ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

キリスト教とLGBT(2)

お待たせしました。「キリスト教とLGBT」についての記事、第2弾です。

 

前回の「キリスト教とLGBT(1)」では、主に様々なセクシュアリティーの紹介をさせていただいたので、今回はキリスト教会がLGBT、特に同性愛についてどのような姿勢・考え方をとってきたのかを中心に書かせていただこうと思います*1

 

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【同性愛に対する教派ごとの姿勢】

さて、多くの人は「キリスト教は同性愛に否定的」という印象が強いのではないかと思います。正教会やカトリック教会では、公式に同性愛の行為・結婚を認めていませんし、プロテスタント教会でも同性愛を認めることに反対するデモや声明が度々出されています。

 

では、「同性愛に肯定的な教会は存在しないのか?」と言えば、実はけっこうたくさんあるのです。アメリカ合衆国だけを見ても、同性愛者が結婚すること、聖職者になるための按手を受けること、教会員になること、公民権を持つことについて肯定的な主張をしている教会はいくつもあります。

 

1968年に設立されたメトロポリタン・コミュニティ教会は、ほとんどの教会員がレズビアンかゲイの人々で、牧師も例外ではありません。

 

メインラインと呼ばれるかつては主流派だったキリスト教会の中でも、合同キリスト教会というところは社会福音的関心が強く、同性愛の結婚・按手を積極的に認めています。クェーカー派の流れを組むフレンド教会も、同性愛をはじめとする抑圧された人々の生きやすい社会を目指しています。

 

また、聖公会も、同性愛者が聖職者になることを比較的積極的に受け入れてきました。アメリカ以外で有名なのは、教会ごとに同性愛の結婚を認めるかどうかの判断が任されているカナダ合同教会です。

 

国内では、教団内で今なお議論はありますが、日本基督教団が同性愛者や性同一性障害の牧師に按手を授けています。

 

このように、同性愛を肯定的に捉えている、受容している教会は意外とたくさん存在します。ただし、キリスト教界の中で多数派とは言えないのが現状です。

 

一方、同性愛に否定的で、排除する傾向の強いプロテスタント教会は、主に福音派と呼ばれるグループに多いです。また、長老派・改革派の教会も、同性愛者を教会員として受け入れることはあっても、聖職者になるための按手を授けることには消極的です。

 

もちろん、これらは大きなグループで見た話であって、そこに属する個々の教会・信徒によっては、違う態度や方針を取ることもあります。

 

たとえば、日本の福音派の中でLGBTに理解を示す人たちは依然マイノリティーとは思われますが、米国の保守的な福音派とはちょっと違った感覚を持っています(以下、次章までの内容は、日本ホーリネス教団の方からご指摘・補足をいただき、2020年3月25日に追記させていただきました)。

 

例として、日本ホーリネス教団の東京聖書学院では、LGBTの神学生も受け入れられています。また、日本福音同盟神学委員会によるブックレット『聖書信仰の成熟を目指して』の中でもLGBTに関する章が記され、受容的な主張がされています。

 

2019年には、東京ミッション研究所でLGBTに関する理解を促すフォーラムも開催されました。

 

米国の福音派における「同性愛? 罪でしょ」といった保守派とは一線を画す視点で書かれた "Love is an Orientation" の翻訳も、2020年5月にいのちのことば社から発行されました*2。このように、少しずつではありますが、福音派の論調も徐々に変わってきています。

 

【カール・バルトの影響】

ちなみに、同性愛の排除を唱えるキリスト教会の論理は、だいたいが改革派に属していたカール・バルトの『教会教義学』における「創造の秩序論」に影響を受けていると思われます。

 

そこで、いきなりバルトの「創造の秩序論」を紹介する前に、一つ問題です。

 

次のような意見があります。

 

(1)不妊の相手との結婚は認められない。

(2)障害者の相手との結婚は認められない。

(3)高齢者になってからの結婚は認められない。

 

これらの意見について、なぜそのような立場が出たのか、理由を考えてみてください。その上で、あなたはこの意見に賛成か反対かを決めてください。

 

それではまず、(1)から(3)までの意見は、どんな理由から出たものと考えられるでしょうか?

 

……そう、3つとも共通しているのは「子どもができないから」あるいは「子どもを育てるのが困難だから」という理由です。

 

では、その理由を踏まえた上で、これらの意見に賛成でしょうか? 反対でしょうか? ちょっと考えて見てください。

 

それでは、一旦バルトに戻りましょう。『福音と世界』という雑誌の1993年6月号で紹介されているウィリアム・メンセンディクの「キリスト教は同性愛をどう見るか」によれば、バルトは以下のように同性愛を否定しています。

 

「男も女も、異性との人格的関係においてのみ、完全な人間性に到達することができる。生殖のための性は、神の定めたもうた規範である。同性の内に人間性を求めるのは、自己愛であり偶像崇拝である。同性愛的行動は被造物性を拒否することになるのだ」

 

カトリック教会からも同じような考え方が見受けられます。結婚は、性と生殖力が不可欠であり、異性の相手とのみ許される。したがって、人工避妊の実施や同性愛の行動は認められない……そういった認識が今もまだ続いています。

 

ようするに生殖に繋がらない性行動は、生物学的に見ても非合理的だから認められない……そういう話になるわけです。

 

確かに創世記にも「産めよ、増えよ*3」と命じられた神様の言葉があるので、それに反する在り方として、分からなくはありません。

 

けれども、先ほどの問題を振り返ってみましょう。

 

「生殖に繋がらないから」という理由で、同性愛の行為や結婚を否定する場合、不妊の相手、障害者、高齢者との結婚や性行為も全て否定されることになります。もちろん、不妊の相手同士、障害者同士、高齢者同士の場合であっても同様です。

 

なにしろ「生産性がない」わけですから……どこかで聞いた台詞を思い出しますね。実は、同性愛を否定しているキリスト教会の根拠は、あの議員の発言とそんなに変わらない、けっこう問題のある論理だった……ということが分かってくるかと思います。

 

しかし、現在でも教会で「性の乱れ」という言葉が叫ばれるとき、生殖に繋がる男と女という関係が当たり前であり、それ以外の性自認や性的指向はただの混乱、性的欲求の暴走という意識が根強くあります。

 

 

【聖書は性について何を語る?】

それでは、聖書は性についてどう語るのでしょう? ご存知のとおり、キリスト教徒が同性愛を排除・否定するとき、必ずと言っていいほど聖書の記述が根拠にされます。では、聖書を書いた、編集した人たちは、いったいLGBTについてどう考えていたのでしょう?

 

これについては、「ある部分は同性愛を認める人たちが書いた、ある部分はそうでない人たちが書いた」といった意見があったり、「同性愛をはじめとするLGBTをまだ認知していない人たちが書いた」といった意見もあります。

 

「だから、聖書は明確に同性愛を否定しているわけではない、排除するわけではない」……と続くわけですが、私自身は、もし聖書を書いた著者に直接LGBTについて意見を求めることができたら、たぶんほとんどの著者が否定的な答えを返すだろうと思っています。

 

なぜなら、聖書を構成しているどの書にも、異性愛主義や家父長的枠組み、男性中心主義の思想が至るところに滲み出ているからです。

 

ただし、男尊女卑的な記述が目立つ中で、唐突に女性の活躍が記されたり、女性蔑視的な表現がある中で、なぜか家父長制を超える思想が展開される場面も出てきます。

 

現代の私たちと同じように、排他的思想や偏見を持った人間が記した文書の中に、その人の思いを超える、思想を超える記述が時折出てくる……このことはけっこう重要だと思うのです。

 

それを踏まえた上で、同性愛に批判的・否定的と思われるいくつかの聖書箇所から、議論を展開してみたいと思います。

 

【同性愛は創造されてない?】

まず、バルトの「創造の秩序論」でもちょっと触れた創世記1章27節の記述です。

 

「神は御自分をかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」

 

ここではっきり、人は「男と女に創造された」と書いてある。「LGBTを創った」とは書かれていない! そう主張されることがあります。

 

実際そのとおりです。聖書には神様が男と女以外のあり方を造ったとは書かれていません。ここで肯定されているのは「男」と「女」という2つの存在だけです。

 

ただし、創世記に書かれている在り方だけを自然な存在と認めるなら、ちょっとおかしな話も出てきます。

 

前回も話しましたが、少し前の1章20節には、「鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」と命じた神様の言葉が記されています。

 

ところが、世の中の全ての鳥はこの在り方に従っているわけではありません。南極にいるペンギンという鳥は水の中を泳いでいます。

 

彼らは聖書に書かれていない在り方をとる、不自然な、神様の言うことを聞かなかった存在です。したがって、鳥としてあってはならない、排除するべきものたちです。今すぐ矯正して地の上か空の上を飛ぶよう導かなければなりません!……とはならないですよね?

 

私たちは、人が「男と女に創造された」と聖書に書いてあるから、そうでない同性愛者を否定・排除してしまうのではないのです。自分の中にある倫理観や嫌悪感を後押しする材料になるから、この言葉を用いて彼らを排除するのです。

 

【同性愛は禁じられている?】

でも、神様は同性愛の行為をはっきり禁じている!……そう言われるかもしれません。そのとおりです。実際、レビ記18章22節には、「女と寝るように男と寝てはならない」と書いてあります。

 

新約でも、コリントの信徒への手紙一6章9節で、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。淫らな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒に溺れる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」と書いてあります。

 

ここで、色々と翻訳の問題を指摘して、「これは同性愛の否定ではない。『男娼』や『男色』というのは、女装をする男性や、柔弱で好色な男性、少年の受け身のパートナーを意味するのだ」と主張されることもありますが、ちょっと苦しいものがあります。

 

それにまた別の問題、異性装やあるべき男性像に当てはまらない人たちへの否定につながってしまいます。

 

私はまず、聖書には同性愛を否定・排除する文句が書かれていると、一旦受けとめるところから始めたらどうかと思うのです。

 

その上で、「聖書に書かれているから」という理由だけで本当に断罪していいのか、慎重に見極める必要があると思います。

 

これも以前書きましたが、申命記22章24節には、婚約者のいる女性が町の中でレイプされた場合、レイプした男性と共に、被害者の女性も死刑にしなければならないと記されています。

 

理由はこうです。「その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである」……実際には、「叫べば殺す」と脅されたら、女性であろうが男性であろうが震えて耐えるしかない人が圧倒的に多いと思います。

 

おそらく、ほとんどの人はこの聖句のとおり、助けを呼べずにレイプされた女性を死刑にするべきだとは思わないでしょう。自分の中にある倫理観・道徳的感覚で許容できないからです。

 

しかし、「聖書に書いてあるから」同性愛を排除するのが正しいのであれば、「聖書に書いてあるから」レイプされた女性を死刑にすることも正しいことなのです。

 

このように、「聖書に書いてあるから」という理由は、信仰者として正しいようで、実は大きな危険を孕んでいます。

 

私たちは、どんな事柄についても「聖書のみを根拠にして」行動することはできません。必ず自分自身の倫理観や道徳的感覚、偏見や嫌悪感が介入してきます。

 

「そんなことはない」「自分は聖書だけを根拠にしている」という人間は、正直、高慢だと思います。

 

聖書を根拠にある行動を促すこと、自分の正しさを主張することは、イエス・キリストを誘惑した悪魔だってやっていたことです*4

 

誰かを裁き、排除する際、聖書を根拠としているときにこそ、自分が何を理由に断罪しているか、真摯に問い直す必要があると思うのです。

 

【イエス・キリストとLGBT】

最後に、イエス・キリストならLGBTの当事者とどう接したかを考えてみたいと思います。

 

もともと、キリストが生まれたユダヤ社会は、障害者や病人といった存在が礼拝、「祭儀」に参加することを禁じており、健常者が触れることも許されていない時代でした。

 

なぜなら、これも「旧約聖書に書いてある」ことだったからです。しかし、イエス自身は、彼らに直接触れて癒したり、自分についてくるよう呼びかけます。

 

また、律法を守れない職業に就いていた羊飼い、罪人と呼ばれていた徴税人たちとも、度々食事をし、あろうことか自分の弟子にまでされました。

 

イエス自身が、「聖書に書いてあるから」という理由で批判されそうな行動をいくつもとっていきました。

 

書いてあることを守ればいい、律法に従ってさえいれば正しい、そう考えて一つ一つの事柄に「神様どうすればいいですか?」と問わなくなっていた人たちへ、大きなショックを与えました。

 

彼らもキリストの行動を見て、「神様これは許されるのですか?」「なぜですか?」と問わざる得なくなりました。

 

固定化された規範を崩していく、新たな問いを与えることで、人と人との関係を回復しようとするキリストの姿が見えてきます。今まで重視されなかった、大切に扱われなかった人々が、存在的価値を取り戻されていくのです。

 

その中の一つに、過越の食事を準備するシーン、マルコによる福音書14章12節から16節が挙げられます。長くなりますが、『聖書 新共同訳』から少し引用したいと思います。

 

徐酵祭の第一日、すなわち過越の子羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

 

ここは、イエスが十字架につけられる前、最後の晩餐をするための用意がされる、重要なシーンです。ところがここに出てくるのは、当時の社会でも珍しかった、ジェンダーの枠組みに当てはまらない人物です。

 

えっ、そんな人いる? と思ったでしょう。誰かと言うと、13節の「水がめを運んでいる男」のことです。

 

なぜ、彼が当時のジェンダーの枠組みから外れているか、分かるでしょうか? もちろん、運んでいるものがヒントなのですが……そう、本来「水がめ」は男性ではなく、女性が運ぶものでした。

 

男性が水を運ぶ場合、皮袋に入れるのが自然です。たとえるなら、男性が女性もののカバンを持っている。男性がハイヒールを履いて歩いている、といった感じです。かなり目立ちます。

 

だからこそ、イエスから「水がめを運んでいる男についていけ」と言われて、弟子たちはすぐに彼を見つけることができたわけです。

 

単に、皮袋を持つことのできない貧しい家だったから、代わりに水がめを使ったのでは? と思うかもしれません。

 

しかし、この家の主人は、裕福な象徴であった二階建ての家、それも「席が整った」つまり、「敷物が敷かれた」豪華な部屋を持つことができた人物でした。

 

とても皮袋を買えない貧しい家とは思えません。逆に、水がめしかないなら、男性の僕ではなく女性の僕を行かせるのではないでしょうか? 「あの家の僕は男なのに女のように水がめを運んでいた」と噂されるわけですから。

 

奇妙なことに、当時の「男女」の枠組みから外れるあり方を見せたこの男性は、弟子たちを最後の晩餐をする家へ案内することになりました。

 

その晩餐は、キリスト教の聖餐式を形作った「主の晩餐」です。最初の聖餐式が、他人からは奇異に見られる、「クィア」な人物によって準備されたわけです。

 

今日、教会でキリストの十字架と復活を思い起こす聖餐式ができるのは、この人によって弟子たちが案内されたからでした。「この人についていけ」とイエスが命じたからでした。

 

今、世の中においても、教会においても、性的マイノリティへの迫害は厳しくなっています。その中で、こういった出来事も聖書に記されていることを、もう一度思い出したいのです。

 

果たして、同性愛をはじめとするLGBTを排除するのが、キリスト教として正しいのか? 病人や障害者、貧しい者や外国人を排除したファリサイ派、律法学者、サドカイ派といった人々と何が違うのか?

 

… …私には根拠の建て方も排除の仕方も、キリストと敵対した彼らと何ら変わらないように思うのです。

 

むしろ、神もキリストも、多様な性を受けた人たちに愛と祝福を注いでいる。励ましと回復を与えられる。私はそう信じています。

 

日本基督教団 華陽教会

牧師 柳本伸良

*1:以下の米国プロテスタント諸教派についての記述は、インターネット上に公開されている2000年5月27日に東京ウィメンズ・プラザで発表された村上隆則先生のレジュメ、『キリスト教と同性愛—米国プロテスタントの事例から』を主に参照させていただいた

*2:アンドリュー・マーリン 著、岡谷和作 訳『LGBTと聖書の福音 それは罪か、選択の自由か』いのちのことば社、2020年。

*3:創世記1:28

*4:マタイによる福音書4:1〜11