラー、『ハリー・ポッター』に出てくる悪役「名前を言ってはいけないあの人」を思い出させます。大祭司がそこまで恐れ、名前を言うのを避けた人物とは誰だったのでしょう? そう、皆さんよくご存知の方、祭司長たちが民衆を扇動して「殺せ」と促し、十字架につけて処刑してしまった、神の子、イエス・キリストです。
当時、貧しい人や病人を癒し、為政者や聖職者を批判したイエス様の教えは、イスラエルの中で大きな衝撃をもたらし、ユダヤ教の正統派からは異端と思われていました。その教えがどんどん広まるにつれ、祭司長たちは危機感を募らせ、「あの名によって誰にも話すな」と繰り返し弟子たちを脅していたのです。
けれども、祭司長の言葉に、弟子たちは皆答えます。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と。なるほど、確かに人間よりも神様に従う方が正しいに決まっています。過ちや失敗を繰り返す人間よりも、よっぽど信頼できる方のはずです。ただ問題は、この言葉を返された祭司長たち、サドカイ派の人たちも皆「神様に従っているつもり」だったということです。
キリスト教の世界でも、あちこちでこんなやりとりが交わされます。「あなたのやり方はなってない。ちゃんと神様に従いなさい」「いやいや、あなたこそ神様に従いなさい」……いったい、私たちは何に従っているのでしょう? 自分こそ神様に従っている、自分こそ正統的な教えに立っている、自分こそ神様の言葉を実践している。そう考えて、誰かのことを批判し、特定のグループを否定します。
しかし、ちょっと我に返ってみましょう。今、私たちは何に従っているのでしょうか? 神様と言いつつ、自分の思う正しさに従っているだけじゃないでしょうか? 「じゃあ先生、いったいどうすれば神様に従っていると言えるのですか? 何に従えばいいのですか?」そう言われると、私も困ります。私自身も、自分の思う正しさに従って、それを神様に従っていると勘違いしてしまうことがあるからです。
【神からか人からか】
世界宣教が始まった当初、この勘違いを非常に警戒し、誠実に対応しようとした人がいました。衝撃的なことに、それはイエス様と度々対立してきたファリサイ派の一人、ガマリエルという人物です。彼は、使徒たちを殺そうと考える人々を静まらせ、議員たちにこう言います。
「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい……あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」そう言って、イエス様の弟子たちから手を引き、ほうっておくように促すのです。
彼がこう考えたのは、二つの歴史を知っていたからです。一つは、テウダ事件と言われるもので、自らを預言者と称したテウダが民衆を誘導し、ユダヤ総督に反乱を起こした出来事です。彼は、「自分が命じればヨルダン川が二つに分かれ、簡単に通ることができる」と言って群衆を率いていきましたが、多くの者は、総督の派遣した騎兵隊によって殺され、テウダ自身も捕えられ、処刑されてしまいました。
また、もう一つは、ガリラヤのユダ事件と呼ばれるもので、ローマによる税金徴収を目的とした人口調査に反対し、人々を解放戦争へと駆り立てた出来事です。この騒動でリーダーシップを取っていたユダは、テウダよりも巧みに味方を集めましたが、結局は有効な結果を得られませんでした。むしろ、反乱は間もなく鎮圧され、彼の息子たちが十字架につけられて殺されるという結果に終わります。
ただ、ちょっと気になるのは、どちらの事件も、著者が書いている年代とは、異なる時代の出来事だと言うことです。いずれにしても、人間から出た計画なら、このように自滅するだろうし、神様から出た計画なら、滅ぼすことはできないだろう、と言おうとしています。ただしガマリエルは、単に「結果が分かるまでほうっておけ」と言ったわけではありません。直接口には出しませんが、意図的に核心のついた警告をしているのです。
なぜなら、テウダやユダの起こした運動と、弟子たちの宣教活動とは、決定的に違うものがあることに気づかされるからです。それは、運動を始めた指導者は、テウダやユダのように、既に処刑されているにもかかわらず、なお、その活動が続いているという事実です。
弟子たちのリーダーであったイエス様は、祭司長たちの誘導によって十字架につけられ、群衆の目の前で殺されていました。にもかかわらず、その運動は弟子たちによってますます大きくなっていきました。彼らは、死んでから三日目に復活したイエス様と出会い、その後も聖霊を受けて、常に力を注がれていたからです。
実は、ガマリエルの台詞自体に、その確信が現れています。原文で「もし、あの計画や行動が人間から出たものなら」という台詞に出てくる「もし」は、可能性を表すギリシャ語が使われています。一方、「もし、神から出たものであれば」の「もし」には、現実を表すギリシャ語が使われているのです。つまり、弟子たちの行動は、人間の自分勝手な思いからではなく、神様の意志から出たものであると、言外に語っているのです。
また、「あの者たちから手を引きなさい」という38節の言葉は、イエス様をユダヤ人たちに引き渡そうとするピラトに対し、「あの正しい人に関係しないでください」と言った彼の妻を思い出させます。さらに、「ほうっておくがよい」というガマリエルの言葉も、彼女がイエス様を放免するよう、夫に警告した態度と重なってきます。
ユダヤ人の基準から言えば、ローマ総督の都合から言えば、滅ぼしてしまうのが正解だった人物……それが、イエス様や、その弟子たちとして描かれます。私たちも、自分の基準から言えば、自分の聖書の読み方から言えば、裁かれるべきと思っている相手が、実は、神様に従っている者なのかもしれません。
「諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ!」という警告は、自分の意志と神様の意志を混同してしまいやすい私たちに、むしろ自分の方が神様に逆らっていないか? 都合よく「神に従え」と言っていないか? 踏みとどまって考える力を与えてくるのです。そして、冷静に、慎重に、神様の意志を尋ね求め、その計画に用いられる、宣教の道へと、立ち返らせてくれるのです。
【更新される信仰】
弟子たちを殺そうとする人々を冷静に宥め、神様に逆らうことを恐れて、誠実に対応したガマリエル……彼の名前は22章3節にも出てきます。そう、実は律法の教師である彼から教育を受け、後に回心してキリスト者となり、新しく異邦人伝道に従事するようになった者がいました。その名はパウロ、キリスト教を世界中に広めた宣教者です。
パウロもまた、神様に従っているつもりで、自分の正しさに従っていた人物でした。聖書に記された律法を忠実に守り、熱心に勉強し、教えに反対する者とは全力で戦う……そんな正義感溢れる人物でした。この後、処刑されるステファノの殺害にも賛成し、積極的にキリスト者を捕えて回っていました。師匠のガマリエルとはだいぶ離れた態度です。
ところが、そんな彼に対しても、復活の主イエス・キリストは現れます。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」そう言って呼びかけ、神に逆らう者から、従う者となるよう促します。そして、彼の敵対していた弟子たちと共に、宣教の業へと遣わしていくのです。
私たちが、宣教の業へ遣わされるとき、神様のことを伝えるとき、一番ショックを受けるのは、自分が神様に従っていない現実を突きつけられることです。自分が敵だと思っていた人たちが、実は神様に用いられていると気づかされるときです。神様は、イエス様と敵対していたファリサイ派の中からも、キリスト者を迫害していたユダヤ人の中からも、主に従う道を与えられました。
私の嫌いな人からも、あなたが憎む人からも、折り合いのつかないグループからも、次々と人を導いてくのです。時に、もう従っているつもりの私やあなたに、間違いを突き付けてながら……世界宣教が進むにつれて、キリスト者の中には、様々な立場が生まれていきました。
伝統に対する姿勢、異邦人に対する姿勢、聖書の読み方に対する姿勢……それらの違いが、多くの分裂を生み出していきました。使徒たちの間でさえ、「あなたは神に従っていない」「私こそ神様に従っている」という論争が起きました。繰り返し、神様と自分の正しさを混同する事件が起きました。それでも、信仰者はイエス・キリストの名のもとに一つとなって、毎週同じ日に、神様への礼拝をささげてきました。
主義も思想も立場も違う、出身や階級、文化だって違う、一致するのがありえない人たちに、神様は一つとなる道を与えました。共に祈り、賛美をし、パンと杯を分け合って、神の家族となる道を。誰かを自分の正しさに従わせる道ではなく、神様の計画やご意志を共に尋ね合っていく道を。
今日は世界宣教の日であると共に、世界聖餐日でもあります。私たちのために十字架にかかり、復活してくださったイエス様のことを思い起こし、共に食事にあずかりながら、神様に従う道を、尋ね求めていきましょう。